NHK札幌放送局

縄文ブームは 「ふつう」に生きた人間への“共感”

番組スタッフ

2021年8月17日(火)午後7時34分 更新

7月27日、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産に登録されました。ここ数年、巷でも「縄文ブーム」が起こるなど、縄文文化はかつてない注目を集めています。 改めて、なぜ今「縄文」なのか? 縄文遺跡群の世界遺産登録に尽力した阿部 千春さんに話を聞きました。(聞き手・NHK札幌 ディレクター 趙 顯豎)

阿部 千春(あべ・ちはる)
北海道環境生活部縄文世界遺産推進室・特別研究員。北海道赤平市出身。大学で考古学を専攻。1989年から旧・南茅部町で、2004年の合併以降は函館市で遺跡の発掘調査を行う。また、中空土偶の国宝指定や、縄文遺跡群の世界遺産登録推進など、縄文文化の保存・普及活動に深く携わる。2011年函館市縄文文化交流センター館長。2015年6月から現職。

地域の人たちが支える世界遺産

―世界遺産に登録されてから半月ほどが経ちましたが、周囲でどのような反響がありましたか?

阿部:今回、世界遺産の登録が決まって、一番喜んでいるのは、私たち専門家よりも、地域の人たちでした。しかもずっと発掘調査に携わっておられた人たちが一番喜んでいるという感じでした。

―やはり地元の人の喜びは大きかったですか。

阿部:そうですね。今回、世界遺産にも含まれている函館市の2つの遺跡(垣ノ島遺跡と大船遺跡)というのは、もともと合併前の南茅部町というところから出た遺跡です。南茅部町では、昭和48年(1973年)から発掘調査をずーっと行ってきて、こんなに発掘調査をやっているところはないんじゃないかとも思うんですが、実は、そこで発掘調査に来てくれている作業員さんというのは、地域のお母さんたちなんですよ。

―えっ。お母さんたちが?

阿部:はい。なので、発掘調査でこんなものがでた、こんなものが見つかった、というのが食卓の話題になるんです。南茅部では、「縄文」というのが地域にあって当たり前のような、生活と密着した文化という感じなんですよ。ただ、これまでそうした陰ながら発掘調査を支えてきた人たちの存在はあまり知られていませんでした。

―そのお母さんたちは、もともと考古学の「素地」のようなものがあったのですか?

阿部:いや、それがまったくないんです(笑)。漁師の奥様がほとんどですから。みんな朝に昆布とりをしてから、発掘現場にやってくるという非常にタフな方たちなんです。僕は平成元年から平成26年まで、南茅部でずっと発掘調査をしていましたので、まさにお母さんたちと一緒に発掘をして泣いたり笑ったりして過ごしていました。

―遺跡の発掘調査に地元のお母さんたちがかけつけるというのは、すごく面白いですね。

阿部:みなさん浜の母さんたちですから、大変行動力があってパワフルなんです(笑)。
やっぱり、経験者の人たちがいて、僕が入ったときにすでに20年ぐらいやっている人たちもいましたから、だんだん世代は交代していきましたけども、そういう中で新しいお母さんも、先輩のお母さんから教えられて、だんだんレベルがあがっていくんです。

「ふつうの人」にこそささる縄文文化

―そういうお母さんたち、専門家でない人にとってシンパシーを得やすい要素が、縄文文化の中にあるんでしょうか。

阿部:縄文文化というのは要するに、私たちのような「ふつうの人」が残してきた1万年の生活の積み重ねですよね。ですから、そこには人類としての根源的な価値があるんだろうと思っています。

―「人類としての根源的な価値」というと。

阿部:例えば、人間が自然の一員として暮らすとか、自然に対して謙虚に向き合うとかですね。あとは、貝塚とか盛土遺構とかからわかるのは、命あるすべてのものを尊重する、感謝するというような考え方とか。そういう感覚というのは、人間が本来的に持っているものですよね。そういうものの大切にする姿勢が縄文にはあって、それが多くの人に届いているんだと思います。

縄文人が残した遺物の中には、確かに、命を尊重する感性を感じさせてくれるものがあります。例えば、洞爺湖町の入江貝塚の、ポリオなどにかかって介護をされながら暮らしたと考えられる人骨や、函館市の垣ノ島遺跡の、亡くなった子供の足型がついた土板などがその一例です。

【入江貝塚 ポリオに罹患した縄文人の人骨】

【垣ノ島遺跡 足形付土版】

―個人的な印象ですが、縄文時代の遺物からは、人がそこに確かに生きていたという“リアリティ”を、強烈に感じることがあります。なぜなんでしょうか。

阿部:やっぱり、必死に生きていたというのがものを通じて伝わってくるんじゃないのかなという感じがしますね。だから、足形付土板が出土したときも私が現場にいたんですが、それを手にとって、お母さんたちは、やっぱり涙を流していたんですよね。そのぐらい、当時の生活、当時の人の気持とシンクロしてしまうところはありますよね。

そのお母さんたちの涙っていうのは、感動というか共感ということに近いんでしょうか。

阿部:そうだと思いますね。自分たちと同じなんだと。世界遺産の中には、同じ先史時代でも、エジプトのメンフィスのピラミッドであるとか、インダス文明のモヘンジョダロとか、パッと一目見ただけですごいとわかる荘厳な建造物とか遺跡とかっていうのもありますよね。一方で、縄文遺跡っていうのは、先ほどもいったよう、その多くが日々の生活の小さな痕跡なわけですよね。しかも、縄文遺跡は、ピラミッドのように特別な人、権力のある人のためのものではなく、私たちとおなじようなふつうの人びとが暮らしの痕跡なので、すごく親近感が湧くのではないかなと思います。

なるほど。自然に対する謙虚な態度とか、病気の仲間を支えたり、子供の死を悼んだり、一人一人の命を尊重する縄文のあり方に、人間としての「親近感」を抱く、と。 何かとても腑に落ちました。

時代の移り変わりと「縄文ブーム」

「縄文ブーム」の原点として、多くの人が記憶しているのが青森県の三内丸山遺跡の発見です。
1992年、野球場の建設工事に伴い発掘調査を行ったのがきっかけで、大型の住居跡や土器などが次から次へと見つかりました。縄文時代のイメージを刷新する大発見として、テレビや新聞でも大々的に取り上げられ、遺跡は一大観光地となりました。

【青森県 三内丸山遺跡】

―三内丸山遺跡の発見された当時はどのような時代だったのでしょうか。

阿部:縄文の遺跡というのは、当然、三内のような大規模な集落が発見される前から発掘されていて、若干報道もされていましたけれども、実はそれまでは自然を開拓して稲作を行い、生産をあげながら国という大きな組織を作っていく「弥生ブーム」だったんですよね。それは当時の効率や実利を求める社会の価値観ともあっていたと思います。実際、経済が成長していっているときは、静岡県の登呂遺跡(1948年から発掘調査)から始まって、佐賀県の吉野ケ里遺跡(1986年から発掘調査)まで、ずっと弥生ブームなんですよね。それで三内丸山遺跡が発見された1992年っていうのは、まさにバブルが崩壊する前後だったかと思いますが、そういう中で、社会がどんどん開発して経済が成長していく社会よりも、成熟した社会へと移行していっている時代だったと思います。そういう中で、一万年変わらない縄文とか、自然の一員として命あるすべてのものを尊重するというような縄文の精神性に、なにか惹かれていったんじゃないかなと思いますね。だから、社会的に求められるものが、ちょうどその縄文の価値観と合致してきたのかな、という感じを受けますね。

―今から振り返れば、社会・経済的な過渡期と、考古学の発見がみごとに符号したということでしょうか。大変興味深いお話ですね。

阿部:やはり三内丸山遺跡は、縄文のイメージをくつがえす発見だったんだと思います。縄文時代っていうと、それまでは自給自足だけをしていたというようなイメージだったんですね。ただ、発掘している人たち、考古学をしている人たちはもちろんそうじゃないってことはわかっていたんですけれども、世間的なイメージとしては、「野蛮で自給自足をして細々と暮らしている」というイメージだったんじゃないかなあと思うんですね。それが、考古学的な発見によって、そうではなくて、縄文時代というのは食料も豊かで、広域に、ヒスイや漆やアスファルトなどの交易もしているし、精神文化もかなり精緻で高度なものだったということがわかってきた。それでだんだんイメージが変わってきて、新たに関心をもった人が参加するようになってきたように思います。

―当時の様子を、NHKの資料映像で見ると、三内丸山が発見された野球場の建設予定地に、長蛇の列ができている。ああいう光景というのは、それまであまりなかったのでしょうか。

阿部:なかったですね。新聞で報道されて縄文遺跡に人が押し寄せるというのは、三内丸山遺跡以降じゃないでしょうか。さらに、それをきっかけに青森県でどんどん発信をしてくれたというのが良かったのだと思います。発見だけじゃなくて、マスコミも含めて、価値をどんどん発信してくれましたので、それでうちの町にもこういうものがあるとか、そういうふうに別の地域にも影響がどんどん広がっていったというふうに思います。

【三内丸山遺跡に詰めかける人々 1994年】

草の根的に広がった「北の縄文」の輪

「縄文ブーム」が広まるにあたって、大きな役割を果たしたのが、ボランティアグループの存在です。
1994年に三内丸山遺跡が一般公開された翌年の95年には「縄文発信の会」や「三内丸山応援隊」などが結成され、遺跡のガイドや学習体験など、様々な仕方で縄文文化を発信してきました。
4道県の各遺跡ではこれまでに、実に27もの団体が発足しています。
各グループは、一緒にイベントや学習会などを開くなど、活発に交流し、そこからやがて北海道・北東北の地域で世界遺産を目指す大きなうねりが生まれていきます。

【三内丸山応援隊】

―縄文好きの有志のグループが各地にできていく様子を、阿部さんはどのように見ていましたか。

阿部:南茅部町も最初に大船遺跡が平成8年(1996年)に脚光をあびて、翌年には北の縄文クラブができました。先ほど言った発掘調査に来ていたお母さんたちが、自分たちでこの地域のために縄文を発信したいということで、できたんです。北の縄文クラブもその時は、どういうことをやっていっていいのかわからない状況だったので、そこで三内丸山遺跡の応援隊の人たちと交流をして、応援隊の人たちが南茅部町の大船遺跡に来てくれたり、また、北の縄文クラブが三内丸山遺跡や御所野遺跡のイベントとかに参加したり、交流をしながら自分たちの活動をつくりあげてきました。というような形なので、「北海道と北東北」というくくりで世界遺産に取り組むまえから、市民のレベルではかなり強力なネットワークができていたんです。

―そうした人達を突き動かしていたのは何なのでしょうか?

阿部:やっぱり、自分の生まれ育った町の良さを少しでも知ってもらいたいというような気持ちだと思います。自分で発掘もしていますから、遺跡があるその地域がかつてすごいところだったというのは、わかっているわけですよね。それが誇りになって、その誇りが郷土愛になり、それが町づくりの原点になっていくというような形じゃなかったかなと思います。

―「郷土」といっても、1万年のスパンでそれを捉えているところがすごいですね。そうして、市民の方たちがひとつひとつ文化の発信拠点を作ってこられたということなんですが、そういった草の根の運動が次第に専門家や行政を巻き込んでいったのには、どういった経緯があったのですか。

阿部:遺跡の調査や遺跡間の交流が進むにつれ、北海道の南部と北東北っていうのは縄文時代からずっとひとつの文化圏を作ってきたということがよりわかってきて、その交流を現代に復元して、その地域づくりをやっていきましょうという気運が生まれました。その構想を「北の縄文文化回廊」と名付け、平成15年(2003年)に行われた北海道・北東北知事サミットの中で提案されたんです。実は、その提案のアクションプランの中に、「世界遺産を視野にいれて」という文言がひとこと入っていたんですよ。だけどその当時は、「世界遺産なんてなるわけないよ…」って思っていたので、自分自身もそんなに真剣には考えていなかったんですけど、そのアクションプランの中で、4道県の縄文の遺跡間の交流とか勉強会をやっているうちに、これは行けるんじゃないかと変わってきました。実際に、市民グループを中心に、専門家や行政が加わって、北の縄文文化回廊づくりを4年間やったんですけれども、そのあとに改めて4道県でこれを世界遺産の登録を目指そうという行政的な決断があって、そこからはもう、まっしぐらでしたね。

縄文時代から 津軽海峡をこえたつながり

―世界遺産が、当初は「ついで」みたいな感じだったというのは、意外でした。
そういった「北の縄文」としての文化のまとまりを、先史時代からのスパンでとらえなおす中で、なにか気付きがありましたか。

阿部:そうですね。北海道と北東北を隔てる津軽海峡には、ブラキストン線という生物の分布が変わる境界線があります。例えば、北海道はヒグマだけど、本州はツキノワグマ。サルとかイノシシは本州にだけいて北海道にはいない。植物も若干の違いがある。だけど、津軽海峡は、「しょっぱい川」と呼ばれるぐらい、人々が行き交い、盛んに交流してきた歴史があります。地域間で協力して、世界遺産に取り組んでいくなかで、津軽海峡をはさんだこの地域に、生活も精神文化もひとつの共通性があるんだなということは改めて感じましたね。

―縄文時代から人々が行き来する中で築かれていった文化的な共通性が、まさに現代の人々の交流の中で、掘り起こされていったというのは、ものすごく感慨深いですね。最後に、「北海道と北東北の縄文遺跡群」に関して、今後への期待、願いがあれば教えてもらえますか。

阿部:世界遺産っていうのは、登録がすべてではなくて、まさにこれからスタートです。この北海道と北東北の地域の遺跡が世界遺産に登録されたことは、縄文時代はひとつの文化圏だったということを前提に、その歴史と文化、生活と精神性が認められたんだと思います。今後、東北と北海道の両地域がしっかりと連携をして、縄文時代と同じように、さらに交流を深めていけたら良いなと思います。また、縄文遺跡は各地にありますから、この世界遺産登録を機に、自分たちの暮らす地域の遺跡にも関心を持つようになり、縄文の輪が広がることを期待しています。



―取材後記- 

縄文にふれたときの、いてもたってもいられなくなる高揚感

 今回、私は世界遺産の話題をきっかけに、初めて縄文文化についての取材をしました。数千年前の遺跡や遺物について知ることは、もちろん知的な楽しさと感動に満ちていましたが、同時に驚かされたのは、縄文文化の保護・普及に務める各地のボランティア(有志)の方々の並々ならぬ情熱でした。
 阿部 千春さんのお話にも「郷土愛」という言葉がありましたが、お話を聞き終えて、こんなことを想像しました。自分もふとしたきっかけでー例えばある日住んでいる家の裏山からとんでもない巨大遺跡が出てきたとかー「郷土」に対して普段持っている感覚が一変する。せいぜい自分と親とその親の代ぐらいで考えていた「歴史」に、1万年という桁違いのものさしが加わる。しかも、その遙か彼方の過去に生きた先人が、奇妙な仕方(「ふつうさ」という)で、自分たちに似ていたとすると……。
 縄文文化を守ろう、広めようとする人々を突き動かしているのは、こうした歴史や郷土をめぐる不思議な感覚ではないかと、思いました。ものすごく遠いようで、ものすごく近い(あるいはその逆)ものに触れたときの、なにかいてもたってもいられなくなる、高揚感。その高揚感に突き動かされた人同士が集まり、地道で懸命な努力を続けてこられた結果、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録というメモリアルな出来事につながったのでは、と思いました。

縄文に共感したら
古代の風土に思いをはせて“縄文太鼓”の調べ
NHKでは世界遺産に登録された
「北海道・北東北の縄文遺跡群」に関する情報を発信しています!
ぜひご覧ください。
「NHK北の縄文プロジェクト」

2021年8月●日


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