ロシアによる軍事侵攻が続くウクライナ。戦禍を逃れようと、ウクライナから国外に逃れた人の数は、500万人を超えています。日本へ避難する人たちも相次ぐ中、函館市に避難した1人がNHKの取材に応じました。
故郷を離れて
スヴィトラーナ・リヤボバさん(84)です。4月14日、ウクライナから函館市に避難しました。今は公立はこだて未来大学で教べんをとる息子のボロディミル・リヤボフさん(58)の自宅に身を寄せています。

スヴィトラーナさんはウクライナ東部の第2の都市、ハルキウで1人暮らしをしていました。しかし2月下旬、ロシアが軍事侵攻を始めると、まもなく自身が住む地域でも激しい戦闘が始まったといいます。

「現実だと思うことができませんでした。夜に大きな爆発があり、外を見たら花火のような火が見えました。夜に目が覚めると、そのすべてが見えるので、とても怖かったです。そして、思い出したことがありました。80年近く前の第2次世界大戦で私が5歳だったとき、自分が住んでいた場所の近くでドイツ軍が食べ物などを保管していた建物に火を放ち、それが燃える光景を私は見ていました。ハルキウで起きていることを目にしたとき、私は5歳のときに見たその光景を思い出しました」。

戦闘の影響で電気が使えなくなり、店の営業も次々に停止。函館市に住むボロディミルさんとも一時、連絡が取れなくなりました。状況が悪化する中、3月の初め、スヴィトラーナさんは避難することを決意しました。
ハルキウを知人とともに離れてまず向かったのは、東部ドニプロから西に100キロ余りの小さな町。そこから隣国ポーランドとの国境に向かうことにしました。しかし、道路は同じように避難しようとする人たちの車で渋滞し、国境に向かう列車も人であふれて乗れる状況ではありませんでした。
スヴィトラーナさんが国境に向かうバスに乗れたのは、およそ2週間後。国境に到着してポーランドに渡ったところで、チェコの首都プラハに住む孫娘が迎えに来てくれました。日本への入国に向けて新型コロナウイルスのワクチン接種の準備などでプラハにおよそ1か月間、滞在したあと、ようやく日本に向けて出発し、4月14日、羽田空港経由で函館空港に到着しました。その間、息子のボロディミルさんは心が休まらなかったといいます。

「戦争が始まってから、私はずっとストレスを感じていました。今でもこのストレスは消えていません。なぜなら、ウクライナに住むたくさんの友人たちと私は今も連絡をとっているからです。そのうち何人かは今もハルキウにいますし、何人かは避難などのためウクライナの国内でばらばらになっています。ただ、母を函館空港で見たとき、私は『ふーっ』と安どしました」(ボロディミルさん)
「私は息子に会えたうれしさで、ほとんど泣いていました」(スヴィトラーナさん)

息子との再会をようやく果たすことができましたが、80歳を超えるスヴィトラーナさんにとって、ウクライナからおよそ8000キロも離れた遠い日本に避難することは、簡単なことではありませんでした。
「私は恐らく2度とウクライナに戻ることはできないだろうと感じています。それほど、高齢の私にとって避難は大変なことで、体力的にも厳しいものでした」(スヴィトラーナさん)

ウクライナにはもう戻れないかもしれない・・・
そう感じながらも、スヴィトラーナさんは祖国の平和を願っています。
「いつか戦争は終わります。もちろん早いほうがいいですが。そのとき、ウクライナ人が戦争の前よりも、より良く生きられることを願っています」
取材:鮎合真介(NHK函館)
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