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“すずらんの兵士”を探して―「北海道兵、10805人の死」

  • 2023年8月25日

「もし僕が北海道に生きて帰れたら、君に、すずらんの花を送るね」 沖縄戦で、ひめゆり学徒隊の看護学生にそう言い残し死んでいった、北海道出身の兵士がいた。 
10805人の北海道兵が死んだ沖縄戦から、78年。 日本の端と端、北海道と沖縄で、“すずらんの兵士”の生きた痕跡を探した。番組ディレクター 趙 顯豎

「北海道兵、10805人の死」 初回放送:2023年8月11日

6月 オホーツク

2023年6月。オホーツクの海は青黒く、遠くの方から低く静かな波を立てていた。
その朝、私は宗谷の海岸線を走る路線バスに乗って、東へ向かっていた。
目的地は、浜頓別、というまだ訪れたことのない町だった。

浜頓別での私の仕事は、ひとことでいえば、“人探し”にちがいなかった。
数日前、町役場に前もって電話をかけたときも、「用件」を丁重に尋ねられるや、「人を探しているんです」と確かにいった。が、そのあとあわてて訂正せざるをえなかったよう、私が探しているのは、生きた人でなく、死んだ人だった。それも78年前、このオホーツクから2000㎞以上離れた沖縄で。

 

記録と記憶

そう呼ぶほかなかったので、 彼のことは、“すずらんの兵士”と呼んできた。
私と“すずらんの兵士”との間にも、出会いのエピソードがある。

3月だった。長い冬がようやくあけようとする頃、札幌にはまだ深く雪が積もっていた。
センパイのディレクターに、会社の打ち合わせ室に呼ばれ、こんな話を聞いた。

「知っていましたか? 
沖縄戦で亡くなった人で、沖縄県民に次いで多いのが、北海道出身の兵士なんです。10805人です」

私は歴史に無知なうえ、まして沖縄の人間でも、北海道の人間でもなかったので、その事実をまったく知らず、そればかりか、10805人という人数がどれだけ多いのかさえ、すぐにはピンとこなかった。

「1万人を越す死者を出したのは、日本の端と端、沖縄と北海道だけだそうです」

そう短くつけくわえて、センパイは一冊のぶ厚い本を取り出した。

紫の布地の背表紙には、金色で大きく、『北海道沖縄会四十年史』という題字が彫られ、傍らにやや小さく、「―希望と生命のために」という、厳めしい副題が添えられていた。
それは、戦後40年あまりが経った頃、北海道出身の沖縄戦の戦死者の遺族が公刊した、いわゆる「戦没者名簿」だった。手に取るとずっしりと重いその本は、中を開くと、どこまでもただ同じことがらが羅列されていた。

 死んだ兵士の名前。部隊。戦死した場所・日付。出身地。終戦時の遺族の住所。
これだけのことが、10000余人分、500頁以上にわたって並んでいた。そして、その本全体をつなぎとめる太い綴じ紐のように、「戦死」という文字が全兵士の欄を貫いていた。
 四角い箱書きの中に、小さな文字でおさめられた無数の死者たちの記録は、紙面を眺めているだけでは、ほとんど痛ましさを思い起こさせず、むしろ冷たく、そっけなくさえあった。
目がひかれたのは、北と南、ふたつの土地の名前だった。
札幌、留萌、夕張、士幌、美唄、紋別、平取、猿払、寿都、網走、根室、森、樺太……
北海道の土地は、彼らが「生きた場所」だった。
首里、嘉手納、小波津、前田、東風平、運玉森、南風原、國吉、與座、眞榮平、摩文仁…。
沖縄の土地は、彼らが「死んだ場所」だった。
 二つの地名は、それぞれ独特の仕方で“読みづらく”、それぞれ固有の“響き”を持っていた。
北の端で生まれ、南の端で死ぬ―――。
ネムロで生まれ、ハエバルで死ぬ。ユウバリで生まれ、ヨザで死ぬ。カラフトで生まれ、カデナで死ぬ。シホロで生まれ、ウンタマムイで死ぬ。アバシリで生まれ、シュリで死ぬ。ビラトリで生まれ、マブニで死ぬ。
私は、その名簿に何かまったく自分の知らない、壮絶な“移動”の痕跡が、刻まれているような気がした。

「 彼らが沖縄でどのように死んだか、この名簿を見てもわかりません。
死に至るまで、北海道でどのように生きたのか。これはもっとわかりません。
ただ…ごくまれにですが、彼らの生と死をめぐって、断片的な記憶が、残されているんです」

「例えば」―とセンパイは言って、その「断片的な記憶」の最初の例として挙げたのが、ほかでもない、“すずらんの兵士”だった。宮良ルリさんという、元・ひめゆり学徒隊だった女性が、生前(2021年逝去)に沖縄戦を回想したあるインタビューで、彼について語っていた。

私がいちばん最初、死んでいく兵隊を見たのが両手切断でした。
その両手切断の兵隊がですね、「学生さん、僕は北海道の出身なのよ」と。
「今頃北海道ではすずらんの花が咲いているよ」とゆっくり言うんですよ。
私、すずらんの花が分かりませんでした。「僕の傷が治って、北海道に帰ることができたら、すずらんの花を送ってあげようね。学生さん、ありがとう。ありがとう。」と言って「お母さん、お母さん」と言って息を引き取ったんです。

【動画】「壕内でのたうちまわる人々」|戦争|NHKアーカイブス

それは、「断片」というほかなかった。まず、その兵士の名前もわからない。顔も年齢もわからない。何月何日の出来事なのかも、書かれていなかった。わかっているのは、彼の最期の言葉だけである。

「僕が北海道に帰ることができたら、すずらんの花を送ってあげようね」

素性のわからない他人が残した生々しい“遺言”に、私が当惑していると、センパイが言った。

「彼が生きた痕跡をたどってみる、というのはどうでしょうか? 
北海道のどんな町で、どんな家族のもとに生まれて、どんな風景を見て育って、沖縄のどこで、どんな風に死んだのか。 なぜ、こんな言葉を最期に残したのか。
何かがわかるかもしれませんし、何もわからないかもしれません」

私たちはまず、“すずらんの兵士”が死んだ場所を尋ねることにした。

 

死んだ場所

「南風原はね、沖縄でただ1つ、海のない町なんです」

那覇から旧道を抜けて南へ向かう道中、ドライバーさんが教えてくれた。

「昔から交通の要所で、古い道は、みんなそこを通っていったんです」

私は、狭い助手席で、膝の上に大判の地図を広げて、南風原の位置を確かめた。首里のすぐ背後、沖縄南部の鏃形に広がる地形のちょうど真ん中に、「南風原町」とある。町の赤色の輪郭線に、橙のバイパスや黄色い県道、白地の旧道が、縦横複雑に交わって、ここが今も昔も「交通の要所」であることが一目でわかった。沖縄戦当時、日本軍が南風原に最大の野戦病院を作ったのも、それゆえ、不思議ではなかった。

1945年4月1日の米軍上陸以降、北海道兵を主力とする第24師団は、首里の司令部を守る前線で戦闘を行っていた。そして前線で負傷した兵士のうち少なくない者が、この病院に運び込まれた。
“すずらんの兵士”もまたその1人だった。

「沖縄陸軍病院南風原壕」は、黄金森と呼ばれる小高い丘の中腹にあった。
当時この丘を含む一帯の土中に、約30本の洞窟が掘られ、病院として利用していたという。
宮良さんの回想によれば、“すずらんの兵士“の最期に立ち会ったのは、そのうちの「ロ3号」という壕だった。「南風原文化センター」の学芸員・保久盛 陽さんに依頼し、私たちは、「ロ3号」があったと思しきあたりまで案内してもらった。
「飯あげの道」という、動員された女学生達が、炊事場から病院壕まで通ったという山道を、汗だくになりながらしばらく登っていくと、「南風原陸軍病院壕跡」の石碑が現れた。

「このあたりだと思われます」

そう言って、保久盛さんは、石碑の裏に広がる密に茂った樹林の方を、手をぐるぐると宙にかくような仕方で、指し示した。

「どのあたりですか?」
「それが、正確にはわからないんです。戦後、この一帯に病院壕が複数あったことが確認されていて、お探しの『ロの3号』という壕も、そのうちの1つだったと考えられます。
しかし現在は、ご覧のように、土に埋もれてしまっていて、入り口を特定することも、難しい状況です」

彼が指し示した樹林の奥の方へ、蚊の群れをはらい、蜘蛛の巣をかきわけつつ入っていくと、丘の土面にはところどころに、かつて人の手を加えたと思えなくもない、くぼみのような痕跡がうっすらと見られるような気もするのだが、いくら目を凝らしても、目の前のその痕跡(のようなもの)が、“すずらんの兵士”が死んだロ3号の入り口であるという確信は、得られようがなかった。私は蝉の音がしきりに響く、樹々の間に突っ立ったまま、ちょうどさっき保久盛さんが手を宙に振りかざしたように、視線を曖昧に宙に漂わせて、どことも、何ともつかない、土の斜面をただ眺めるしかなかった。

丘を反対側に越えると、唯一、現在も戦跡として保存されている病院壕である、「20号壕」の脇に出た。ヘルメットと懐中電灯を借り、壕の中を見学させてもらった。

暗闇に足を踏み入れると、湿った土の濃い匂いがし、ぬめり気のある冷たい空気を肌に感じた。
壁側を照らすと、ギザギザした茶色い木片が等間隔に立っている。焼け焦げた二段ベッドの柱の跡だった。ここに兵士達がほとんど隙間もなく横たわっていたという。証言によれば、彼らの多くは、取り返しのつかない損傷を身体に負っていた。

“火炎放射器で焼かれ、髪も縮れ皮膚も爛れた人。脳症になり、暴れて手のつけられない人。背中の傷が肺にまで達し、息する度に血の泡がすーすー出る人。上衣の袖ごと腕をもぎ取られた人。顎の吹っ飛んだ人。手足のない人。気管が破れて息が喉からふうふう出る人”
(『沖縄県史 各編論6 沖縄戦』に引用された『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック』の記述から)

また医薬品・衛生材料が枯渇していたので、兵士達は麻酔なしで手術を受け、外傷部をノコギリで切り落とした。暗い壕の中は、血、膿、糞尿の匂いが充満し、兵士達の叫び声が終始響いていた、という。
彼らがどんなことを叫んでいたかも伝えられている。例えば―

“「痛いよう!」「ウジを取ってくれ!」「便器!」「包帯を交換してくれ!」「水をくれ!」”
(『南風原が語る沖縄戦』沖縄県南風原町から)

叫び声の主が誰であったのか、ここでは言及されていない。兵士達の名前はもちろん、顔や年齢や出身地など、個人を識別できるような、どんなもしるしも伴っていない。いわば匿名の声である。動員された女学生達の証言録をいくつか読んでみても、負傷者達の叫び声(うめき声、うなり声)は、多くの場合、彼女たちが極限の疲労と絶望に置かれる中、暗がりの方から聞こえてきた、誰のものでもない声、いってみれば“音の群れ”として記憶されている。それはあたかも、当時やはり壕の中で終始鳴り止まなかったという、砲声や爆音や地響きと同じ、戦争がもたらす、破壊的な“音響”の一部であったかのようである。

私は靴音が反響する壕を奥へと進みながら、“すずらんの兵士”のことを考えた。
両手が切断された状態で、目の前を過ぎ去ろうとする女性に「学生さん」と呼びかけた彼の声もまた、当時暗闇を満たしていた無数の声・無数の音の一部であったはずである。彼が「学生さん」と呼びかけ、そうして宮良さんが立ち止まり、彼の腕を握って、つかの間、耳を傾けた。私はその一連の動作を、何度も頭に思い描いた。その動作のただ中で、何か決定的なことが起こったような気がするからだ。
彼女が歩き去ろうとする。呼びかけが聞こえる。足を止める。注意を払い、彼の身体に触れ、耳を傾ける。
このとき、戦場を満たす、互いに溶け合った無数のおぞましい音の背景から、ひとりの生身の人間の声が、宮良さんの、そして私たちの前に、はじめて浮かび上がってくる。
暗闇の中で、その他大勢の兵士達とともに、誰でもない者として死に引きさらわれようとする、その一歩手前で、彼は踏みとどまり、目の前の女性に言う。

「僕がもし北海道に帰れたら、すずらんの花を送ってあげるね」

壕の暗闇の中で、彼の“遺言”を思い浮かべたとき、私はその言葉が、なにか仄明るい光に包まれているような気がした。

 

生きた場所

札幌に戻った私は、再びあの分厚い「戦没者名簿」をめくっていた。
“すずらんの兵士”は誰だったのか。手がかりとなるのは、宮良さんが彼の死に立ち会った日付と場所だ。沖縄のひめゆり平和祈念資料館で宮良ルリさんの聞き取りを行っていた方に取材をすると、彼女は4月23日に、“すずらんの兵士”がいたという「ロ3号」から別の病院壕へと配置換えをされている。そして、“すずらんの兵士“が死んだのは、この配置換えが行われる前の数日間だったはず、ということだ。
私たちはまず、1万人を越す名簿の中から、4月23日までの数日間の間に、病院壕があった南風原で亡くなったと記録されている者を探すことにした。もちろん、名簿に記されている兵士の戦死の日付や場所が、すべて正確であるとは考えられない。だが、名簿は私たちが他に手に入れることができた唯一の公的な情報で、それを頼りにするほかなかった。
条件に当てはまる北海道出身の兵士は2人いた。

一人目
姓名:中橋 幹雄 階級:兵長 戦没年月日:4月21日 戦没地:南風原 
本籍地:空欄(名簿上の市町村の並びからおそらく札幌と推測される)
遺族の住所:岩手県

二人目
 姓名:小瀬川 慶逸 階級:伍長 戦没年月日:4月20日 戦没地:南風原
 本籍地:稚内 遺族の住所:枝幸郡浜頓別 

このうち、中橋 幹雄さんについては、遺族が道外に転出したあとの足跡を、まったくたどることができなかった。残った小瀬川 慶逸さんの足跡を探すため、私はまず彼の本籍地である稚内に向かうことにした。

まず最初に、稚内市立図書館で、「小瀬川」姓の人物がいるのかを調べた。
郷土史、住宅地図、電話帳、小学校の創立以来の卒業生名簿、戦前の選挙権保有者の名簿…。司書の方の助けを得て、思いつく限りの資料にあたっても、稚内に小瀬川という名前はついに一人も見つけることができなかった。考えられるのは、何らかの理由で、彼が稚内に戸籍上の本籍を残しつつも(戦前の開拓期の北海道で本籍の変更手続きをしないまま転出することがあったことは十分に考えられる)、別の町に移っていった、ということだ。おそらく、小瀬川さんの「遺族の住所」として記されていた浜頓別だ。そして、彼は人生の多くの時間をその町で過ごしたのではないか。

浜頓別

宗谷岬の駅で観光客と思しき人々が連れ立って降りていくと、音威子府行きの路線バスは、空席の方が多くなった。窓の外では、青黒い海の上を、ウミネコの群れがグレーの影となって飛び去り、岩間の湿地に黄色や紫の海浜植物が点々と花をつけていた。それらすべてのものが、海霧の薄い紗にくるまれていた。
見たことのない風景だった。

「僕がもし北海道に帰れたら―」

素性のわからない“すずらんの兵士”の“遺言”は、つねに私の手に余るものだった。私は、しばしばその言葉の重々しさに、いたたまれず、途方に暮れた。だが、その記憶の断片には、彼の死の救いようのない残虐さとともに、彼にあったはずの生、ありえたかもしれない生が、同時に刻まれているように思われた。その生というのは、まずもって、“感じ”というほかなく、言葉にしようとすれば―たとえば「かけがえのない命」「誰にでもあるふつうの人生」など―とたんに色あせてしまう。
ただ、その生が喚起する曖昧な“感じは、彼の足跡をたどろうとする中で時々―例えば沖縄の暗い病院壕を歩いているときや、このオホーツクの海岸線を行くバスの中で風景を眺めやっているとき―異様な、ほとんど不気味といってもいい実感に変わることがあった。それはあえて例えれば、人気のない山道で、押し踏まれた草の跡を見たときに覚えるものに近く、「誰かがここを通った」という、きわめて素朴な感覚だ。

浜頓別は、涼しい風が吹く小さな海町だった。
小瀬川という姓の兵士の遺族が、本当に浜頓別にいるならば、役場に保管されている戦没者の名簿にも、彼の名が記されているはずだ。ここに来る前に浜頓別町役場の保健福祉課にかけあって、この突飛な取材のあらましを話すと、少しの検討時間を置いてから、「名簿を特別に閲覧してもよい」、と返答をもらえた。
役場を訪れ、会議室のような部屋で待っていると、担当者が一冊の冊子を持って入ってきた。

昭和27年、当時の民生課が、遺族に恩給を支払うために作成した戦没者の名簿だ。
薄茶色に変色した本を、傷つけないようゆっくりとめくると、中ほどに、「小瀬川 慶逸」という名前があった。大正10年生まれ。私はそこで初めて彼の死んだ時の年齢を知った。23歳だった。
戦後、彼の遺族が間違いなくこの町に暮らしていたことがわかった。にわかに興奮めいたものを感じた。

人口3000あまりの浜頓別で、「小瀬川」という姓を探すことは、さほど難しくなかった。
翌日、町を古くから知る人を訪ね歩くと、町議会の議長を務める恵良田将さんから大きな手がかりを得ることができた。祖父母の代からやっていた商店の近くに、「小瀬川」という姓を持つ戦前生まれの女性がいたことを覚えている、というのだ。それは、年頃からいって、戦没者の「小瀬川 慶逸」さんの妹かもしれないし、娘かもしれなかった。私は彼の案内で、その女性が暮らしていたという家を訪ねた。

公営住宅の扉の前には、砂利の下から草が伸びはじめていた。

「ごめんください」

扉をノックした。声は返ってこなかった。

近隣の人に話を聞きたいと、尋ね回った3件目で、小柄な女性がドアを開けて答えてくれた。

「すみませんが、このあたりで“小瀬川さん”という方が暮らしていたのをご存じないでしょうか?」
「ああ、小瀬川さんいましたよ。裏に住んでいました」

あっけらかんとした口調だった。

「あの、今は……?」
すると、女性はくるりと振り返って、家の奥の暗がりに向かって語りかけた。
「ねえ。小瀬川さんのおばさん、いたよね? どうしたんだっけ?」
「―――――――」

つかの間の沈黙があった。
彼女が尋ねたことに、家の奥から、誰かが答えているようだったのだが、私にはその声が聞こえてこなかった。

「引っ越したんだっけー?」
「―――――――――」
「いなくなったもんねー?」
「―――――――――」

2、3のやりとりがあった。最後に念押しのような相づちがうたれたかと思うと、女性は再び私の方に向き直り、小さな声でただ一言、

「死んじゃった……」

と言った。

「お亡くなりになったんですんか?」
「ええ、もう何年も経つと思いますけど……」
「ひとりでお住まいだったんですか?」
「そう。ひとり、ひとり」

小瀬川さんというその女性は、去年、85歳で亡くなっていた。
“すずらんの兵士”を探す道のりは、ここで、完全に絶たれた。

パラパラ雨が降り出した。
小瀬川さんが、“すずらんの兵士”だったのか、ここまでやってきて、肯定も否定も得られなかった。全てが宙ぶらりになって、私は、何の感興も余韻もなく、空き家になったその団地の扉を、しばらく眺めていた――。

それから後に起こったことを、ありのままに話せば、こうなる。まず、扉を眺めていた私の斜め後ろの、少し離れたあたりから、「えっ?」という男の声が聞こえた。私がその方向を見ると、取材に同行していたカメラと照明のスタッフが、団地の前の一段高くなった雑木林のようなところに、しゃがみこんで、何かをしている。私は、妙な感じがして、とっさにその方向へヨタヨタと走りはじめる。土の斜面を駆け上がって2人から15メートルほど手前のところまでいくと、やはり彼らはまだ同じ位置にうずくまって、依然「え」とか「あっ」だとか言っている。その時にはもうさっきのあの“感じ”は私の中ではっきりと“予感”めいたものにまで変わろうとしていて、それゆえ息を切らす私の口からも彼らと同じ言葉にならない母音がいくつかこぼれだし、動転してはやっているような、冷めかえって止まっているような、奇妙な時間感覚で、距離をつめ、彼らのいる場所にかがみこむと、そこにすずらんの花が咲いていた。

“すずらんの兵士”の足跡が、ついにわからずじまいで、宙ぶらりになって、しかしただ、すずらんの花が目の前に咲いていて、私はこれが、何の符号で、どういう因果なのか、考えてもわからず、何かその意味の芽みたいなものをせめて考えようとして、その雑木林に立ったまま、花の咲いている決して広くない空間を、黙って眺めていた。
そしてふとまた、誰かがここを通った、と私は思った。
誰かが朝、ここを通って、この花を見た。あるいは昼ここを通って、この花に触れたり、摘んだりした。
あるいは夕方、ここを通って、この花に振り向くことがなかった。
そして、その誰かが、また別の日に―そのとき日本は米国と戦争をしていた―朝なのか昼なのか夜なのか、ここを通って、その時この花を見たのか、見なかったのかわからないが、いずれにせよここを歩き去って、沖縄で死んだ、と。

再放送:2024年6月23日(日)午前0:40※土曜深夜  総合
NHKプラスで配信中
配信は2024年6月30(日) 午前1:25 まで

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