NHK札幌放送局

北海道から与那国島へ 「援農隊」で生まれた絆

ほっとニュースweb

2022年5月12日(木)午後3時23分 更新

5月15日、沖縄の本土復帰から50年を迎えます。この本土復帰後に始まった「援農隊」がきっかけとなり、北海道と日本最西端の沖縄・与那国島には特別なつながりが生まれました。北海道から島へ何度も通った人や島に移り住んだ道内出身者を訪ね、与那国島への思いを聞きました。(室蘭局・篁慶一)

「援農隊」で活躍した道出身者

北海道から2400キロ以上離れた、沖縄県の与那国島。いまは1700人近くが暮らしています。
「援農隊」は、農家の人手不足に悩んでいた与那国島が1976年から島外で募集を始めました。
毎年1月から3月にかけての約2か月間、島の基幹作物であるサトウキビの収穫や製糖工場での作業を希望者に手伝ってもらう仕事です。

サトウキビの収穫作業

活動する援農隊 1980年

与那国島が人手不足に陥った背景には、1972年の沖縄本土復帰と、同年の日中国交正常化がありました。
1972年以前は、サトウキビの収穫時期になると、隣の台湾から季節労働者を受け入れていました。
しかし、島の施政権が日本に戻った後、日本が中国と国交を正常化させたことで、台湾との外交関係は途絶えました。
その結果、台湾の労働者が島へ来ることは出来なくなったのです。
「援農隊」は、こうした状況を知った本土の通信社や新聞社の記者が町に提案して実現しました。

与那国島 崎原正吉さん

この記者たちは、ボランティア団体を結成して参加者の募集を担いました。
新聞記事やラジオ番組などを通じて「援農隊」を紹介すると、全国から応募が殺到したと言います。
ただ、開始から3年後には、募集は北海道に重点が置かれるようになりました。
北海道出身者の仕事ぶりが農家の間で評判になったからです。
島で長年サトウキビ栽培に携わってきた崎原正吉さん(74)は、当時をこう振り返ります。

「援農隊は全国各地から来てくれましたが、北海道の人たちは特にまじめで、慣れるとサトウキビの刈り取りが地元の人よりも早くなりました。忍耐強くて、農家は本当に助けられました」

援農隊には120人以上が参加した年もありましたが、農家の減少や機械化が進み、参加希望者も減っていきました。
地元農協の意向もあり、2015年を最後に集団での募集は終了しました。
援農隊として島に渡った人はのべ2500人ほど。
参加者の半数以上が、北海道出身だったということです。

島と交流続ける人も

この援農隊への参加がきっかけとなり、今も島の人たちと交流を続けている人もいます。
後志の赤井川村のアスパラガス農家、滝本和彦さん(75)もその1人です。
滝本さんは、1980年に初めて援農隊に参加しました。
当時、冬の農閑期は関東の工事現場などへ出稼ぎに行っていましたが、新聞記事で募集を知り、すぐに応募を決めました。
沖縄の農家の仕事を見てみたかったことが、一番の理由でした。

赤井川村 滝本和彦さん

「私自身が農家だったので、ほかの地域の農家がどんな作物を、どんな方法で栽培しているのかにとても興味があったんです。沖縄はなかなか行けない場所ですし、与那国島がどんな場所かはまったく分かりませんでした。鉄道やフェリーを乗り継いで、1週間ほどかけて到着したことを覚えています」

滝本さんは、受け入れ先の農家に寝泊まりしながら、日中はサトウキビの収穫を手伝いました。
事前説明会で話を聞いて覚悟はしていたものの、仕事のきつさは想像以上だったと言います。
任されたのは、鎌でサトウキビの茎から葉を落として束にする作業です。
腰を曲げたまま作業を続けなければなりません。
腰を痛め、休憩時間はずっと倒れて横になっていたということです。
休日もほとんどありませんでした。
農作業に慣れた滝本さんにさえ、「人生であれだけきつい仕事は、後にも先にもあの時だけだ」と言わせるほどの大変さだったのです。

左端が滝本さん 1980年

それでも、滝本さんは援農隊に10回以上参加しました。
農家の期待の大きさを感じ、それに応えたいと考えたからです。
島では毎日3食が用意され、時には居酒屋などで労をねぎらってもらったと言います。
農家の人たちからは島を離れるときに「来年もお願いね」と頼まれ、収穫時期が近づくと「いつ来るの」と電話がかかってきました。
島通いを続けるうちに、受け入れ農家の人たちは家族のような存在になっていったのです。

(滝本和彦さん)
「与那国島の受け入れ農家の夫婦は、私の両親のような存在で、とても大事にしてくれました。もてなしてくれる分、お返しをしたいという気持ちもありました。北海道に帰った後も自分が働いた畑がどうなっているのか気になるようになりました」

滝本さんは、新型コロナウイルスの感染が拡大する前まで、数年に1度は与那国島を訪れて島の人たちと旧交を温めてきました。
島の知り合いが旅行で北海道を訪ねてくることも多かったと言います。
今回、滝本さんの自宅を訪ねた際、クバの葉で瓶が包まれた「花酒」と呼ばれる蒸留酒を見せてもらいました。
花酒はアルコール度数が60度で、与那国島だけで造られています。
初めて援農隊に参加して北海道へ戻る際、農家でお世話になった「おばあ」から「家に帰ったら、ゆっくり飲みながら島や私たちを思い出してほしい」と言われて渡されたそうです。

(滝本和彦さん)
「この瓶を見るだけで島を思い出します。一番の宝物なので、とても飲めません」

島に移住した人も

援農隊をきっかけに、与那国島へ移り住んだ道内出身者も少なくありません。
ことし4月下旬、私が与那国島を訪ねた際にも、泊まった民宿のオーナーに「北海道から援農隊の取材で来た」と伝えると、島で暮らす元援農隊の道内出身者を次々と挙げました。
町役場の職員、弁当店の経営者、自生する植物を使いかごなどを手作りする職人、民宿の従業員の1人も道内出身者でした。
与那国島の人たちと話しても、北海道を実際の距離よりもずっと身近に感じている印象を受けました。

道内出身者の中には、島の伝統を守っていこうとしている人もいました。
22年前に援農隊に参加した札幌市出身の米澤恒司さん(50)です。
札幌市内で音楽関係の仕事をしていましたが、地元を離れて新しい環境に身を置きたいと考えたと言います。
援農隊の活動が終了したあと、島の酒造会社の仕事を紹介され、そのまま残ることを決めました。
現在は、杜氏として特産の泡盛や花酒を造っています。

三線を教える米澤さん 2022年4月

ギターが趣味だった米澤さんは、島で教室に通って三線や民謡も覚えました。
今では、島の豊年祭などで欠かせない弾き手となり、去年からは島の子どもたちに三線を教え始めました。
米澤さんは、島の伝統芸能に強くひかれる一方で、担い手が減っていることに危機感も感じています。

札幌市出身 米澤恒司さん

「島の郷土芸能はかなり下火になってきています。すばらしい文化がこれからも残っていってほしいので、自分が学んだことを若い人たちに少しでも教えたいという気持ちが芽生えてきました。自分ができることを自然体でやっていきたいです」

姿変える与那国島

与那国島は、尖閣諸島から約150キロ、台湾からは約110キロ離れています。
空気が澄んでいる日には、台湾の山並みを望みます。
その国境の島では、海洋進出などの活動を強める中国を念頭に、防衛体制の強化が進んでいます。
2016年には陸上自衛隊の沿岸監視隊が配備され、山の上にはレーダー施設も設置されました。
ことし4月には、領空侵犯の監視にあたる航空自衛隊の部隊も常駐を始めました。

陸上自衛隊与那国駐屯地

かつて島は自衛隊の配備計画をめぐって二分され、2015年に行われた賛否を問う住民投票で、配備に賛成する票が反対票を上回りました。
ただ、ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにして、基地があることへの不安を口にする人もいます。
配備に反対してきたサトウキビ農家の崎原正吉さんは、心情を打ち明けました。

「ロシアはウクライナの軍事施設を攻撃している。もし中国と有事が起きた時には、真っ先にこの島が狙われるのではないか。こんな小さな島で、住民はどこに逃げたらよいのか」

近年、急速に変化する与那国島の姿に、赤井川村の滝本さんも複雑な思いを抱えています。
人口減少が続く中で自衛隊を誘致した島の選択に理解を示す一方で、愛着を感じてきた島の風景やのどかな雰囲気が次第に失われることへの寂しさもあると言います。
今は、北海道から島の平和な日常が続くことを願っています。

(滝本和彦さん)
「私が生まれたのは北海道ですが、交流を長年続けてきた与那国島はふるさとのように感じています。自衛隊の駐屯地やレーダー施設ができたことは、国際的な流れから見れば仕方ないのかもしれません。この基地を活用せずに済み、みんなが平和に暮らせる日がこれからも続いてほしい」

取材後記

私は以前沖縄放送局に勤務し、今回8年ぶりに与那国島を訪れました。
美しい海に囲まれ、車を運転すれば対向車線から馬が歩いてくる島は、一見何も変わっていないように見えました。
ただ、新たに建てられた自衛隊の駐屯地や山に立ち並ぶレーダーを見ると、安全保障の「最前線」として島が確実に変化していることを感じずにはいられませんでした。

その一方で、「援農隊と交流があった居酒屋の店主が北海道から仕入れを始め、カキやギョウジャニンニクを使った料理を出していた」、「『北与会』と名付けた北海道出身者たちの懇親会を開いたら、30人以上集まって盛り上がった」などの北海道に関係するエピソードが与那国島にはいくつもあり、両者のつながりの深さに驚かされました。

本土復帰当時、多くの県民が「基地のない平和の島」になることを願った沖縄には、今も在日アメリカ軍専用施設の約70%があります。
与那国島などの南西諸島では、自衛隊の部隊配備が進んでいます。
そうした状況に本土がもっと関心を持ってほしいと願う沖縄の人は少なくありません。
遠く離れた北海道から1人でも多くの人が、交流を続けてきた与那国島、そして沖縄に思いをはせてほしいと思います。

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