「赤コーナー、アンドレザ・ジャイアントパンダ!」。
リングにあがる巨大なパンダの着ぐるみレスラー。
「キラー飯、自転車に乗って入場だ」。往年の名レスラー?が次々と登場。
披露するコミカルな動きと技の応酬に、プロレスファンも、そうでない人も笑顔に包まれます。
2021年9月、道東、根室を拠点に活動してきたアマチュアプロレス団体「新根室プロレス」の一夜かぎりの復活公演が開かれました。そこには、1年前この世を去った団体の代表が託した「ある思い」が込められていました。
(室蘭局 宇佐美隆治カメラマン)
猪木にあこがれた少年

新根室プロレスを率いたサムソン宮本さんです。
根室市に生まれ、子どものころは、引っ込み思案でした。そんな少年があこがれた人がいます。プロレスの強さを世間に証明しようと戦い続けるアントニオ猪木です。
誰よりも早く学校に通い、体育館にマットを敷いて、同級生とプロレスごっこに明け暮れました。「いつか猪木のようにリングにあがって観客を沸かせたい」という夢を持ち続けていました。

しかし、年月が経ち進学や就職でいつしかその夢を忘れていたサムソン宮本さん。
社会人になり、あるとき地元のプロレス好きの仲間と愛好会を立ちあげました。知人のプロレス関係者からは試合の出場の依頼を受け、素人ながら実際のリングの上での試合を体験しました。
緊張と興奮。
サムソン宮本さんは無我夢中で技を繰り出しました。
自分の技が決まったとき、歓声がきこえました。
わずか4分間の試合。
試合には敗れましたが、子どものころに思い描いた「レスラーになりたい」という思いがよみがえったのです。

試合後もしばらく、初めて上がったリングの感触が忘れられなかったサムソン宮本さん。友人とお金を出し合い、100万円で中古のリングを購入しました。
リングが届いた日。サムソン宮本さんはうれしさのあまり、経営するおもちゃ屋の閉店後に仲間を呼び寄せます。店内の商品を端に寄せて、リングを組み立て、深夜までプロレスをしました。
その後、友人に声をかけ発足したのが「新根室プロレス」です。
アマチュアプロレス団体「新根室プロレス」

新根室プロレスの24人のメンバーは、農家、銀行員、医療介護者など職業はばらばら。平均年齢40歳を超えています。
市内にある酪農家のD型倉庫を借りてリングを設置し、プロレスの試合がある1か月前から練習を始めます。
仕事が終わった平日と休日の週2回、リングにメンバーが集まり、サムソン宮本さんが中心となり選手ひとりひとりがアドバイスをしながら練習を続けます。
記念すべき新根室プロレスの最初の試合は、地元の神社の祭りで行われました。
結成したばかりで選手も少なく、プロレスの試合は3対3の1試合だけ。前座として、空手の試合やリング上で子ども向けのアトラクションもしていました。
当時は、もの珍しさもあって素人のプロレス試合を地元の人たちは受け入れてくれました。その後は、地元の祭りやイベントで無料興行を披露しました。
試合を重ねるごとに本格的なプロレス試合を目指していきます。しかし、プロレスをよく知らない素人にはわかりにくい試合内容が原因で、リングの周りから客足が次第に遠のいていきました。
プロレスのすごさを届けようとした結果、いつの間にかプロレスの知らない人が楽しめないプロレスの試合になっていたことにサムソン宮本さんは気付きました。
その反省からサムソン宮本さんは、プロレスをよく知らない人でも楽しめるエンターテインメントを目指します。

子どもから大人までみんなが笑って楽しめるプロレス団体として人気がでてきました。
そこで生まれたのが「無理しない!ケガしない!明日も仕事!」というキャッチフレーズです。
サムソン宮本代表には「プロレスで町を元気にしたい」「笑顔にしたい」という目標が生まれました。次第に知名度もあがり、数百人の観客が集まるようになりました。
別居(引退)の危機から全国区に
プロレスでみんなを元気にしたいと考えたサムソン宮本代表は、さらにプロレスに私費を投じ続けます。気が付けば200万円を超えていました。
それが原因で奥さんに愛想を尽かされ、奥さんとは、根室と札幌の別居生活をするようになってしまいました。
3年にわたる別居生活がこたえ、1度、プロレスを引退する決意もします。
しかし、観客の笑顔と声援が忘れられず、奥さんとの約束を破り、再びリングに立ってしまいます。
奥さんは、サムソン宮本代表のプロレス熱に根負けし、プロレスがある度に、根室と札幌を行き来する生活が始まりました。

新根室プロレスは、サムソン宮本代表が生み出した3メートルの巨大なパンダの着ぐるみレスラーが話題となって一気に全国区の人気となっていきます。
人気絶頂を迎えた新根室プロレス。そこに悪夢が襲います。サムソン宮本代表が突然、病に倒れてしまったのです。
(2021年9月15日放送)