NHK札幌放送局

「地獄の島」ガダルカナル島の戦い 一木支隊全滅から80年

ほっとニュースweb

2022年8月30日(火)午後5時47分 更新

「休んでいるわけにはいかない。慰霊祭には、はってでも行く」

太平洋戦争の激戦地、ガダルカナル島から生きて帰ってきた旭川市の104歳の男性が私に語ってくれた言葉です。 80年前、北海道出身の多くの若者が命を落とした「地獄の戦場」で何があったのか。それを知るために旭川市の元兵士と北見市の遺族のもとを訪ねました。

 (取材:北見放送局 徳田亮祐) 

ガダルカナル戦80年の慰霊祭

8月20日、旭川市の北海道護国神社を訪ねると、境内の片隅に慰霊碑がひっそりとたたずんでいました。80年前、南太平洋のガダルカナル島の戦闘に投入されて命を落とした「一木支隊」の兵士のために建立されたものです。

旭川市の北海道護国神社に建立された一木支隊慰霊碑

その慰霊碑につえで体を支えながら、一歩一歩ゆっくりと近づいていく男性が見えました。「一木支隊」の元隊員で旭川市に住む鈴木貞雄さん、104歳です。境内で開かれた慰霊祭に参列するため訪れました。

鈴木貞雄さん

新型コロナウイルスの感染拡大で、遺族などが参列する形で慰霊祭が開かれたのは実に3年ぶりのことです。ことしは札幌市や帯広市に住む遺族など15人が集まりましたが、元隊員は鈴木さんただ1人でした。
鈴木さんは会場に到着してパイプいすに腰掛けると、ただただ黙って慰霊碑を見つめ、亡くなった戦友に思いをはせていました。

鈴木貞雄さん
「ガダルカナル島で亡くなった戦友もただ死んでいったわけではない。
 どれだけ内地に帰りたかったか」

「地獄の戦場」で散った一木支隊

鈴木さんが配属された「一木支隊」は、旭川近郊の農家出身の若者らが厳しい鍛錬を重ね、精鋭部隊と呼ばれていました。
1942年8月20日、ガダルカナル島の飛行場奪還を目指していた「一木支隊」の先遣隊916人は、待ち構えていた1万人のアメリカ軍と交戦しました。

1942年のガダルカナル島

軍部の甘い見通しで10倍の兵力と戦うことになり、1日で隊員の8割余りの777人が戦死しました。
後続部隊で投入され、アメリカ軍の集中砲火を浴びたという鈴木さん。「地獄の戦場」と言われた島の様子を今も克明に覚えています。

慰霊碑を見つめる鈴木貞雄さん

鈴木貞雄さん
「周りに逃げ込むことができる村などが全然なかった。後ろを振り返れば、敵と竹やぶでしょ。しゃがんでいたら頭の上に兵士がみんなひっくり返ってきて血だらけになるほどだった」

戦友への思い 104歳の今も

鈴木さんは草を食べて飢えをしのぎ、激戦を生き延びました。104歳になった今も「体が動くうちは必ず出る」と慰霊祭に参列しています。
その力の源は80年前に死んでいくしかなかった仲間たちへの思いです。

仲間たちに祈りをささげる鈴木貞雄さん

鈴木貞雄さん
「ガダルカナル島の戦いは帰ってきた人が少ないから、戦地の状況、悲惨さを語る人がいないでしょ。休んでいるわけにはいかんよ。慰霊祭には、はってでも行きますよ」

帰らぬ家族の傷を抱えて

慰霊祭の会場からおよそ140キロ離れた北見市常呂町にも遺族の女性がいます。
94歳の中股かず子さんは、ガダルカナル島の戦いで兄の新江繁規さんを亡くしました。慰霊祭が行われた旭川市と自宅の距離が遠く、体力の不安もあったため、自宅で祈りをささげました。

北見市常呂町の中股かず子さん

繁規さんは9人きょうだいの長男で、家族思いの人だったと言います。いいなずけもいましたが、遠い戦地に赴いたまま帰らず、結婚することもかないませんでした。

中股さんの兄 新江繁規さんの遺影

中股かず子さん
「本当に優しくて妹たちの面倒をよく見てくれた。自分も学校の勉強があるのに、よく遊んでくれましたよ。兄ちゃんが軍隊に入る時、網走駅まで見送りに行ったら、兄ちゃんが汽車の窓から顔を出して『自分の分まで親孝行してくれ』ときょうだいたちに言って、手を振って行きました。それが兄ちゃんとの最後の記憶です」

優しかった兄の死は中股さんだけではなく、一家に暗い影を落としました。

中股さんの兄 繁規さんの戦死を伝える文書

中股かず子さん
「兄が戦死した時、私はまだ小さかったですけどね。父さんはかわいそうでしたよね。
『おめでとうございます。名誉の戦死を遂げられました』と戦死の公報を持ってこられたら、ただ黙って受け取るしかなかった時代ですからね。
どんな気持ちだったかね、父さんも」

8月21日、兄の命日を迎えた中股さんは、80年間抱えてきた思いを語ってくれました。

中股かず子さん
「兄は思っても帰ってきてくれる人じゃないから。今はただ安らかにと思うだけです。
あんな思いはもう二度とないようにと思いますね。ただただ戦争だけはしてほしくないと思うだけです」

取材を終えて

中股さんを取材するのは今回が2回目で、以前お会いした時も成績優秀で家族思いの兄だったことを教えてくれました。
なぜ将来のある若者が10倍の兵力を持つアメリカ軍に無謀な戦いを挑まざるを得なかったのか。話を聞くたびに、そのことを考えさせられます。
中股さんはインタビューの最中、ロシアによるウクライナ侵攻のことをたびたび口にしていました。中股さんや兄の繁規さんのように、戦争の不条理さにさらされている人が今もウクライナにたくさんいます。ロシア側にも戦死した兵士の遺族がいます。
「なんとか戦争だけはやめてほしい」という中股さんの訴えは、私にも重く響きました。

兄の命日で祈りをささげる中股かず子さん

今回取材した旭川市の元隊員、鈴木さんは104歳、遺族の中股さんも94歳と、当時を知る人たちの高齢化が進んでいます。その思いを一刻も早く、少しでも取材し、伝えていきたいと思います。

北見放送局 記者 徳田亮祐
2010年入局
帯広局、三沢支局、国際部、ソウル支局を経て、2021年から現職

中股かず子さんは去年、兄の繁規さんが戦死した時に持っていた日章旗を受け取りました。
特集記事「79年ぶりに帰ってきた兄ちゃん」もあわせてお読みください

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