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鉄道のお宝映像てんこ盛り!懐かしの鉄路 廃線紀行スペシャル

  • 2023年4月6日

「ほっとニュース道北オホーツク」の名物コーナー「懐かしの鉄路 廃線紀行」。2023年3月放送のスペシャルでは、これまで登場した中から「超ローカル列車」「極寒との闘い」「名物グルメ」「存続への思い」のテーマごとに廃線をセレクト。〝ママ鉄〟タレントの鈴川絢子さんとともに、道北オホーツクをくまなく走っていた鉄道の魅力にとことん迫りました!出発進行!

ゲストは「鉄オタ選手権」などでもおなじみの鈴川絢子さん。そして、MCは、鈴木遥アナウンサー。鈴川さんは、2人の男の子を育てる〝ママ鉄〟タレントとして、鉄道の旅の様子などをYouTubeに投稿しています。道内各地の鉄道もたびたび訪れている鈴川さんが注目している廃線とは?

鈴川さん:留萌線が段階的に廃止になるということで、去年10月に留萌線の全駅を巡ってきました。鉄道の廃線は、1つの歴史を終えるということなので、自分の目で焼き付けることができてよかったです。中でも「真布駅」の待ち合いの中に、世界地図が貼ってあって、『真布(まっぷ)駅だから、マップがあるんだ!』ということに気づいて、おもしろかったです。

2023年3月時点、道北オホーツクを走っている鉄道は、宗谷線や石北線など、7つの路線です。では、国鉄時代はどうだったのか?廃線になった路線は、なんと12。残った数より、廃線になったほうが多いんです。

 

根北線(斜里~越川)
知床半島の付け根を走る根北線は、昭和32年に開通しました。オホーツク海側の斜里町内で完結する短い路線で、沿線の人々から非常に愛されていた路線でした。

何やら足場が組まれていますが、実は、駅なんです。列車は、ホームに人がいれば停車し、人がいなければ通り過ぎていきます。国鉄時代は、こうした「仮乗降場」があったんです。

鈴川さん:ホームのサイズ感がすごくいいですね。一両編成で。

少しくらいの時間なら待ってくれる根北線。地元の人は「親切列車」とも呼んでいたそうです。
奥に見えるのは、斜里岳!壮大ですね。ですが、この根北線、開通したころから、すでに沿線の過疎化は進んでいました。乗客も貨物も、輸送量は振るわなかったそうです。

終点の越川駅です。こちらも斜里町内にありました。実は、根北線は、もともとは、斜里駅から根室標津駅までの 約60kmをつなぐ計画だったんです。本当は、この先があったんですね。
それをしのばせるものがあります。

越川駅のさらに奥に架かっているこちらの橋。「越川橋梁(りょう)」という愛称で呼ばれています。
しかし、列車がこの橋を渡る姿は、ついに見られませんでした。

鈴川さん:ああ~!

鈴木アナ:さすがご存じで。

鈴川さん:これは遺産として、とても有名な。鉄道ファンとしては、憧れの建造物なので、映像で見ることができて、うれしいです。

そして、昭和45年。根北線は13年のはかない鉄路の一生を終えることになります。さよなら列車が運行されて、斜里駅のホームは、大いににぎわいました。550人の乗客が根北線との別れを惜しんだということです。

鈴木アナ:仮乗降場は、いかがでしたか?

鈴川さん:いいですね💗板張りの感じとか。立地的にも、北の大地というのを感じられるような場所にあることが多いので、すごく北海道に来たなっていうのが感じられますね。

今も現役!元・仮乗降場の駅
道北オホーツクには、仮乗降場だった駅が今もまだ残っているんです。その1つが、幌延町にある宗谷線の糠南駅。鈴川さんもイチオシの駅です。

鈴川さん:わたしも行きました。物置を改造して待ち合いとして使われていて、糠南駅ならではの体験ができるんです。景色もよくて、遠くから列車が近づいてくるのを心待ちにして待つ、すごくすてきな駅です。

〝秘境駅〟として愛されている糠南駅ですが、毎年12月のある日、景色が一変します。
本州の鉄道ファンが企画したイベント「糠南クリパ」が開催されるんです!8年前からはじまり、去年は全国から約90人が集まりました。温かい差し入れもあって地元の人との交流も生まれるイベントです。
こうした全国からの応援もあり、町が駅の維持管理を行い存続させているということです。

鈴川さん:行ってみたいです!これだけたくさんの方が集まられて、本当愛されてる駅だなっていうふうに感じますね。

 

深名線(深川~名寄)
この路線は、ダム建設と木材運搬のため、大正13年に開通した雨竜線から始まっています。徐々に延伸をして、昭和16年に深名線に名前が変わりました。豪雪、そして厳しい寒さの中、地域の足を守り続けていました。

この地域は、豪雪地帯で、当時、冬は道路が閉ざされていました。地域の人たちが移動するには、鉄道が頼りでした。幌加内町にあった「蕗の台駅」です。

乗客が降りようとしたところ・・・。

乗客:降りられないなあ。ここ、ちょっと降りたいんですけど・・・。

車掌:もうちょっと、ちょっと待って。

ホームが雪で埋まっていたので、降りやすいところまで列車を移動させていました。

乗客:冬の間は降りる人いるんですか?

車掌:冬は誰も居ないですね。

鈴川さん:うわ!もうすれすれで、ほんとにレールのところだけ。

鈴木アナ:これだけ運行を守っていたのがすごいですよね。

冬場の深名線を支えていた、その裏側、ちょっと見てみましょう。線路の保守・点検を行うみなさんが行っていたのが、鉄橋の除雪。雪の高さは、1m以上。とても重そうですね・・・。
雪で脱線でもすれば大事故につながるため、鉄橋の除雪は、とくに大切な仕事です。

さらに、道内有数の寒冷地ならではの作業があります。トンネルの天井や側面についたつららを落としていきます。つららは放っておくと大きくなって、列車の運行の妨げになるんです。

こうして冬場の地域の足を守ってきた深名線。ですが、沿線道路の舗装工事が終わり、バスへ転換されることになり、平成7年9月、廃止となりました。

深名線の歴史伝える駅舎
沿線の幌加内町には、貴重なものが残されていました。こちらの駅舎。添牛内駅という駅で、築92年になります。冬は雪がどっさり。至る所が傷んでいたという状況でした。

「なんとか残したい」と、立ち上がったのは、町でそば店を営む山本昭仁さん。去年、クラウドファンディングを立ち上げて、支援を呼びかけました。 すると、支援してくれたのは全国から440人。総額500万円を超え、目標を達成しました!

そして、去年11月に工事が終了。見事、駅舎に命が吹き込まれました。今後はお花を植えるイベントを予定しているそうです。山本さんは「添牛内駅は時間がゆっくりと進んでいるような場所です。ぜひ癒やされに来てください」と話していました。

鈴川さん:またキレイに!すばらしいですね。もうすぐ100年ですもんね。なかなかないですよ。

鈴木アナ:しっかりと残していきたいですよね。

鈴川さん:受け継いでいきたいですね。

 

名寄本線(名寄~遠軽)
70年にわたって道北とオホーツクをつないでいました。
冬場の地域の足として活躍を続けた名寄本線。沿線には、オホーツク海が広がります。

流氷など、オホーツク沿岸の観光にとって大きな役割を果たしていた名寄本線。興部駅には、名物のお弁当がありました。

「帆立しめじ弁当」は、ホタテとシメジとタケノコの炊き込みごはん。海の幸と山の幸のうまみ、満載です!焼き魚やカツ、卵焼きなど、具だくさんの「幕の内弁当」も!

作っていたのは、地元のお弁当屋さん。米田和也さん夫婦が営んでいました。駅弁は、大変人気で、次々と売れていきます。見送りにも、おもてなしの心が感じられます。ちょっとした交流が旅をさらに豊かにしてくれますよね。

しかし、年々乗客は減少。利用するのは、朝夕の通学の高校生ばかりになり、沿線の駅も次々と無人化されていきました。昭和59年、名寄本線の累積赤字は、約65億円にも達しました。そして、平成元年4月、名寄本線は、とうとう廃止となりました。国鉄の第二次廃止対象路線の中で「本線」の名がつくのは、この名寄本線だけでした。

名寄本線 駅弁の思い出

鈴木アナ:鈴川さん、駅弁をお好きだと伺っています。ご自宅でも召し上がるとか?

鈴川さん:はい。いろんな地域の駅弁を購入して、家でちょっと旅気分、列車旅気分を味わいながら、家族で食べています。

興部駅の「帆立しめじ弁当」などの駅弁を作っていたお店は、今はありませんが、当時を知る方にお話を伺うことができました。

興部町出身の米田亮子さん。お弁当屋さんの息子、米田和久さんと、23歳のときに結婚。
駅弁づくりを手伝っていました。

亮子さん:タケノコを煮る匂いが本当にいい匂いで。味は濃いめですけど、だからって辛いのじゃなくて甘じょっぱいっていう、そういう雰囲気かな。

NHKが撮影した当時の映像を見てもらいました。お弁当を駅まで運ぶ、義理の父の和也さんの姿。そして、夫の和久さんがお弁当を包む様子などが収められていて、懐かしむ亮子さん。

さらに、亮子さんが見つけたのが!

亮子さん:あ、わたしも映ってるんだ!え!?びっくり!こんなのありましたっけ・・・。
これはたぶんカツにすると思うんですよ。揚げると思うんですよね。その下ごしらえですね。

44年前の映像に映っていた亮子さん。忙しい日々の中で、厨房の匂いが印象に残っているそうです。

亮子さん:厚焼き卵なんですけど、卵のおいしい匂いが、漂ってる。興部は生まれたところなので、やっぱり懐かしいし、忘れられないですね。

砂糖としょうゆの絶妙なバランスが味の決め手。20代のとき、駅弁づくりで覚えた卵焼きは、いまも自慢の一品です。

鈴木アナ:おいしそうでしたね。

鈴川さん:いいですね。やっぱりご家族の思い出の味とか、そのときの時代のにおいっていうのが、駅弁を通して、いろんな鉄道のファンの方、旅行者の方に伝え続けられてるっていうのが、すてきですよね。

番組ディレクターからひと言
卵焼き、食べさせてもらいましたが、優しい甘さが口いっぱいに広がって、とてもおいしかったです。ほっとする味で、何個も頂きました。この味とともに楽しむ、名寄本線の鉄道旅、間違いなく楽しかったと思います。あの映像の世界に近づくことができた気がして、うれしかったです。ごちそうさまでした。

 

湧網線(中湧別~網走)
颯爽と進む湧網線、そこに広がるのは、この眺め!昭和28年に全線が開通しました。

鈴川さん:最高!沿岸部を多く走っていたんですね。

鈴木アナ:北海道、季節がいいですよね。

鈴川さん:四季を通してね、いろんな景色が見られる。

湧網線は、特に夏の観光シーズンは、にぎわいました。景色がよい路線で人気があったんですが、自動車の普及などで、乗客は減少。昭和57年に、廃止対象路線となりました。

なんとかして、湧網線を残したい。地元の人たちは、立ち上がりました。こちらは、佐呂間駅。大勢の方が乗り込んでいます。湧網線の存続を求める決起大会がなんと、車内で行われました。

さらに、こんなことまで!立ち上がったのは、若者たち。手作りの人力車で、湧網線沿いを走ろうというんです。朝5時、網走駅を出発!湧網線の利用を呼びかける人力車キャラバン、約90人が参加しました。

湧網線沿いの国道を時速10㎞ほどで走ります。網走から上湧別までの約100㎞に挑戦です。約13時間かけて、ゴールに到着しました。

鈴木アナ:ウルトラマラソン並ですよね。

鈴川さん:100㎞はなかなか・・・。すてき!〝乗って残そう〟っていうのが。

こうして、さまざまな形で存続を訴えましたが、昭和62年3月、湧網線は、とうとう廃止となりました。
50年あまりに渡って走り続けた湧網線。雪景色の中、最後の運行が行われました。

美幸線(美深~仁宇布)
つづいては、美幸線です。なぜ「美幸線」かというと、美深駅から北見枝幸駅までを結ぶ予定だったんです。北見枝幸の〝幸〟から幸せの文字が来ているんです。

美深駅から仁宇布駅の区間は、昭和39年に開通しました。深い緑の中を進んでいきます。窓を開けて、空気を吸い込みたくなりますね。しかし、この美幸線、利用者が少ないため、100円の収入を得るのに、約3,000円の費用がかかる「日本一の赤字路線」だったんです。

なんとかしようと、立ち上がったのが、当時の美深町長の長谷部秀見さん(1913-2000)です。
長谷部さんは、赤字日本一を逆手にとって、美幸線のPRに奔走しました。

やってきたのは、東京・銀座。道行く人に、切符を買ってくれるよう、みずから声を上げました。
すると、行列が。この日、用意した切符は、3,000枚で、夕方には、売り切れたそうです。

鈴木アナ:実際に乗れない方もみんな買っていった。

鈴川さん:そうですよね。応援という意味を込めて。また硬券がいい💗

あるときは、冬の旭川駅前でも切符を販売しました。ほかにも、札幌や大阪にも出向いたそうです。
しかし、町長の努力のかいなく、バスへの転換が決まりました。

そして、昭和60年。わずか20年で、その歴史に幕を閉じました。さよなら列車には、鉄道ファンや地元の人たちなど、2,000人を超える乗客が詰めかけました。

トロッコで美幸線を追体験!
実は、美幸線の線路は、今も残されているんです。終点の仁宇布駅から5㎞にわたってトロッコに乗ることができるんです。

鈴木アナ:私も乗ったことあるんですけれど、とっても気持ちがいいんですよ。

鈴川さん:そうですよね。自分がレールの上なので、車両になった気分で景色を見られるって事ですよね。家族で訪れたいです!私も。

鈴木アナ:きょうは、道北オホーツクの廃線を振り返ってきました。

鈴川さん:みんなに愛されてこれまで続けられて、廃線になったあとも皆さんのいろんな思いで、いろんな形で残されているんだなと思いました。

鈴木アナ:ぜひまた来ていただいて〝鉄分〟補給してください!

鈴川さん:乗って応援します!

「懐かしの鉄路 廃線紀行スペシャル」、いかがだったでしょうか?
これからも道北オホーツクの廃線をご紹介していきます!
 

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