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トップ  バックナンバー  2009年  4月  第3回 美の戦国合戦

美の戦国合戦
~長谷川等伯vs.狩野永徳 絵師たちの夢と野望~

●本放送 平成21年 4月15日(水) 22:00~22:43 総合 全国
●再放送 平成21年 4月22日(水)
平成21年 4月22日(水)
平成21年 8月25日(火)
 8:15~ 8:58
16:05~16:48
 1:44~ 2:26
BS2
総合
総合
全国
全国
全国(月曜深夜)
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。

エピソード1 等伯の絵が天下を変える?

高野山・成慶院に伝来する1枚の肖像画。室内なのにタカが描かれた、なにやら不思議な肖像画だ。実はこの絵、30代の等伯が戦国武将の武田信玄を描いたものとされている。
能登の国・七尾に生まれ、20代から地元の人気絵師として活躍していた等伯の運命が大きく変わったのは30代前半、隣国・越前の朝倉氏から信玄の肖像を依頼されたのだ。山形大学の宮島新一教授の説に基づいてこの肖像画を見ると、新たな視点が開けてくる。
当時、急速に勢力を拡大していた織田信長に対して、朝倉氏・本願寺・足利将軍家は反信長勢力として団結。この同盟に武田信玄を加えるにあたり、贈物としての肖像画を等伯に描かせたと考えられている。絵の中には、朝倉氏・本願寺・足利将軍家を意味するものが描きこまれ、反信長包囲網を象徴しているとされる。等伯はこの肖像画を通じて、天下の権力者に仕えて御用絵師になるという、絵師としての大きな野心を抱くようになったのだ。
長谷川等伯「武田信玄像」成慶院蔵
 

エピソード2 戦国絵師の仁義なき戦い

大徳寺金毛閣の天井に描かれた巨大な霊鳥、「迦陵頻伽(かりょうびんが)図」。等伯51歳の作品だ。40代頃に京に移り住んだ等伯は、大きな仕事を手がけるための人脈作りに奔走、10年近くかけてついに千利休の知遇を得る。大徳寺の天井画も利休の庇護の下に手がけたものだった。しかし、この等伯の台頭を苦々しく見ていたのが、天下人や朝廷の仕事を独占していた絵師集団・狩野派の頭領、狩野永徳だ。等伯が御所の仕事を受注するに至って、永徳の怒りは爆発する。すぐさま永徳は政治工作を行い、等伯への発注はキャンセルされてしまった。美しい数々の絵の背後には、絵師たちの必死の戦いがあったのだ。
 

エピソード3 2つの国宝 等伯に何が?

長谷川等伯「楓図壁貼付」智積院蔵                長谷川等伯「松林図屏風」 東京国立博物館 TNM Image Archives
大徳寺の天井画も利休の庇護の下に手等伯には、代表作とされる国宝が2点ある。金地に巨大な楓(かえで)を描いた絢爛豪華な「楓図壁貼付」と、それとは対照的に墨一色で描かれた幽玄な「松林図屏風」だ。2つの作品は5年と間を置かずに描かれたと言われている。等伯にいったい何が起こったのか?
ライバル永徳の急死によって、等伯に突然のチャンスが訪れる。秀吉の亡くなった愛児の菩提寺を飾る絵の注文が舞い込んだのだ。そして完成させたのが「楓図」。豊かな色彩やデザイン感覚を打ち出したこの傑作により、等伯は秀吉に認められる。しかしその直後、等伯は跡継ぎの長男・久蔵、そして秀吉の死に相次いで直面する。その頃描かれたのが「松林図屏風」。霧に煙る松林を描いたその画面は、故郷七尾の風景を思わせる。権力者のために描き続けて絵師としての頂点を極めた等伯が、家族や故郷を思う心の内を初めて描き出した絵画、それが「松林図屏風」だったと考えられている。
 

この回ゆかりの地は・・・

参考文献

「長谷川等伯」   宮島新一  ミネルヴァ書房
「狩野派絵画史」 武田恒夫  吉川弘文館
新潮日本美術文庫3「狩野永徳」   川本桂子(解説)  新潮社
新潮日本美術文庫4「長谷川等伯」 黒田泰三(解説)  新潮社
「御用絵師 狩野派の血と力」     松本寛  講談社選書メチエ
「長谷川等伯」   土居次義  講談社

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