1945年8月6日…私は元気な11歳の女の子でした。
戦争も敗色濃く、学校も軍に接収されて
戦病者の病院になっており、
生徒たちはそれぞれの集落の公民館で
自習して毎日を過ごしておりました。

8月6日は水泳会があり、学校の近くの神社に集合して
久しぶりに会った友達と遊びながら号令を待っていました。
神社は負傷した兵隊さんたちの散歩の場所であり、
白衣を着た人たちが何人かいて、
子どもたちと話し合ったりという穏やかな朝の光景でした。

突然、太陽が炸裂したような強い光が目の前を走りました。
暗くなり、私たちは神社の床下に潜り、
何事が起きたのかわからないまま不安でした。
暫(しばら)くして外に出ると、
兵隊さんがアメリカが大きな写真機で
写真を撮ったのだろうと言っているのを耳にして、
そうなのかと思っておりました。

しかし、南の空はモクモクと雲が広がり、
異様な空の色に只事(ただごと)では無い
という予感がしました。 
楽しみだった水泳も出来ず解散になりました。
家までの4キロの道のり、
空からいろいろな物が降ってきたのです。
焼き焦げた木片、紙切れ、布切れ、
私たちは面白がって追いかけて拾ったことを覚えています。
同時に雨が降り、
白い上着に点々と黒いしみが滲(にじ)んでつきました。 
後に言われる黒い雨を浴びていたのです。

私たち家族には大きな心配事がありました。
母が、前日の5日の午後、
お見舞いに舟入(ふないり)病院に行き、
その晩は親せきの家に泊まり、
6日の朝、もう一度見舞いによって帰宅する予定でした。
午後の中に必ず帰るからと言って、出かけたそうです。

身内、近所の人々が、毎日市内まで出かけて
探してくださったのですが、わかりませんでした。
私たち4人の兄弟を残して帰らない母を、
祖母は、夜も戸を開け蚊帳の中で寝もせず待っていました。
気丈な母は、一体どこでどのように亡くなったのでしょう。

昨年、私たち、国民学校時代のクラス会が
似島(にのしま)でありました。 
似島は宇品(うじな)から船に乗ってすぐですが、
私は初めてでした。
宿のご主人が車で島の回りを案内してくださいました。
その時、草の繁みの中に石碑があり、尋ねると、
原爆でこの島に送り込まれた人たちのお墓だと
話してくださいました。

宇品から1番近い島、舟入からも遠くはない…
もしかして母も、この島で眠っているのかも知れない。
ふとそのように思ったのです。
クラス会があの島でなければ、行くこともなかった島、
私は手を合わせ、安らかにと祈りました。

工場は焼け落ち、赤茶けた鉄骨だけになっていました。
壊れた塀の上に身を乗り出して中を見ると、
スコップを持って作業をしている人が3人いました。
「山脇ですけど、父はどこでしょうか?」
兄が大声で叫ぶと、
「工場長の坊ちゃんたちですね。
 お父さんはあそこですよ。」と教えてくれました。
私たちは指さされた事務所の壁の方へ走りました。
そこで見たのは、
笑ったような表情で横たわった父の遺体でした。
ぼう然と突っ立っている私たちのそばに、
作業員たちが寄ってきて、
「坊ちゃんたち、お父さんを連れて帰ろうと思うなら、
 ここで焼かんと駄目だよ、それが厭なら、
 ここに穴を掘って埋める? どっちにする?」
私たちはそこで焼くことにして、
作業員の人たちと一緒に焼け残りの柱を組み合わせ、
父の遺体をその上に寝せて、
木ぎれを積み上げて火をつけました。 
燃え上がる炎に、私たちは手を合わせて拝みました。
ふっと目を上げると、
炎の中から父の素足が2本とび出していました。
足首を炎が舐めていく光景は、
私たちにとって見るに耐え難いものでした。
それが作業員の人たちに伝わったのでしょう。
「もう帰りなさい。明日もう1度、骨を拾いに来なさい」
と言われました。

翌朝、私たちは、壊れた家で、
父の遺骨を入れるものを探しました。
台所で梅干しが入った壺を見つけ、兄がそれを洗い、
風呂敷に包んでぶら下げ、私たち双子が後について、
今度は骨を拾いに行きました。
工場にはもう誰も居ませんでした。
私たちは、兄の後ろについて父を焼いた所へ進みました。
父の遺体は完全に焼けていませんでした。
私たちが骨を拾おうとすればするほど、
半焼けの遺体はあらわになりました。
それはまるで骸骨に灰をまぶしたような姿でした。
骨が拾えたのは手足の指の部分だけだったのです。
私は、耐え難くなって兄に言いました。
「もうここにいるのは厭(いや)! 
 お父さんはこのままにして帰ろうよ」。
すると、灰にまみれてごろんと横たわっている遺体を
しばらく見つめていた兄が、ぽつんとこう言ったのです。
「仕方がないよな、お父さんの頭の骨を拾って
 お終いにしよう」。
兄は、持っていた火箸で父の頭蓋骨に軽く触れました。
それは意外にも脆(もろ)く、
石膏(せっこう)細工を崩すように割れ、
中から白濁した脳が流れ出したのです。
兄は火箸を捨てて逃げ出しました。
私たちも、そのあとについて逃げ出しました。

母はあの日、私の妹や弟をつれて
佐賀の実家に疎開していて、被爆を免れました。
その母は、2005年に97才で無くなりました。
私たちは、父を焼いた時の出来事を
母に話すことはありませんでした。

あの日、私は、宇品の船舶練習部の2階の教官室の窓際で、
隊長と並んで、望遠鏡でB29を追っていた。
と、広島の上空に、真っ赤な血液のようなものが、
するすると広がった瞬間、聞いたこともない、
想像に絶する轟音が襲ってきて身体が悶(もだ)えた。
次の瞬間、二人は、部屋の真ん中に並んで伏せていた。
恐らく爆風で飛ばされて、気を失っていたのだ。

翌朝、数十名の幹部候補生を引率して
市内中心部へ乗り込んだ。
広島城の真下の西練兵場は、修羅の巷(ちまた)だ。
おびただしい死骸が散乱している中に、
生き残った人の塊がうずくまっている。

不思議なことだが、防空壕の出口に、将校が、
どこも汚れていないし、どこにも傷がないまま死んでいる。
そこから少し離れたところでは、
数名の兵士が、泥と爆煙にまみれて死んでいる。
1人は、裸の腹部がはじけて内臓があふれ出て、
折からの炎暑で膨らみ始めている。
どうしてこんなことになるのだ。
このありようの違いは一体何故なのだ。

ここに着く前、
紙屋町(かみやちょう)の電停に止まっている電車を見た。
電車に乗ろうとして手をのばして、
片足を電車の踏み板にかけたまま黒こげになっていた人。
つり革に手をかけたまま黒こげになっていた人。
動いている人間が瞬時に、
そのまま炭にまで黒こげになるというのは、
そんなことがどうしてありうるのか?

そこが、ほとんど爆心地であることも、
それが原子爆弾であることも、知る由もないまま、
まず生存者の収容に当たる。
宇品との間を往復するトラックを待つ間、
ひどい火傷(やけど)、切り傷にあえぐ
おびただしい数の負傷者に、
携行した薬も包帯もすぐになくなった。
赤チンだけとなったのだが、
負傷者は、それでも効くはずのない赤チンを求め、
それを塗ると、いとも嬉しそうにする。
その空しさに、赤チンを塗る幹部候補生たちは、
涙にくれて手が震える。

空しさとやるせなさに苛(さいな)まれながら、
連日、死骸の収容と、負傷者の輸送に追われた。
放射能の存在を知る由もなく、水道の溜まり水を飲み、
補給の食料が不足するまま、練兵場の地中の
サツマイモを食べて、
3日目から、ひどい下痢と発熱に襲われた候補生たち。
まさしく地獄絵の中で、救援する側も地獄に堕ちてゆく。
そんな1週間を過ごした。

日本国有鉄道 広島機関区に学徒動員されていた私は、
被爆当時、旧制中学2年生でした。
 
8月6日、原爆が投下され、
朝8時頃、食堂へ行くため寮の玄関で靴を履いた瞬間、
光った。
続く轟音で外に飛び出たが、目の前が真っ暗になり、
暫く立ちすくんだ。 
すぐ近くで爆発があり、火の手があがる。

私は、鉄道施設へ避難するよう指示を受けた。
向かう道中、続々とけが人が集まってくる。
大半の人が半裸でやけど。 
頭髪が焼けただれており、年齢も男女も区別がつかない。
ほとんど外傷のない私はけが人の治療を指示され、
皮膚にこびりついた服をはがして傷を洗浄する。
最初はおそるおそるやっていたが、
次から次へと押しかけてくるけが人に対処すべく、
だんだん手荒になる。 
痛かっただろうに、みんな無言。

翌7日、10時頃から国鉄のトラックで救護作業に出る。
火煙の中、お寺や集会所などを回り、
乾パン等の食料と水を投下し、軽度の怪我人を収容する。
軽度とは、怪我や火傷の大小では無く、
自力で歩行出来るかどうかである。 
施設では、広場にムシロを敷き、何十人、何百人の人を
市場のマグロのように寝かしているのだから、
自力で動けない人は収容できないのである。
つまり、現地で治療を受けるか、放置するしかない。
収容作業を終えてトラックに帰ろうとする私に向かって、
「俺も連れて行ってくれ」
・・たぶん、そう言ったのだろう。
横たわった体で力なく手をあげ、
ただ「おーおー」と叫んだあの声、
すがるようなあの眼差しは、今でも夢に見る。

8日、午前8時半から、警防団の人と、
トラックで死体の収容作業に出る。
  1人が頭、1人が胴、私は少年だから
足首を持てと言われて足首をつかむが、
ズルッと皮がむけて握れない。
死後3日、ブヨブヨに膨れ腐った死体である。
「表面をつかんでもだめじゃ。 肉の中に指を入れ、
 骨を握らにゃあだめじゃ」。
そうは言っても、まだ13歳。
何回言われても、屍臭(ししゅう)が漂う腐肉の中に
素手で指をつっこめない。
「お前、それでも日本男子か。」
何回かどなられて、
「よし、これもお国のためだ」と、覚悟を決めた。
指先に力を入れる。
グシュという音がした。
骨が握れた、意外と細い。

1、2の3でトラックに積んだ。
このときの指先の感覚は筆に表せない。

正午頃、施設に帰った私は、
上司から芸備線が復旧したので帰宅するように言われ、
幸いにして死体から解放される。
午後11時過ぎ、家に着き、家族総出で喜んでくれた。
姉や弟たちが私の手を取ろうとするが、
私はみんなと手が握れない。
腐肉の中に素手で指を入れたその手で、
親兄弟の体にさわることができなかったのだ。

集会所で聞いた言葉にならぬあの声。
すがるようなまなざし、
腐肉に突っ込んで骨をまさぐった指先の感覚。
あれから64年、忘れたいあの記憶が、忘れ得ない。
私は、一生、この記憶とともに
生きなければならないのだろう。

8月9日、私は、爆心地より2.6キロ附近で被爆。
疎開先から、浜口町の家に残した家具を
引き取りに行く途中のことだった。
幸い、山かげになっていて熱線は避けられたが、
爆風で飛ばされ一時的に記憶を失った。
母の叫び声で我に返る。

不安な一夜を過ごし、
翌朝になっても市役所勤務の父が帰らない。
母と二人で市内を縦断し、市役所に向かった。
地獄絵のような中、幼い頃遊んだ川には、
性別も分からない数百人の人々が水を飲む姿のまま
列をなして息絶えていた。
市役所で市長に面会し、
父が浜口町に寄ると言っていたとのことで、
生存は絶望となり、足取りも重く帰路につきました。

3日目、せめて遺体でもと覚悟して、母と2人で
一升瓶に水を入れて出かけた。
浜口町(はまぐちちょう)の電停より
100メートル先にある我家に向かって、
幾多の死体をかきわけながら進んだ。
爆心地500メートルの世界は無残そのものだった。
電停と我が家の間を2回往復して、諦めかけた3回目の時、
家まで20メートル位の道路脇の側溝の中に、
黒焦げの死体がうつぶせになって横たわっていた。
母が呟くように、父が新聞を読んでいる姿と似ている
というので、半信半疑で棒きれで死体を仰向けにした。
例え父でも、素手で動かせる状態ではなかった。
下顎の肉は焼けずに残っており、無理に口をこじあけ、
左上の糸切り歯を調べたところ、銀歯でした。
母は直感で泣き崩れ、父の爆死を確認した。
どのくらいの時が過ぎたか判らないが、
夕暮れが迫り、どうする事も出来ず、
付近の板切を集め父の上に被せて
後髪引かれる思いで帰宅する。
 
4日目、父の知人に事情を話して同行してもらい、
焼残りの木片を集め、廃墟の長崎で
父を荼毘(だび)に付した。
少し離れた所にジュラルミンの弁当箱が、
四隅に黒焦になった米粒を残して、無残にころがっていた。
当時12歳の私には、この現実は余りにも残酷だった。

その日は朝から一点の曇もなく、
じりじりと照るつける日本晴れであった。
登校までのひと時を寄宿舎の中庭で友と語り合っていた。

8時頃、誰かがB29の4機編隊が低空飛行で
広島市の中心から東方に向かってくるのを見つけて叫んだ。
と、その瞬間ものすごい閃光がはしり、
目の前や身体全体が真っ黄色になり、
一時、意識を失い、その場に崩れるように倒れた。
何秒かたって、無意識のまま寄宿舎の中に逃げ込んだ。
その途端、強烈な爆風により部屋の隅まで
いやというほど叩き付けられた。
その上に、雨戸や天井などが落ちてきた。
無我夢中で裏の崖を登り、丘の方へ逃げた。

何分か走ったであろう。 
後ろを振り返ると、上空には「きのこ雲」が
空一面に立ち上り、広島の町は廃墟と化していた。
わずかに焼け残った電柱が、次々と1本また1本、
我が町に向かって倒れていくのが見えて、
とても悲しく思えた。

なにが起きたのか、全くわからない。
ただ呆然と歩いていた。 
すると両足に、ひたひたとついて来るものがあった。
何かなとひっぱり上げると、
両足のふくらはぎ全体の皮がひっ剥がれ、
焼けただれたどす黒い肉塊がでているではないか。
これが自分の足だろうかと思うと、
14歳の私にはとうてい受け入れられず、
その場にへたりこんで動くことさえできなかった。
暑さと疲労で動く気力もなく、
足はじくじく腐っていくような気がして滅入ってしまった。

友が、尾長(おなが)の丘の上で
陸軍が救急班を設営したとの情報を得てくれたので、
治療をしてもらおうと、丘へとむかった。
  手当といっても、軍人さんが、
ただ患部に直接食用油を手でぬってくれるだけである。
痛いという感覚ではない、
脳天を斧(おの)でしばかれる思いである。
小さな空き缶にその食用油を入れてくれて、
時々患部に塗るようにいわれて治療はおわった。
 
8月8日、矢賀駅から汽車がでることを聞き、
広島にいては生きていられないと思い、
故郷の島根へ帰ることにした。
汽車は満員で腰をかけるところもなく、
時折人の荷物が傷口を直撃するたび、
飛び上がる痛さもじっと我慢するしかなかった。
途中、塩町(しおまち)駅止まりとなり、一夜を明かす。
あとは気合いで、歩くことにした。
8時間かかり懐かしい松江に到着。
気が張っていたせいか家に着いたとたん、
それからおよそ三カ月、
全く歩行することが出来なくなった。
弱冠、14歳の私にとって、
あまりにも過酷な試練であった。

母さん、僕は、先日も何回目かのつらい夢を見たよ。
頭の上でグワンという爆発音がして
破壊し尽くされた街並みが現れた。
それを見た僕は、「今度こそは母さんを助けるぞ」
と叫んだ瞬間に、目が覚めた。
その時の悔しさは、言いようがなかったよ。

8月4日か前日の5日か、母さんは、近所の小さな店で、
醤油いためのひじき1皿分を、
僕たち兄妹のために持ち帰ってくれた。
それを僕たちは、むさぼるように食べてしまったが、
母さんは自分も空き腹なのに、
大豆の豆かすをひいたコーヒー汁を飲んだだけ。
母さんは、そんなことまでして僕たちを守ってくれたのに、
僕は、何もできなかったんだ。

あの日、僕は、爆心から1.2キロ離れた自宅の庭にいた。
飛行機の爆音が聞こえて間もなく、
激しい爆風の衝撃で地面にたたきつけられたけど、
向かいの家の屋根の陰になって、
奇跡的に火傷(やけど)も負わなかった。

一瞬にして崩壊した広島の街並み。
母さんは、崩れ落ちた家の下敷きになっていた。
「母さん!」と呼ぶと、
屋根の下から「ここよ」という声が聞こえた。
「ああよかった。 生きていてくれたんだ。」
しかしその喜びも束の間だった。 
屋根板をはがして顔を突っ込むと、
目の前には大きな梁(はり)が重なって、
行く手をはばんでいた。
わずかな隙間から、1メートルほど先に
仰向けに倒れている母さんの姿が見えた。
つむった目のあたりから血が流れていた。
「こっちからはもう入れんのよ。
 そっちで動けんの」と聞くと、
「左の肩の上を押さえている物をどけてくれんと
 動けんのよ」という答えが返ってきた。

別の方から掘り出したが、なかなか進まない。
そのうち、爆風の吹き返しで
火が物凄い勢いで迫ってきた。
火の粉がふりかかってくる。
気が気でない。
「母さん、駄目だよ。火が近づいてきたよ。
 こっちからはもう側まで行けんよ。」
悲鳴に近い叫び声をあげた。
外にいる僕でさえ何が起こったかわからないのだ。
まして家の下敷きになって
周りが見えない真っ暗な中では、
不安というよりも恐怖心でいっぱいだったろうね。
でも母さんは、
「そんなら早よう逃げんさい」と言ってくれた。
それなのに気も動転していた僕は、
「母さん。ごめんね。父さんの所へ先に行っていてね。
 僕も、アメリカの軍艦に体当りして、
 後から行くからね。」
・・・・・何という親不孝の言葉だろう。
しかもその後に
「妹が大きくなったら、いい所へお嫁にやるからね。」
と言ったんだ。
すぐ後から行くと言いながら、
妹が大きくなるまで生きると言ったんだ。
別れ際に母さんを裏切る言葉を告げたんだよ。

2〜3日後、家の焼けあとに積もった灰の中を探したら
母さんが倒れていた場所から
遺体らしいものを見つけ出すことができた。
でもそれは人間の姿ではなかったよ。
まるでこどものマネキン人形に
コールタールを塗って焼いたような
油でずるずるした物体だった。
母さんは、あんな姿で殺されたんだね。
人間としてではなく、「モノ」として殺されたんだ。
悔しい。本当に悔しい。
僕は、原爆の業火(ごうか)で、
生きながら焼かれる母さんを見殺しにして逃げた。
そして80歳近くまで生き延びているんだ。
母さんへの罪の意識は、一生抱いていくよ。

あなたは誰ですか、あなたは男ですか、女ですか、
大人ですか、子どもですか、
あなたは黒い人型をした塊でした。
大人にしては少し小さいように見えました。
少年ですか、少女ですか、どこに住んでいたのですか。

焼け野原の中の 鉄骨だけ残ったビルの入り口。
一段高いセメントの上に、誰かがそっと置いたように
あなたは横たわっていました。
私は国立広島療養所の救護班の1人として、
8月9日広島に入りました。
地名も、ビルの名もわからない建物の中に、
あなたはいました。

たくさんの人が火傷(やけど)で苦しんでいましたが、
私はあなたのことが気になって、その場を離れられず、
どこかに正常な皮膚が残ってないかと見ましたが
真っ黒でした。
こんな死に方をしなければならないなんて、
どんなに悲しくて、悔しくて、
そして苦しかったことでしょう。
それとも一瞬のことだったでしょうか。
返事が欲しいです。
私は、あなたを見つめていました。
その時でした。
大きくあなたの胸が 動きました。
私に何か言葉をかけようとしたのですか。
何か言いたかったのですか。
原爆が落ちて3日目です。
生きておられるはずのない黒い塊でしたのに、
1回だけ胸が大きく動きました。
間違いありません。 しっかり見ていました。
私の心臓もどきどきしていました。

60年以上の歳月が過ぎても、あなたのことは、
いつも、いつも頭に焼きついて残っていて、
まったく消えません。
祈っても願っても消えません。
私が死ぬまで消えないのでしょうね。
それならば、このまま最後まで持ってゆきましょう。

両親の他界により、私たち5人の子供は
生活するすべを無くしました。
1人は養子に出され、1人は就職し、
3人はそれぞれ親戚を頼り、
兄弟が離散した生活が始まりました。

私が小学校2年生の時、
山口県で一緒に住んでいた祖父が他界。
長男と2人、炭で火を起こし、外米(がいまい)で
お粥を作り、自炊生活がスタートしました。
当然おかずは作れません。
小学生時代は給食があり、
昼食だけはしっかり食べることができました。
夏休み中は給食が無いため、5、6年生になってからは
海水浴場の貸しボート屋さんでアルバイトをしました。
身体が小さいので賃金は頂けないのですが、
3食付いています。

中学生になってからは新聞配達を始めました。
賃金は500円程で、あまり生活の足しにはなりません。
中学校は給食が無いため、
昼食時間になると校庭横の小川に身を隠していました。
2日間食べずに新聞配達をし、
学校で倒れたこともあります。
栄養失調の生活、ピカドンと言われ、親もいない・・。
学校では虐め(いじめ)の対象でしかありませんでした。
「何故、こんな生活をしなければならないのか・・・」
と両親を恨んだことでした。

やっとの思いで中学を卒業したのに、
今度は就職先がありません。
「アッソォー、親が居ないの」で、面接は終了。
それでも大工の見習い、タイヤ修理、
スコップでトラックの砂利の積み下ろし助手など、
食べるために職を転々とし、東京で2年、大阪で8年。
最後の神奈川で会社に入った時には、
27歳になっていました。
「これで念願の衣・食・住のかなった生活が送れる!
 人間としての仲間入りが出来る!!」と思いました。

あれから41年。 現在では、持ち家があり、
子供2人・孫も2人おります。
家族全員が病気に無縁な幸せな家庭です。 
しかし、4年前に突如
私の顎から上の毛髪が抜け落ちました。 
未だに、眉毛・まつ毛はちらほら、頭髪は白髪で
以前の3分の1程度です。 
こんなことがあること自体怖いのです。
いつ、どんなきっかけで放射能の影響が出るかわからない、
一生こんな思いから逃れることは出来ないでいます。

私の実家は、広島市南蟹屋町(みなみかにやちょう)。
父親が勤めから帰ってくると、私たち兄弟を
屋外にある風呂に入れてくれたこと。
風呂に入っていると
煙を吐いて汽車が走っているのが見えたこと。
近くの大きな川で、姉が背中に乗せて泳いでくれたこと。
これらは全て、被爆前の記憶であり、楽しい思い出です。

昭和20年。 私は18歳で、
佐世保海軍共済会病院の新米の看護婦でした。
患者さんの1人で、
私より3歳年上のきよ子さんのことが忘れられません。
左手と左足の火傷(やけど)でした。 
瞳の美しい睫(まつげ)の長い方で、
大部屋の窓辺のベッドでした。
体を拭いたり、髪を梳(と)かしたり、
爪を切ったりしているうちに、
きよ子さんも、妹にでも話をする様に、
いろんなことを喋りかけてきました。
「はよう治して長崎に帰らんば、
 あん人も、きっと私を探しよらす」
きよ子さんは、結婚式が何日か後に決っていた様で、
相手の方の心配をしきりにされていました。
鏡が欲しいと言われるので、小さな鏡を貸すと、
顔をのぞいて、「火傷が手と足でよかった」と、
何度も喜んでおられました。

終戦となり、静かな夜は返って来ましたが、
日毎に症状が悪化する人もいて、
きよ子さんの髪も梳かす度に抜けて、
そっと隠して捨てていました。
「鏡を貸して」と云(い)わなくなり、
「もう髪は梳(す)かんでよかよ」と、
さわられたくないようで、
何時も目を閉じていて、話もしなくなりました。
私は、きよ子さんの顔を見るのが辛くなり、
そっと見て帰っていました。
検査では白血球の数値が段々高くなっているとの事でした。
「もう戦争は終わったんだよ、さあ今からなんだよ」と、
私は心で叫んで悔し泣きしていました。

8月も終わりの頃には、きよ子さんは個室に移られました。
きよ子さんの顔を何日か見にいけないでいて、
9月のある夜、当直に入り、急いで部屋に行ってみると、
もうそこに姿はありませんでした。 
忙しさで、きよ子さんを見届けられなかった・・・。
この後悔は、今も心の奥にしこりとして残っております。

彼女が入院されて間もない頃、
2人で窓辺に立って撮ってもらった
白黒の古い写真があります。
小さな色あせた一枚ですが、
きよ子さんは、あの美しい瞳で遠くを見ています。

昭和20年、私は軍人の志願兵で、
江田島(えたじま)にいたのだ。
8月6日の午前11時ごろ、「新型爆弾」と情報が入り、
「広島市は燃えてしまい多数の死者が出た。
 今からすぐ救援に行け」、という命令を受け、
船で出発した。

広島の港へ20分くらいで着いた。
上陸した途端、爪を燃やしたときと同じ
あの嫌な臭いが「ツーン」と鼻をつんざく。
爪ではなく、何万人の人が燃えた臭いだった。
いまだにその臭いが鼻にのこっている。
そして5分から10分ぐらいすると、
その嫌な臭いもなくなっていった。
  順応していったのだ。

広島市の道路をひたすら爆心地へと車を走らせる。
道路には何も障害がない。
なぜなんだろう。
  時々、電車が燃え残っているくらいだ。
  想像を絶する道路の走りやすさ。 
不思議と驚きの中、
新しい悪の世界を突進しているようだ。
3時間くらいの間に街が丸焼けになった光景。
道路にはほとんど死体はないが、
防火用水や水溜りに死体がひしめきあっている。
しばらく生きていた形跡がある。
「ごめん、ごめん。」と手をあわせ。
「熱かったろう」「いたかったろう」。
  まさに地獄の1丁目だったのだ。

そんな中で、みるみるうちに順応していく自分が
別人のように頼もしく、不思議だっだ。
  次々と手際よく仕事をしている。
川を埋め尽くしている死体を舟で運び、
50名くらいを1ヶ所に集めて廃油をかけて焼いたが、
残った骨はバケツに半分くらいだった。
1つの町内を2人から4人で担当し、
夜は瓦礫(がれき)を避(よ)けてそこで休み、
5日間ぐらい死体の整理をした。 
まるでロボットのように動いている自分が不思議に思えた。
また、そうならなかったら、
動くことが出来なかったかもしれない。

亡くなった方の顔が、悪のない普通の顔をしておられ、
生きているのではないかと思わせた。
「下には下がまだまだある」
この時、こんなことをつくづく考えた。
どこが人間の底なんだろう。 
今だに嗅覚は戻っていない。 
しかし考えようで、嫌な臭いが分からないほうが、
良いのかもしれない。
人間の醜い欲望のための戦争、
いつ果てることなく、今も、どこかで続けられている。

あの悲惨な光景を目の当たりにした者の少なくなった今、
どうしても、自分の心の恥部もすべてさらけ出し、
懺悔(ざんげ)の思いで書いておかねばと思いました。

爆心地から1.5キロ離れた
千田町(せんだまち)で被爆した私は、
爆風に叩きつけられ、
板塀か建具のようなもので、肩、首、両足を挟まれ
身動きできませんでした。
どなたかに助けられ、
必死の思いで這(は)い出したのを覚えています。

キノコ雲が渦巻いて立昇る地上では、
火傷(やけど)で皮膚がボロ切れのように垂れ下がった人が
血だらけで泣きながら、
オーオーオーと言葉にならない声をあげ、
なぜか海岸へ向かって行列していました。
私も、負傷のため足を引きずり、
いつもの数倍もかかって宇品(うじな)の自宅に帰り着くと、
わが家は少し傾いただけで無事でした。 
裏口に回って入ると、
母が押入れの中で蒲団を被っていました。

その頃になると、家の前の道路は、
海岸へ逃げる人の流れで溢れるようになりました。
時折、玄関の戸をたたき
「開けて下さい。 水をください。」と、
何度も何度も助けを求め、やがて諦めて過ぎて行きました。
母は
「開けてはいけません。 
 開けたら大勢の怪我人(けがにん)が入り込んできて
 収拾がつかなくなる。 
 それに水を飲ませたらかえって死ぬ人が出る。
 開けてはいけません。」
私もその方が良いと思いました。
悲痛な訴えに耳を塞ぎ、
二人とも裏口で息を殺しているだけでした。

このことは、私の生涯の悔恨事として
残ることとなりました。 
私たち母子は、悪魔のような冷酷な心で、
耳を塞ぎ目をつぶっていたのでした。 
今でも自責の念で心が痛みます。

長い長い夜が明けると、どの河面にも死体が多く浮き、
瓦礫(がれき)で踏み場もない道路は、
肉親を捜す人で一杯でした。

その後、仕事などで何度も広島には行くものの、
太田川(おおだがわ)の川原を見る事は出来ず、
長い間、心を閉ざしてきましたが、
被爆64年の平和祈念式典には、
病後の体調を気遣う家族に逆らって、
一人で参列して来ました。
原爆ドーム、太田川の河面も、
しっかりと心に焼きつけて来ました。

「今は亡き弟 広島市立中学校一年生 六岡由朗へ」
よっちゃん。
あの朝、空襲警報、次いで警戒警報が解除されたので、
二人共そろって家を出たね。 
右と左へ。口もきかずに。

前日、日曜日の夕方、よっちゃんが、
いきなりぼくの部屋へ入ってきて、
ぼくが朝から木を削って、
ようやく作りあげて眺めていた戦斗機「彗星」の模型を、
何も云(い)わずに持ちあげたので、
ぼくが怒ったと云うか、けんかになった。
隣の部屋から、おばばん(祖母)が
「こうじゃ、やめえや」と云われた。
今思うに、ぼくがケチで、あんちゃんらしくなく、
悪かった。 ゴメン。

広島の上空500メートル位で原爆が爆発した時、
よっちゃんは、爆心から700メートルくらいの
小網町(こあみちょう)へ
家屋疎開の後片付けに行っていたね。 
原爆炸裂の瞬間、上空、落下傘が落ちるのを、
よっちゃんのことだから、誰よりもいちはやく見付けて、
「おう、みんな、みてみい!」と
級友たちに声をかけて眺めていたんだろう。 
よっちゃんは焼け焦げ、爆風に打ち倒され、
それでもなお、天満川(てんまがわ)と
福島川(ふくしまがわ)の電車の鉄橋を
2つわたって、わが家に逃げ帰っていたとは
思いもよらなんだ。

翌日、工場から広島に帰ってきたぼくに、
己斐川(こいがわ)の電車鉄橋を渡って少し行った所で、
おかあちゃんの大声。
「こーちゃーん。よっちゃんが死んだんじゃー」と。
ギョッとして、走って土手の上に行ったら、
トタン板や戸板をさしかけた小屋の中で、
クッキリと白い浴衣をかけられて
横たわったよっちゃんが居た。 
頭髪もなく、耳も目も鼻も口もわからない
炭団(たどん)のような顔。
これが昨日の朝、
家を右と左に別かれて出たよっちゃんか・・・・
「今朝、よっちゃんが水を飲みたい、いうんで、
 どうせ助からん、思うて飲ませたら、
 ピクッとして息を止めたんじゃ」とおかあちゃん。

その晩、ぼくはおばばんと並んでよっちゃんの横に寝て、
星空を見付めながら、
前日、ケンカした時のあのよっちゃんの
うらめしそうな眼を思い出して眠れなかった。
仲良し友達のカッちゃんが、
よっちゃんの死に顔を見て、涙を流しながら
「よっちゃん、わしがアメリカにカタキを
 とってやるけーのー」と言ったと、
おかあちゃんから聞いた。
   仇(カタキ)をとるとは、やっぱり、
よっちゃんを焼き殺した「原爆」を、
この地上から抹殺すること、それが一番と思います。

(2010年、7月13日       こうじ)

わが家は9人兄弟姉妹(きょうだい)です。
上から4人が女、男2人、女2人、
そして末の弟がわたしです。
最近、1番上の姉が、
4番目の姉のことを詠んだ短歌を目にしました。

友に聞けり 川面(かわも)の材に つかまりて
              陛下万歳 唱えいたるを

被爆当時、4番目の姉は、
広島市立高等女学校1年生でした。
爆心地近くの建物疎開に学徒動員され、
6日は、いまの平和公園南側あたりで作業をしていました。
市女の生徒は全滅しました。
姉の遺骨は見つかっていません。

牛田(うした)、現在の東区牛田本町にあったわが家は
被爆で全焼し、
爆心地近くの寺の土塀の陰にあった
姉の布カバンがただひとつの遺品になりました。
母は毎年、布カバンを取り出し、
涙を流しながら姉のことを語りました。
疎開していた弟たちに手紙やはがきを出し、
なにかにつけ激励したのは4番目の姉でした。
 「広島は何もかわっていない、心配するな、
  何か不足のものはないか、あれば手紙で知らせよ」。
こまやかな心配りをする姉ということが、
残された手紙の文面からわかります。 
弟が書いた詩をほめちぎっているはがきもありました。
気丈で利口で心こまやかな子だったと、
母からも聞かされていました。

その姉の、友によって伝えられた最期が、
「天皇陛下万歳」とは。 信じられない思いでした。

友に聞けり 川面の材に つかまりて
              陛下万歳 唱えいたるを

1番上の姉にたずねました。
 「ほんとうにそうか。 軍国教育でそう叫ぶように
  教えられ、利口な姉を美化するため、
  友があえてそう言ったのではないか」
とまで言い添えました。 
姉も
「信じられなかったが、友はそう言った」と答えました。
しばし、言葉がつづきませんでした。
わずか13歳の姉が、戦時下の疎開作業に動員され、
アメリカが投下した原爆の直撃を受け、
おそらく水を求めて川に入ったのでしょう。
これが最期かとの覚悟で、
「天皇陛下万歳!」と叫んだのでしょうか。
真実は違うと、思いたい気持ちでいっぱいです。
もしそうだったら姉があまりにもかわいそうです。
無告(むこく)の市民を残酷に大量に殺戮し、
アメリカは何を得たというのでしょうか。 
残された被爆者も死に至るまで原爆症で苦しんでいます。
そのような罪を犯して何を得たというのでしょうか。
「核兵器をなくせ」は被爆者の心からの叫びです。
そして、心やさしく、気丈で、利口な姉に、
命を終える間際に「天皇陛下、万歳」と叫ばさせた
軍国教育を、わたしは憎みます。

父の日が近くなると、街の中も新聞の広告にも、
「お父さん、ありがとう」の文字が目につく様になります。
私の夫も、長男の嫁から父の日のプレゼントをもらって
ニコニコ嬉しそうです。
長男が、お父さんの亡くなった年令と同じです。
孫が高校一年生ですから、当時の私と同じ年齢です。
父親っ子だった私がお父さんにプレゼントするとしたら、
何をしたんだろうと考え込んでしまう。 
趣味は何だろう。 ポロシャツかな。 
やっぱりお酒かも知れないね。 
お酒は好きだったと母から聞いていたから、
おいしいお酒を一緒に飲みたいなぁー。
実際には、生きているとしたら100歳を越えている
わけだから、どう考えても無理なことですね。

叔母が残した昔の紙類の中に、古びて茶色に変色した
「郵便貯金通帳等 亡失申告書」があります。 
原爆で貯金通帳が焼けてなくなったことを申告した紙で、
几帳面だったお父さんの字ですよね。
母親、叔母、祖母、そして私たち子どもたちの分、7枚。
終戦で職業軍人だった父は仕事を失い、
岐阜県武儀郡(むぎぐん)の郷里に帰る時、
みんなを一緒に連れて帰ったんですよね。

お父さんは、美濃紙(みのがみ)を
品不足の名古屋に持っていき、
商売繁盛で、家族にいい思いをさせてくれました。 
名古屋に引っ越しし、儲かったお金で宝塚歌劇を、
1週間だったか、10日間だったか忘れたけど、
親類の人たちを招待し続けたよね。
私も、見たこともない宝塚を何度も見せてもらった。
そのことで、その後、貧しく苦しかった人生を、
惨めな思いをせずに過ごすことが出来たように思うのです。

お父さんは病気になって、
いい時代は何年も続きませんでした。 今から思うと、原爆が投下されて焼け野原になった
広島の街を、お父さんは呉から来て、
海田市(かいたいち)から中水主町(なかかこまち)まで
レストランのある広島市内に歩いて入り、
一晩、防空壕に泊まって私たちを探したんですよね。
昭和31年に亡くなるまで、お父さん自身は、
楽しい思い、良い思いは、したんでしょうか。
私たちのために頑張って頑張って、
46歳で死んでしまうなんて・・・。
  一緒においしいものを食べて、一杯飲みたかったよね。

私、あなたの孫に当たる二男に、
お父さんと同じ名前の利和(としかず)とつけました。
今、43歳です。 
長男は46歳、誕生日がお父さんと一緒なんですよ。
今、生きていて欲しかったということは無理でも、
孫たちと一緒に遊んで欲しかった。

8月6日午前8時15分、空を見ていると、
突然フラッシュを何十万発も
一度に焚(た)いた様な閃光が走りました。
「ワーッ」と叫んで、反対方向に何歩歩いたでしょうか。
気がついてみると、蛙を押しつぶしたような形で
建物の下敷きになっていました。
息をする余裕もありません。
ふと母の顔が浮かんできました。
もう一度会いたい、しかしもう駄目・・・。

足腰の痛さもいつしかマヒし、感じなくなっていました。
次第に意識が薄れていくなかで
「砲筒(ほうづつ)の響き、遠ざかる、
 あの戦場で・・・・・」と従軍歌が聞こえてきました。
私の前方で倒れていた小笠原さんが
無意識で歌っていたのです。

やがて、「頑張るんだぞ!!」と、入院中の
軍の患者さんたちが助けに来て下さいました。
まず2階の人が助け出され、
階下だった私は一番最後に出されました。
2時間半、下敷きになっていたのです。
担架でその場を離れるや否や、そこは一面火の海になって、
あと5分遅かったら私は焼かれるはずでした。

友人の小杉さんは、通学途中に被爆、
顔も手も焼け、指先はすべて骨が出ていました。
食事も1人で食べられなかった彼女には
「被爆ナンバー」が付けられ、
初秋の頃だったと思います、
2、3日おきにアメリカ兵が重要な調査対象者として
様子を見に来ておりました。
翌年1月、
「私の体を決してアメリカ兵に渡さないで・・・
 私の体を解剖しないで下さい」と
アメリカを呪いながら息を引き取りました。

当時、被爆者は
3年しか生きられないと云(い)われていました。
私は下半身麻痺がなかなか治らず、
足は上から下まで大きく腫れ、象のようでした。
髪の毛も櫛を入れるたびに抜けカッパのようでした。
2年たった頃、
40度の高熱が出て全身に紫の斑点があらわれ、
背中に手のひらの大きさに残ってしまいました。
いつも死と隣り合わせの日々を送りました。

こんな状態ですから、
被爆したことを隠している人が多かったのです。
でも私たち被爆者こそ、
核の恐ろしさを伝えていかなければ・・・。
体験した私たちしか
本当の恐ろしさを知らないのですから・・・。
今世紀を、平和の世紀にするために・・・。

被爆直後、私たちは、田舎の親戚に引き取られ、
ばらばらに暮らしていました。
髪が抜け、鼻血や血便が出て、
皆から伝染病と言われるようになり、
長崎へ帰って、焼け野原のバラックで
姉妹一緒に暮らすようになりました。
食料を拾って集めなければならない生活が9年続き、
妹もがんばりましたが、病気に負け、貧しさに負け、
母を恋しがる日々が続きました。

妹は毎日のように
「母ちゃんのところへ行こう」と言うようになり、
私は
「母ちゃんのところへ行くということは、
 死ぬことなのだから、
 母ちゃんの分まで生きていこう」と言うと、
「生きらんばツマランとやろか」と言っていました。

ある日、妹が学校から帰ってきません。
探していると、遠くの方から
「若い女の子が列車に飛び込んだゾー」
という声が聞こえてきました。
急いでいってみると、線路の真ん中に…
「まるはだか」で腕はなく、足もありません。
私は
「妹です、妹です」と叫び
「なぜ死んだの、せっかく生き残ったのに」と、
妹を抱きかかえました。
妹の血液で私の胸は真っ赤になりました。

母と姉と兄は原爆で死に、やっと生き残った妹も自殺し、
一人になった私も死のうと思いました。
疾走してくる列車の前に立ちましたが、
怖くて死ぬことができません。

死ぬにも勇気がいります。
生きるにも勇気がいります。
死ぬ勇気、生きる勇気が私の心の中で交錯します。

残念ながら、妹は死ぬ勇気を選びました。
しかし私は生きていこうと生きる勇気を選びました。
今は生きていてよかったと心の底から思っています。

下宿屋の玄関で布製の靴をはいていた。
その時、突然ドーンという鈍い音と
ピカーという閃光(せんこう)や爆風で、
私たち兄弟は歩道をつきぬけ前の畑まで飛ばされ
意識不明になった。
間もなく火の手がこちらに向き、その熱風で気がついた。
私は急いで弟の手を取り大通りに出た。
そこは予想外の地獄絵図だった。
顔や腕の表皮が裂け垂れ下がり、
真皮が赤むけになった重傷者や死体で
足の踏み場もないほどだった。

指定されていた避難所のある西へトボトボと歩いた。
ようやく広島電鉄の己斐(こい)駅に着いた。
路上に臨時救護所があり、火傷(やけど)の応急手当として
「赤チン、軟膏、食用油」などが塗られていた。
私たちは若くても疲労し、
近くにあった水がめの水を一口飲んだ。
弟も笑顔で飲み続け、また西方に向かった。
突然、豪雨のような大粒の黒っぽい雨が降ってきた。
誰かが「敵機が来るぞ」と叫んだ。
その声で付近の畑に身を伏せて雨の止むのを待った。
しばらくして雷鳴は徐々に小さくなって薄雲に変化した。
また真夏の直射日光がジリジリと照り付けた。

夕暮れ時、ようやく目的地の
「地御前(じごぜん)小学校」に到着した。
校門付近で蝉がミーンミーンと鳴いていた。
わずかな光を頼りに校舎に入り、私は廊下で倒れた。
しばらくして、そばにいる弟の姿を見て
「そうだ。ここでは死ねないぞ」という信念が
湧いてきた。
教室内や廊下の左右は負傷者で満員である。

そこへ、白衣の人と作業衣の中年3名が
戸板と木の棒を持ってやって来て、
重傷者を板に載せて運動場に出ていった。
私は不思議に思い、弟と一緒にその人たちの後を
つけていった。
校庭の中ほどに、イロリ火を持った役人がいて、
大きな穴があった。
その穴の中には古木が四角形に組まれ、
その上の大型鉄板には数名の死体が置かれていた。
顔から出血した人、手足が挫傷(ざしょう)の人、
赤く盛り上がって水泡におおわれている人。
その周りに作業員たちがいて、竹竿で手足を叩いている。
重傷者は生きているので身体を動かしている。
私は胸が張りさける思いで眺めていた。
作業員は「この人たちはいずれも天国に行くのだよ」
とつぶやき、
私は「生きている人を焼き殺すのだ」という疑問が
湧き尋ねたら、
「医薬品がないので医師もあきらめている」と言った。
その言葉に、弟は私の腹に身をくっつけて泣き叫んだ。

歳月流るるが如(ごと)し。
終戦から66年が経ち、
被爆地は、目覚ましい復興を遂げました。
然しながら、私たち被爆者の現状は
一向に改善されていません。
原爆症認定も遅々(ちち)として進まず、
何年間も待たされた挙句、
却下されるケースが多いのが現状です。
私も両手で数え切れないほどの病気を抱えて、
毎日不安ばかり。
緑内障で少しずつ視野が狭くなっています。
突発性感音性難聴のため、激しい耳鳴り、
蝉時雨(せみしぐれ)の中に閉じ込められたような
騒音の中での生活に疲れ果てている有様です。
身体の節々の痛みと闘いながら、
安眠剤の力を借りて浅い眠りから覚めた瞬間、
「アア、今日も生きている!!」ホッとしたような
落胆したような複雑な気持ちです。
3年前、母が心臓病で、激痛に苦しみながら、
体中、水ぶくれになって亡くなりました。
父は、肝硬変、肝臓癌で亡くなりましたが、
入市被爆にも拘わらず、原爆手帳を取得しないまま
一生を終えました。
被爆者であるという事で
勤務先での不当な扱いを恐れたのです。
私が10代の頃から白血球減少症、子宮癌、乳癌など、
病気の問屋の様に患い続ける姿を、
両親はどんな思いで見ていたのでしょうか?
保険制度も確立していない時代、
高額の医療費も大変だったと思います。
貧乏生活の中で、出来る限りの治療を受けさせてもらい、
今、私が生活できているのは、
両親を初め、たくさんの医療関係の人や、
心を支えてくれた友人たちのお陰と、
感謝してもしきれないほど感謝し、
笑顔を心がけています。
これから先も又、多くの人たちの手を煩(わずら)わせ、
良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれながら
生きていく事でしょう!!

生存した被爆者に残された時間は、
余り長くないと思いますが、
今年3月、福島の原発事故で被害に
合われた方々の事を思うと胸が痛みます。
どうか血の通った行政で、温かい心で、
末長く支援を続けて下さい。
どんなに支援をしてもらっても、
一瞬にして恐怖のどん底に突き落とされた心の傷は、
決して癒される事はありません。

一緒に被爆したマサキのハァちゃん、
今どうしていますか。

8月6日の朝、ハァちゃんが我が家に遊びに来ました。
当時、私は、早稲田(わせだ)神社の石段の下に、
家族6人で住んでいました。
母の使いで、私たちは神田橋(かんだばし)近くの店に、
配給の牛乳を受け取りに行き、
そこからの帰りに被爆しました。

気がついた時、私は泣きながら路上から
立ち上がろうとしていました。
黒い煙の中に赤い炎が上がるのが見えました。
立ち上がると、ハァちゃんは激しく泣いていました。
私は泣くのをやめて、ハァちゃんから牛乳びんの入った
カゴを受けとり、助けを求めてバス通りを走りました。
道路の右側は家並みで、反対側は田畑で、
その向こうに牛田(うした)小学校がありました。
どこの家も幼な心に異常に映り、慌てて走りました。
ハァちゃんはずっと泣いていました。
泣くことをやめていた私は、
「なぜハァちゃんはこんなに泣くんだろう。
私よりお兄ちゃんなのに。」と思ったことを、
今も忘れません。

バスの終点の所で、彼は右の道を、
私は早稲田神社の方へ、それぞれ家に向かって別れました。
泣きじゃくるハァちゃんの後姿が最後になりました。

その後、ハァちゃんが
首に火傷(やけど)を負っていたこと、
そして九州の母方の実家へ
引越しされたことを知りました。
私の家族も、まもなく祖母の家へ移り、
父は被爆から1ヵ月後に、
苦しんだ末(すえ)、亡くなりました。

子どもも巣立ち、原爆で苦しみぬいた母を看取って、
ほっと自分に戻りました。
被爆者の証言を聞く機会にも、出合うようになりました。
日陰と日向(ひなた)で、火傷の負い方が違うこと、
建物の内と外とで生死の境のあることを知りました。
すると、ハァちゃんとのことが思われてくるのです。

なぜ、私は火傷を負わないで、
ハァちゃんは火傷を負ったのだろうか。
ハァちゃんと走ったバス通りには、
日陰がわずかしかありませんでした。
もしかして私は、ハァちゃんの陰にいて、
火傷を負わないですんだのだろうか。
このことが、私の頭の中をどうどう巡りするのです。

平和公園に行くと、
死没者名簿の中にそれらしき名前を捜している私がいて、
「生きていてください」と、祈りながら、
その場を去っています。
マサキのハァちゃんに会いたい。
ハァちゃんに生きていてほしい。

「孫娘、たーちゃん、12歳になったあなたに」
広島市公文書館に「動員学徒戦没者名簿」
というものがあります。
これは、市内中心部での動員作業中に
原爆で亡くなった小学校高等科から大学まで、
およそ4千人の生徒の名簿です。
そのほとんどは、
今のあなたや当時の私と同じ中学1年生でした。
200人、300人という生徒が
全滅した学校も少なくありません。
名簿のページをめくると、
同級生の見覚えのある名前が、そこここに出てきます。
私は幸い生き残っています。
しかし、自分もその名簿の中に入っていたとしたら
今こうしてあなたに出会うことは決してなかったのです。

あなたは去年、修学旅行で広島に行き、
平和公園にある彼らの慰霊碑にも
詣(もう)でてくれましたね。
人であふれ、平穏そのものの街並を見て、
あなたはなにを感じたのでしょうか。
でも、これだけは忘れないでください。
あなたが歩いたあの場所は、無念のうちに
デルタの水底と瓦礫(がれき)の下に埋もれた、
同じ12歳の彼ら、彼女らの
屍(しかばね)の上であるということを。

私は最近、
「12歳の私に戦争の責任は本当になかったのか」と、
自問することがあります。
その頃の教育や社会情勢をもっともらしく分析してみても
自分自身を納得させる答えは出てきません。
だから私は問い続ける他はないのです。

また、こうも考えます。
私が生き残っている意味はなんだろうか、
彼らの死に対してなにをすれば良いのだろうかと。
それに対する私なりの答えは、
「もうあなたを死なせない。
だから、決して戦争はしない」という不戦の覚悟です。
私のこれからの責務は、
この不戦の思いをあなたに伝え、
あなたを通して後世に遺(のこ)し、
未来につなぐことにあると考えています。

近くの小学校で語り部をする時
私はいつも、子どもたちの顔に、
被爆した同級生の顔を一つ一つ重ね合わせます。
「君たちを決して死なせやしない」と思うのです。
そして、もう半世紀も経ったころ、
平和公園の碑(いしぶみ)の前で、
子や孫を連れたあなたが、
「お祖父ちゃんは、こんな人だったんだよ」
と語ってくれる、
そんな光景を私は想像しているのです。

節子さん。
「生きていてほしかった」と私は痛切に思います。
今までいくど繰り返し思ったことでしょう。
ましてや若い命を落とされたあなたの無念を思いますと
胸が張り裂けそうです。

長崎高女の4年生だった私たちは、
工場へ学徒動員され、
真っ黒な台の前に並んで作業をしていましたね。
思えば耳をつんざくような烈(はげ)しい騒音の工場で、
作業着は汗と油汚れにまみれていました。
私たちはヤスリを片手に作業をしながら、
よくしゃべり、よく歌ったものでしたね。
工場の騒音がそれをかき消してくれるのを良いことに、
知っている歌を次々に歌いましたね。
みんなでただ声を揃えて歌うだけで、
十分楽しかったですね。
学舎(まなびや)を捨てていた女学生にとって、
それがせめてものささやかな
青春の楽しさであったような気がします。

あれはあなたの初恋だったでしょうか?
同じ職場にいた中学生T君のことを、
たわいもなく語っていたある日のこと。

「Tさんの写真持っとるとよ。見せようか」と言って、
あなたは救急袋からはがき大の一枚の写真を取り出し、
大事そうに胸に押し当てていました。
「わあ!どうして手に入れたと?見せてよ、見せてー」
と言う私に、ニコニコしながら渡してくれたその写真は
『長谷川一夫』のブロマイドでした。
驚きあきれる私を、あなたはお茶目な顔で
「くっく、くっく…」と、さもおかしそうに笑いました。

あの顔が、今もはっきりと脳裏に浮かび、
涙がこぼれるのです。
長谷川一夫によく似た少年は、
それから間もない初夏のある日、
突然、姿を見せなくなりましたね。
少年義勇兵とやらに志願して
満州へ行かれたと聞きました。
2人は一度も口をきくことなく、
あなたの気持ちなど知るはずもなく、
少年は遠くへ去ってしまいました。

人の運命は本当に図(はか)りがたいものですね。
あの日、工場を休んで助かった人もありますし、
あなたは工場を休んでいて命を落としました。

コスモスのように
優しく可憐(かれん)な少女だった節子さん。
もしも、「どんな花が好き?」と人に問われたら、
私は即座にあなたを思い浮かべながら、
「コスモスよ」と答えます。

トビ色の瞳、透き通る白い肌。深いえくぼ。
栗色の巻き毛。
あなたは体中がゴムまりのように弾んでいて、
健康にはちきれていた。 
4人のお兄ちゃんの末に生まれた、たった1人の姫君は、
みんなにかわいがられ、素直で明るく甘えん坊。
  おまけにお兄ちゃんに鍛えられ、
すごくファイトがあった。

昼食後の休み時間は大本営の芝生で
バレーボールの円陣パスをしたわね。
あなたは体中がバネ仕掛け。
高いボールに飛びついたかと思うと、
次には私の取り損なったボールをすばやくかがんで
地面すれすれですくい上げる。
「負けるもんか。なにくそ。」
あなたの立派なお尻を、
カマキリみたいな私のお尻へぶつけて、
「ケツダンリョク」なんて芝生に転がって笑ったわねえ。
大本営の春は桜が美しかった。
  「小諸なる 古城のほとり…」
きまって島崎藤村を歌ったわね。 にこにこと近寄ってこられたのは軍医殿。
「あんたらなぁ、歌もええが、
 こんなとこにおるこたぁ ありゃせんで。
 山奥の親戚か、田舎の知り合い探して逃げんさいや。」
するとあなたは、目をくるくるさせて、
「軍医殿、うちらは戦場へ行きんさった
 兵隊さんにかわって仕事をしとるんです。
 逃げたりはせんです」と勇ましく応えたわ。 
私達、骨の髄(ずい)まで軍国乙女だった。

病気で休んでいた私が、
あなたの被爆当日の様子を聞いたのは
何年も後のことだった。
「白いブラウスがズタズタで裸同然。
 顔から両腕がずるむけ。よう見たらヤマンじゃ。
 見るも無惨(むざん)な姿じゃった。」
「ヤマンは水を欲しがってのう。
 うまいうまいって、喜んで飲みよった。
 一晩経つと火傷はひどうふくれあがって、
 もうヤマンの顔はしとらん」
「『お母ちゃん、どうしとってじゃろう』
 『お父ちゃん、やられたんじゃろうか』
 そればっかり 最期まで言うとった。」
どんなに痛かったろう。
悲しく苦しく情けなかったことか。
ゴメンよ。ゴメン。 
一緒に死なないでゴメン。
同じ広島で同じピカを受けながら生き残った私は、
あなたに負い目を感じるの。 
ヤマンが死んだのに、私だけが幸せになっていいのか。
幸せに躊躇(ちゅうちょ)する。

あれから60年あまりがたち、
「戦争がかっこいい」なんてとんでもない子がいる。
テレビゲームで戦争が遊びになってるの。
あのときはたった2発しかなかった核弾頭も
今はその性能も何百倍になったものが2万発も存在し、
国と国の争いの原因ともなってるの。
戦争は天災じゃないの。
人間が人間を襲っているのよ。
そもそも人間のためになるはずの科学や技術で、
人間を攻撃するなんて、
こんなバカげたことがあるかしら。
科学が人間を滅ぼすんだよ。
人は愛し合い、助け合い、励まし合っていきていくもの。
だから悪魔の核兵器を廃絶するのは、当たり前のこと。
生き残った私はこれを訴え続けるわ、あなたに代わって。

18歳のあなたの声がする。 「負けるもんか!」と。

「名前もない赤ちゃんへ」
まだ名前もなかったあなたをなんて言って
呼べばいいのかわからないけれど、
62年前のことは本当にごめんなさい。
おわびしてもおわびしても、
私の心の傷は癒えません。
多分、この傷は、あなたを見捨ててしまった私が
生涯負わねばならぬ傷なのでしょう。

昭和20年8月6日。
少年兵として通信隊に配属されていた私は
前日徹夜で警戒に当たったため、
午前中は兵舎に戻りぐっすり眠っていました。
そのため、偶然にも閃光(せんこう)に遭わず、
火傷(やけど)・怪我(けが)もなく、
兵舎内から這(は)い出ました。 
兵隊たちは早速、被爆者の方々の救援にあたりました。
私に与えられた任務は
被爆者の方々に水を差し上げる仕事でした。

その途中でしたね。
戸板に乗せられたお母さんとあなたを見かけたのは。
あなたは被爆のショックで
少し早めにお母さんの身体から出てきたらしく、
まだ臍(へそ)の緒も切れず、血まみれの身体で
お母さんの側で弱々しい声で泣いていました。
お母さんはもう眼が見えないらしく、
でも必死に腕を動かしてあなたを抱こう、
乳を飲ませてあげなければ、とうごめいていました。
多分、ショックで産気づいたお母さんとあなたを
付近の人たちが戸板に乗せて運んできたものの、
比治山(ひじやま)の麓(ふもと)で力が尽き、
放置するきり仕方がなかったのでしょう。
あなたたちを助けなければ。
せっかく生まれてきたばかりの命を大切にしなければ。
また、初めてかも知れない
お母さんになったばかりのこの女の人も
助けてあげなければ。
と思ったものの、私には何もできませんでした。
そして山の中腹には
私の水を待っている多くの被爆者がいる。

ごめんなさい。ごめんなさい。
私はあなたたちを見捨てました。
見捨てるより仕方がなかったのです。

次に麓に降りた途中、あなたの泣き声はやんでいました。
三度めに見たときには
あなたはもう動くことをやめていました。 
初めてのわが子を抱こうとしていた
お母さんの腕の動きも止まっていました。

生まれたばかりのあなた。
まだ名前ももらえずに
死んでしまわねばならなかったあなた。
これから大きな夢や希望が
待ち受けているはずだったあなた。
なんの罪もなく、誕生したばかりだったあなたなのに、
なぜ死ななければならなかったのか。
そして母となった喜びも味わえず、
乳を含ませることも、抱くこともできずに、
苦痛と共にこの世を去らなければならなかったお母さん。
あなた方はなぜ悪魔の餌食(えじき)に
ならなければならなかったのでしょう。
戦争がなければ。原子爆弾がなかったならば。
つくづくそう思います。

原爆が広島に投下された日の前日は日曜日でした。
私は友達3人と劇場で芝居を観て、
帰りに喫茶店で薄いコーヒーを前に、
芝居の話から働いていた
工場の上司の噂など盛り上がりました。
当時の服装はモンペですが、
私たちはモンペの裾がしぼってあるのが嫌で
巾広くしていたので、交番の巡査に叱られました。
「だらしないっ。
 この非常時をなんと心得るかっ」でした。
遊びに行くにも
常に防空頭巾を肩から斜めに掛けていました。

私たちは小学校から、日本は神国(しんこく)、
神の国である、
今に神風(かみかぜ)が吹いて戦いが有利になる、
と教えられてきました。 
ただ家(うち)では、
父が大正、昭和と日本が軍国化していくのに
危機感を抱いて反戦運動をしていたと、
母の口から聞いていました。 
母はそんな父に文句ひとつ言わないで、
昼夜働いて私を育ててくれました。
めったに家に居ない父も、束の間(つかのま)、
私を膝に入れて食事をしていたと、
母は目を細めて話していました。
でも私は大きくなるにつれて、
近所の和(かず)ちゃんちみたいに、
家族で花見、夜店に行くのをうらやましく思いました。

8月6日。空は晴れわたり暑い一日の始まりでした。 
前夜も警報のサイレンが鳴っていたと思います。
あの日の朝、私が出勤の支度をしていると、
父が母に
「一日も早く戦争が終わらんと、日本は負ける」、
いつもの言葉です。
私はカッと頭に血がのぼりました。
軍国乙女。当時の女の子は、この自負が強かったのです。
「バカッ死ねっ」と言ってしまいました。
父の哀しそうな顔、それが父との最後でした。

工場に入ってしばらくして
ピカッと光が工場のガラス窓を射ぬき、
腹の底からのドカンのひびき。
レンガの建物が半分くずれました。
皆、そばの機械の下にもぐりました。

その晩、同じ方向に帰る人々が
遠まわりして市内を通る時、
「水を、水をくれ」と、
両端にうずくまり倒れた人の断末魔(だんまつま)の声が
ずっと続きました。
私たちは見ぬふりをして、
只ひたすら我が家を目指して歩き続けました。
我が家が立っている。 
勤労奉仕に出ていた母が
少しの火傷(やけど)でしたが無事なのを見て、
二人で泣きました。
・・・父が帰って来ません・・・・・。

翌日、母を近所に頼んで、父を探しに市内に入りました。
母が「無事なら帰って来る」と言ったのですが、
父の勤務先が
相生橋(あいおいばし)の近くなのが気がかりでした。
きのうから、人々の悲惨な姿を見て、
「お父さんゴメン」と言いたかったのです。

もし病院に運ばれて息あるうちに名前でも・・・・と、
学校や似ノ島(にのしま)へも行きましたが、
名前すら張り出されていませんでした。

決して立派な父ではなく、
母の言葉によれば男前だった父。
酒、女、思想にゆれ動いた父。
あの朝のこと、「お父さんゴメンね」と、
父への詫び状のつもりで書きました。

8月6日、昼過ぎ、広島駅で被爆した伯父が
足をひきずりながら火傷(やけど)姿で
4里(16キロ)の道程(みちのり)を歩いて戻ってきた。
伯父は火傷の手当を終えると、
休む間もなく私の父を探しに出かけた。

広島から帰ってきた人たちは、
新型の巨大な爆弾とか、空中で巨大な風船が爆発した
などの話をしていた。
女性たちは総出で、手当や炊出しに従事した。
国民学校とお寺が臨時救護所になった。
収容者の中に父の姿はなく、
その日、次の日、8日も、父は帰宅しなかった。

広島市内の被害状況や父の捜索状況を聞いた母は、
自らも捜索することを決心した。 
9日朝早く、生後9ケ月の三男を背負い、
長男の私と、3歳の次男を連れ、
中野村(なかのむら)を出立した。
父が買ってくれた遠足用のリュックサックと水筒を
初めて身につけ、防空頭巾と草履をぶら下げ、
事情が分かっていない私はルンルン気分で
母に従って出かけた。

昼ごろ、人影疎(まば)らな広島駅前の電車乗り場に着く。
疎開前に住んでいた田中町(たなかまち)、
先祖の墓がある永照寺(えいしょうじ)、
市内及び近郊の親戚・友人・知人宅等を尋ね歩いた。
収容所・診療所を隈(くま)なく廻って、
母は必死になって父を捜し求めた。
目を覆い、鼻をつまみたくなるほど息苦しく、
悲惨な姿と臭いの中で、一人ひとり探した。
消毒の臭いより、火傷で肉が腐った異様な臭いの方が
強かった。
その醜(みにく)い姿を見て父ではないことを願いながら
探しつづける。

日が経つにつれて、どんな姿でもよいから
父であってほしいと願いながら尋ね歩いた。
しかしそれもかなわず、疎開先に引き揚げた。

父の帰りを
一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待ちわびる中で、
10月のある日、役場の人が一通の茶封筒をもってきた。
その封筒を受け取った母はわっ!と泣き崩れた。
いつも冷静な母を見ていた7歳の私は、
それが尋常でないことを悟った。
封筒の中には、二つに折った割り箸状の二片が
入っていた。
それが父の遺骨として届けられたことを
信じなかった母だが、祖父母に諭されて葬儀を行った。
その後もずっと、母は自分に言い聞かせるように
「お父さんは生きているからね、必ず帰って来るからね、
 それまでみんなで待とうね」が口癖だった。

父を訪ね歩いた広島は、
忘れようとしても忘れられない光景であると同時に、
捜し方に落ち度があったのではと、
今でも後悔と自責の念が残る。

8月6日の朝、私は「では行ってきます」と言い、
母も「気をつけてね」と、
ごくごく簡単に毎日の挨拶を交わして、
学校工場というか、
被服(ひふくしょう)の職場に出発しました。
これが母と交わした最後の言葉となりました。

焼土と化した広島市内の我が家の焼け跡に辿りついたのは、
10日ほどたってからのことでした。 
被爆直後は全市で火災が蔓延(まんえん)して、
とうてい市内に入れる状態ではなかったからです。
母の行方は、病院に収容された人々の名前が
焼け残りのビルの壁などに消し炭で書かれているのを見て、
それこそ、目いっぱい探したのですが、
私の力では見つけることは出来ませんでした。
お骨のない葬儀というか、
戒名をつけてお経をあげてもらって、
形だけの法要をしました。

たしか10年以上経ったころです。 
外地から帰国してきた伯母が、東警察の横を通った時、
何か霊感でもあったのでしょうか、
思わず警察署に入って、
「原爆の町、行方不明の妹があるけれど、
 死亡場所を探す手立てはないものか」
と、尋ねたそうです。 
署には、引き取り手のない遺骨や、
死亡地と名前だけ分かっている人など、
記録が残っているということで、
調べてもらったら妹の名前がでてきて、
やっと死に場所が判ったと電話がかかって来ました。
母は、大須賀(おおすが)の近所で火葬にされたらしく、
れんがの上にお骨が少々と、
当時身につけていた名札が残っていたそうで、
やっと長年のつかえが解消しました。
原爆死没者の名簿にも追加していただきました。

やっと母も安住の地を得たのですが、
不思議なことに母の夢を一度も見たことがありません。
せめて夢にだけでもと思うのですが、
あの世でしか会うことが出来ない定めなのか、
何故か8月6日に分かれた以後、
一度も夢に現れたことがありません。
よく夢に見るという友人もありますのに、
何故、何故と、いつも自問自答を繰り返すのみ。
写真も何もなく、本当に何故この夢は、
死ぬまでかなえられないのか、悔しい思いです。

被爆した直後、山の手に避難している頃から、
私は、鼻血がよく出るようになり、
体にだるさを感じるようになりました。
また、被爆してから1か月ほどたって、
伯母の家に行った頃に、脱毛に気付きました。
40度の熱が数日間続き、
「もうこの子は死ぬかもしれない」と
医師に言われていましたが、
伯母がはりなどの懸命の治療をしてくれたかいがあって、
私は一命を取り留めました。
中学校を出てから、20歳までは、
彦根で、雑貨屋さんや仏壇屋さんで女中奉公のような形で
働いていましたが、体がだるく、
働くことはとても辛かったです。
20歳のときから、京都の織物会社で
機織(はたおり)の仕事をしていましたが、
常に体がだるく頭痛が続き疲れやすかったことや、
作業中に鼻血が出そうになって
休憩せざるを得ないこともあり、仕事の能率が上がらず、
職場の人には迷惑をかけました。
同じ年、従兄弟のすすめで、
京都府立医大附属病院で検診を受けました。
病院では、「放射能が入っているので、
いつ何時(なんどき)ポカンと何が出てくるか判らん。
事故みたいなものです。」と言われました。 
私は、「困ったことになっているな」と思いました。

27歳のころに、結婚話が進み、妊娠したこともありましたが、
「どんなことで放射能の影響が出て、
どんな子が生まれてくるかわからん。 
この話はないことに。」「子どもをおろすように」
と勧められ、泣く泣く子どもをおろしました。 
結婚話も、周りの人が
私の体の中に放射能が入っていることを心配し、
後々(のちのち)親も子も困る、
もちろん主人が一番困るということで、
その結婚話は破談になりました。
それからは、被爆者で放射能を受けていると、
いつ、どんな悪い病気が出るかわからないと思い、
私自身が躊躇(ちゅうちょ)してしまい、
結婚する気になれませんでした。

今年もあの日が近づいてきました。
強烈な夏の太陽が照りはじめると、
私の体にしみついたあの日の記憶が蘇ってまいります。

私は14歳の時、爆心地から3・5キロの
翠町(みどりまち)中学校の校舎内で被爆しました。
教室に入って机に着いたその時、ピカッ! 
青白い光線に咄嗟(とっさ)に耳と目をふさぎ
机の下にもぐりました。
ものすごい爆風が来てガチャガチャ!
級友の泣き叫ぶ声におそるおそる顔をあげると、
窓ガラスが飛び散り
みんなに突き刺さって血だらけでした。
怪我(けが)ひとつしていなかったのは
私と、もう1人の友人だけでした。
この時、広島の人はみんな自分の近くに
大型爆弾が落ちたと思っていたのです。

私は無傷でしたが、怪我をした友人を
近くの県病院に連れていく途中、
真黒いすすけた顔に、髪の毛はボウボウ、服はボロボロ、
男か女かわからない裸同然の人。
子どもも大人も一様に黙って両手を突き出して
手の先に汚いボロ布をぶら下げていました。 
よく見ると、それは腕の皮膚がずるむけになり、
指先から下へ垂れ下がっていたのです。

友人を家まで送り、私も帰ろうと、
御幸橋(みゆきばし)まで来ると、
橋の向こうは、真赤な炎をあげ 
真黒な煙が天までのぼっていました。
火のトンネルの中を必死で歩きました。
大手町(おおてまち)まで来ると火はおさまっていて、
道のそばに真黒い顔をした
たくさんの人がうずくまっているのです。

「水をください!」
「日赤へ連れてって!」
1人が言うとあっちからもこっちからも
絞り出すような声がきこえてきます。
差しあげる水もなく
「日赤へどうやって連れて行けばいいの!
 もう私に できゃあせん!」
心の中で叫びながら必死で走って逃げました。
あの人たちは、水ももらえず動くことも出来ず、
あのまま死んで行かれたに違いありません。

紙屋町(かみやちょう)から
相生橋(あいおいばし)までの間、
広い電車道びっしりに人が死んでいました。
人間の心を失いかけていた私は、
ここで完全に鬼になっていました。
こんなにたくさんの人の死を前にして、
かわいそうとか気の毒とか思えず、
物にしか見えなくなるのです。
とにかく踏まないように、
隙間を見つけて歩くのがやっとでした。
相生橋の上に立てば、わが家のことも分かるからと、
かすかな望みを繋ぎながら立って、360度見渡すと
広島はなんにもなくなっていました。 
もうダメだ!母も死んでしまった!
  そう思うと力が抜け、
へたり込んで大声でワーワー泣きました。

十日市町(とうかいちまち)の大きな消防用水には、
火を逃れて我も我もと入ったのか
鉛筆立てにぎっしり詰めたように
真黒い人たちが立ったまま死んでいました。

睦(むつ)ちゃん。
あなたのことを私は一度も「お姉ちゃん」と
呼んだことがなくて、
いつも「睦ちゃん」と言っていましたね。
石崎睦子、1年と2か月違いの、年子の姉。
近年思うことがあって沈黙から語り部に変身した私は、
あなたのことを「姉が」、と話している自分に気づき、
歳月を感じています。

8月6日、そうあの日、玄関の柱から横顔を少し覗かせて
「行って帰ります」と挨拶したきり、
あなたは帰ってきませんでした。
「はい、行って帰り」と返事をしたお母ちゃんは、
何年も何年もあなたの帰りを待っていました。
「きっとショックで記憶が戻らず、
 親切な人に助けられて
 田舎の方で養生させてもらっている」と。
あの勝ち気で聡明なお母ちゃんが、
お国の為、炎天下の建物疎開のあと片付けに
元気に出かけた娘が、突然この世から姿を消し
痕跡すら残していない事実を、受け入れられない気持ち。
私も子供を持ってよくよくわかりました。

前夜の夕食の時、
あなたは珍しく配給された瓶詰めのみかんを
「食べたいねぇ」と言いました。
お母ちゃんが
「これはいざという時の非常用じゃけぇねぇ」と話し、
あなたも「ほうじゃねぇ」と
素直に納得したのを憶えています。 
あの瓶詰めはどうなったのでしょうか。
お母ちゃんはあれから瓶詰めのみかんも
缶詰のミカンも食べませんでした。 
私も今でもあの場面を思い出すと切ないです。

あなたは、日記をつけるのが習慣でしたね。
生真面目なあなたは、8月5日の日記に、
「今も軍人さんたちは、私たちのために
 一生懸命戦ってくださっています。
 私も先生の教えを守り、
 第一県女の女学生として立派に日々を
 過ごさなければなりません」と記していました。

被爆後一週間ほどして、あなたの消息を求めて
私とお父ちゃんは土橋(どばし)に出向き、
瓦礫(がれき)の中からあなたの名札付きの
上っ張り(うわっぱり)を拾い上げました。
石崎睦子がここに生きていたと証すように、
焼け残っていました。
その上衣(うわぎ)を抱いて、
満身創痍(まんしんそうい)だったお母ちゃんは、
また熱を出して倒れました。 
平常ではない日々でした。 
あの頃、一緒に泣いてあげられなくてごめんねと、
今も心の中で詫びています。

睦ちゃん、あなたの日記も上っ張りも、
今は原爆資料館に預かってもらっています。
東日本大震災があり、
私たちが子供の頃に味わった理不尽な思いを、
多くの人々が経験されました。
ことに、放射能の恐怖が大きな苦難となって、
人々はそれを乗り越えようと一生懸命です。

「書かれざりし 六日の日記 いかに埋めん 
     亡き姉偲(しの)び 残りし我が筆で」

手紙の中味は、たわいもない話の羅列だったけれど、
あの広大な中国大陸の
どこかの町から運ばれてくる空気を吸って、
「共に生きている」ということを感じられる
手紙だったように思う。
  私はその頃、教室で先生が読んで下さるウェブスターの
「足ながおじさん」に憧れていて、
もしかしてこの兵隊さんが幸福を運んでくれる
「私のあしながおじさん」ではないかと錯覚をしていた。 
何も楽しいことのないあの戦時中に、
私には秘密の香りのするこの手紙の交換が
唯一の明るい出来事だったように思う。

そして20年8月6日、
世界で初めての原子爆弾が広島に落され、
10万とも20万ともいわれる人が殺された。
私も、爆心から1・9キロの地点で焼かれた。
露出している部分が少なかったため、
火傷は髪と左頬、左手、左足のひざの下という形だった。

翌年の早春。
倒れかけている段原(だんばら)の私の家に、
軍隊の外套(がいとう)を着た人が訪ねてきた。
「美津子さん、いらっしゃいますか」と言われて、
私ははっと気がついた。
「私のあしながおじさん」だった。
私は焼けた髪もまだ生え揃っていないまま、
もちろん顔につけるクリームもないまま、
綿のはみ出た反纏(はんてん)を着て対応に出たのだった。 
彼は言った。
「広島駅に降りると一面の焼野が原でした。
 そこに島が見えました。
 こちらを探してここまでくる間も、
 瓦礫(がれき)ばかりでした。
 よく生きておりましたね。」
私は後になって、戦争から無事に生きて帰って来た人に
労(ねぎら)いの言葉一つかけずにいたことを
悔いたけれど、言葉にならなかった。
彼は小脇に抱えていた荷物を差出した。
「これは山陰の海産物です。食べて下さい。
 広島で暮らすことは難しいのではないですか。
 お母さん、弟さんと三人で、
 一緒に私の家に行きましょう。
 食べるものもあります。」

私は戸惑った。
やはり私の「あしながおじさん」だったのだ。
しかし、すぐ「行きます」とは言えなかった。
一から始める知らない土地での暮しは、
考えただけで気が遠くなりそうだ。
17年しかまだ生きていなかったが、
私にとっては広島が故郷だった。
この焼野が原の広島から、出発するしかないと決めた。
2、3分の決断だった。
「ありがたいお話ですが、
 私たちは広島で暮らしていきます。お体大切に。」 
逆光の中で、彼の顔も
はっきりとわからないまま別れてしまった。

俺は84歳になった。
時の過ぎるのは早いもので、あの時からもう64年。
今でも時々、あの夢を見て飛び起きる。
考えてみると、君も私も、
広島第二総軍司令部参謀部通信班にいたことが、
悲しい運命であったと思うのです。

8月5日、君は夜勤、私は昼夜の連続勤務で
6日の朝7時、兵舎に帰った。
朝食をすまして、私はすぐに寝ようと、
毛布を足の方から頭までかむろうとしたその時、
強烈な光と共に爆風が私たちの兵舎を襲った。
一瞬にして兵舎はつぶれ、火災が発生した。
君も私も梁(はり)の下敷きになった。
少しの間、私は失神して、何が起きたのか分からなかった。
爆弾の直撃を受けたと思った。
これで、俺の命は終わると思った。
幸運にも私を支えていた背中の板と垂木が折れて、
自力で出ることができた。
体には、ガラスなどがいっぱい刺さり血だらけであった。
助けられる友は2、3人助け、外に出した。
火は激しく我々のいる所に迫って来た。

君は膝関節に梁(はり)が落ち、
私たちが見ても骨が折れている事が判った。 
私は君の側に寄って、
「どうしても残念ながら君を助け出すことが出来ない。
 覚悟してくれ」と言った。 
君は私のズボン下をつかんで
「この火災で死ぬ事は覚悟するけれど
 このままだと、だれの骨か解らなくなる、
 俺の骨は俺の骨として故郷の妻子のもとに帰りたい、
 足を切って外に出してくれ」と言って、
全身の力で私のズボン下を放さなかった。
ノコギリを持った兵が偶然来た。
私は意を決してノコギリを持つ兵に足を切る様に命じた。
「早く切れ、止血して早く切れ」
早くしないと我々もこの火の中で死ぬ事になる。
もう阿鼻叫喚(あびきょうかん)。
しかし君は痛いとも言わず、歯をくいしばり辛抱した。
毛布に包み、外に出した。
外にいた上官に
「こんな間に合わん兵を出してどうするのだ」
と、ひどく殴られた。
私は「これが戦争ということか」と兵隊の悲しさを知った。
流す涙もなかった。

君は4時間程して死を迎えた。
私は水を飲ませた、出来る限りの事をしたと思っている。
死体処理班が君を骨にして希望通り故郷に帰した。

君の奥さんは、どんな思いで君を迎えたのだろうか、
君は奥さんに抱かれて満足だったろうか、
私は今でも君を殺したという思いで現在に至る。
心が痛む、今も君のあの時の顔が夢に出てくる、
悲しさが込み上げる。

私は「イサヨ」を探しに行ったので、
下着から浴衣などを大きな風呂敷に包んで
背負い歩き回った。
広島市中の目ぼしい所は歩いたが見当たらず、
諦めて引き返す途中、江波線だったろうか、
電車通りに怪我人が何百人も収容されていると聞き、
探しに行ってみた。

電車の線路の上に、青竹を組んで
荒筵(あらむしろ)を掛けた陽除けの下に
ずらっと負傷者が並べられ、寝かされていて、
もう息絶えた人も沢山いた。
一人ずつ顔を見て歩き、引き返す時もう一度、
顔をのぞき込んでいると、
髪の毛がパーマをかけたように縮れ、泥まみれで、
鳥の巣のような頭をした女に目が止まった。
じっと見つめると、
「兄さん!兄さんでしょう…」と声を掛けてきた。
よく似てると思ったが、
「清子か、お前、清子だろう…」というと、
「清子よ」と返事が返った。
遠縁の娘であった。
見ると全身真っ裸、何一つ身に付けていない。
爆風で吹っ飛んだらしい。
まだ若い娘である、誰が掛けたのか、
新聞紙が掛けてあった。
妹もいるのよ…というから隣を見ると、
清子の4つか5つ年下の妹であった。
妹はもう口もきけなかった。

早速、イサヨに着せるつもりの衣類を妹に浴衣を着せ、
清子には下着と、私の半袖シャツ、
それに乗馬ズボンも脱いで履かせた。
何か食べよ…と弁当を出したが、
「欲しくない、梅干しが食べたい…」というので、
にぎり飯の中の梅干しを出すと「おいしい」となめた。
岩国に連れて帰るといったが、
倒れた家の下敷きになって胸の骨がバラバラになっていて、
動くと血を吐くのだという。
話を聞くと、妹が頭が痛いというから
仕事を休んで病院に連れて行こうと家を出かかった時に、
爆弾が投下されたらしい。 
熱いので真暗闇の中を手探りで歩き、
川に飛び込んで流され、この土手に助け上げられたが、
今まで生きているのが不思議なぐらい。
「岩国へ帰る途中で死ぬでしょう。
 兄さんに迷惑をかけたくない。
 広島で生まれ育ったのだから広島で死にたい…」と、
意識はしっかりしていた。
兄さんありがとう。
会えて元気な顔を見てうれしい…、
こんな会話をしてさびしそうに笑ったあの顔が
いつまでも忘れられない。

翌朝、岩国で会社のトラックを仕立て、
きのうの場所へ行ったが、
状況はがらりと一変していた。
何百人か寝ていた人はほとんどいなくなり、
清子たち二人の姿もなかった。
近郷から来て世話をしていた人にたずねると、
「昨夜のうちに死んだんでしょうよ。
 死人はけさ早く、全部トラックで運びました。
 行き先は知りません…」と、つれない返事。
ぼう然と立ちすくんだ。
手の打ちようもない始末である。
どこかで一緒に火葬したらしい。
あわれで、思い出すたび悲しい思いをした。
それっきり、あの清子一家とは会えなかった。
もちろん、イサヨには会えず、死体も戻らなかった。

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