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がんす横丁で知るヒロシマ

~街の秘密を探る・八丁堀界わい~
  • 2024年05月15日

昭和24年から36年にかけ、新聞に掲載されたエッセイ「がんす横丁」。
書いたのは、NHK広島放送局の初代アナウンサー・薄田太郎さんです。

原爆投下前の広島のにぎわいを回想し、人気となった「がんす横丁」をもとに、かつての広島の姿を探しに街を訪ねました。

広島のにぎわい

「がんす横丁」をひもとくと、かつての広島の街のにぎわいがあふれています。

『京口御門あたりに見世物小屋がならび、(中略)八丁堀の新埋め立て地に常陸山、梅ヶ谷両横綱の相撲興行があって、娯楽場としての小競馬場ができ、広島の東部に新盛り場を現出した』

がんす横丁より

発展の秘密は広島城にあり!

岡崎キャスター
「広島城のお堀に街の発展の秘密があるということで、探って行きたいと思います」

教えてもらうのは、原爆投下前の広島の地域や文化に詳しい神道学者で、広島修道大学・非常勤講師の中道豪一先生です。

中道先生
「街の発展の大きなポイントのひとつが、お堀や運河を埋め立ててにぎわいを作ったというところになります。水の恵みを受け、時には水の脅威と闘いながら街を発展させていった」

現在の広島城の堀の外周は、およそ1.5キロ。
しかし、明治10年の地図には外側の堀、そして、南に向かって流れる西塔川と平田屋川という2つの川が。現在これらの堀や川は、現在は存在しません。
どうしてなくなってしまったのでしょうか。がんす横丁にそのヒントがありました。

『この堀をそのまま残しておくことは、ただいたずらにレンコンをはびこらすのみで、(中略)この堀を埋めて電車を走らせ、道路にして家を建てるという都市計画(そのころはまだそんな言葉はなかったようである)で始められたと想像する。』

がんす横丁より

都市計画一大プロジェクト!

都市の近代化を目指す広島市は、城下町のなごりである広島城の外堀や川を埋め立て、これを道路や宅地にする計画を打ち出しました。

明治43年、外堀から始まり、西塔川、そして平田屋川と次々に埋め立てていきました。

つまり西塔川は、現在の鯉城通り。平田屋川は、現在の並木通りや地蔵通りにあたります。

中道先生
「このあたりは増える人の住む場所を確保するという目的もおそらくあったと思われますが、電車道とたくさんの人や車が通る道に変化しています。まさにこれは水の都広島の水を埋め立てて、生まれたにぎわいのひとつというふうに言えるかと思います」

八丁堀の秘密を探る

いまも賑わうおなじみの八丁堀も広島城の堀だったということで、やってきました。
歩いているとひっそりたたずむ灯ろうを発見。

岡崎キャスター 「ちょっとひっそりしすぎではないですか?」
中道先生 「実は、謙虚に外堀の存在を主張している」

灯ろうを見てみると、「広島城八丁堀外濠跡」と書かれていました。
八丁堀という地名は、この角から外堀の長さが8丁、およそ880メートルだったことに由来しています。

埋め立てられた八丁堀界わいは、多くの娯楽施設が建てられました。太陽館など、3つの活動写真館が建ち並ぶ盛況ぶりが、がんす横丁にもつづられています。

『太陽館で忘れられないのは、大声の呼び込み屋であの電車道に面して「いらっしゃい、松之助の自来也はこちら」というバン声は、白島の電車終点近くまで聞えた。』

がんす横丁より

『広島最初の百貨店福屋が八丁堀角にできたのは昭和四年十月一日で、四階まで運転されたエレベーターは広島人をびっくりさせた。(中略)「一度乗ってみようではがんせんか」と手弁当持ちの見物人がつめかけて、福屋は開店早々からさかんな売れ行きで、四階の食堂も毎日満員であった。』

続がんす横丁より

広島市内中心部に魚市場!?

最後に訪れたのは、八丁堀から南に入ったところにある商店街。ここも川にまつわる場所だといいます。

中道先生
「こちらは中の棚といいまして、古くからある魚市場と言われています」

商店街のあちこちに、魚がデザインされたロゴが。

かつて広島市には、3カ所の魚市場がありました。その真ん中に東魚屋町があったため、通称「中の棚」と呼ばれていました。いまの「中の棚商店街」です。

さらに中へ進むと、中の棚稲荷神社があります。広島の中でもかなり古い歴史を持つと言われています。

中道先生
「魚で商売する人が中の棚に集まるわけですが、そこの守り神として、おまつりされたのが、こちらの中の棚稲荷神社です」

この神社の特徴は、ほかの稲荷神社では、2月に行われことが多い例祭を6月に行うこと。
そこには、魚市場で働く人たちならではの願いが込められています。

『一年一度の祭りには棚が乾かないよう、必ず雨が降るように祈った。すなわち、雨が降れば棚がぬれると縁起をかついで商売繁昌を願った。』

続がんす横丁より

中道先生
「棚に置いた魚がいわゆる雨に濡れて新鮮であるように、そのような意味を込めて、6月に例祭をあてたというふうに言われています。とにかく広島は水の都と言われてきました。ここでは川や運河、水を使った産業を含めると、広島にはものすごくたくさんの思い出や記憶が埋もれている」

薄田さんがこの「がんす横丁」を書いたのは、ある思いがありました。はしがきには、次のようにつづられています。

『あの町角にみかけたかつての小景や、盛り場のシルエットは、あとかたもなく原爆に打ち壊されてしまった。筆者は、その打ちのめされた裏小路の一寓から、ありし日の広島の幻影をしのんでみたかった。』

がんす横丁より

そこには、薄田さんの広島を愛する気持ち、あのときの広島を覚えておいてほしいという強い思いがありました。

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