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G7広島サミットを前に訪米 被爆体験証言“自分事で考えて”

  • 2023年05月15日

G7広島サミットを前にした4月、アメリカで被爆体験を証言した田中稔子さん。「ここで核兵器の危険性を話さないでどうするんだ」という危機感を持って臨みました。田中さんが若い世代に訴えたこととは。

(広島放送局記者 児林大介)

英語で訴える被爆者

4月上旬、アメリカの大学で講演をする田中稔子さん

田中稔子さん(84)は、G7サミットを前にアメリカで証言をしてほしいと、現地の大学に通う若者に招かれ、大学生や高校生など、若い世代に核兵器廃絶を訴えました。みずから用意した原稿を手に、英語で直接語りかけました。

田中稔子さん

午前8時15分、学校に行く途中のことでした。誰かが『B29だ!』と叫んだんです。上を見たら、ものすごい光で、何百万ものライトに照らされたようでした。すべてが真っ白になり、何も見えなくなりました

広島サミットを前にしたこの時期に訪米した気持ちを、田中さんはこう話します。

田中稔子さん
「アメリカで被爆証言をするのは、G7サミットを前にした最後の機会になると思ったんです。ここで核兵器の危険性などを話さないとどうするんだという気持ちでした。だから、いま現地で話すことは、非常に大事な時期、大事な場面だと思っていましたね」

60年以上語れなかった被爆体験

昭和20年3月 当時の田中さん

田中さんはもともと、爆心地にほど近い、今の広島市中区中島町に住んでいました。しかし、6歳だった昭和20年の夏、自宅が建物疎開で取り壊されることになり、原爆投下の1週間前に、爆心地からおよそ2.3キロの、今の広島市東区牛田に引っ越しました。これが、田中さんの運命を大きく分けることになります。8月6日の朝、田中さんは自宅近くで一緒に学校に行く友達を待っていた時に被爆しました。原爆投下の瞬間、とっさに右手で顔をかばったため、右腕と頭、左首の後ろにやけどを負いました。同居していた叔母を亡くしたほか、引っ越し前に通っていた爆心地近くの同級生とは、誰とも連絡が取れていません。田中さんは心に深い傷を負い、生き残った負い目を感じていたこともあって、60年以上にわたって被爆体験を語ることができませんでした。

 

2008年ベネズエラでの写真

家族にも被爆体験を話したことがなかった田中さんに転機が訪れたのは70歳の時。国際交流で南米のベネズエラを訪れた際、現地の人に被爆者であることを告げると、「あなたには被爆のことを話す責任がある」と言われたのです。それまで言われたことがなかった率直な物言いに、はっとさせられたのです。

田中稔子さん
「心に響きました。やっぱり私は生き残りなんだと。私が話さなきゃ誰が話すんだという気持ちになりましたね。亡くなった多くの同級生たちも、世界で話すことを多分喜んでくれているんじゃないか。そして、やはり二度と核兵器が使われない世界を求めているに違いないと思ったんですね。それから、被爆証言をするようになりました」

ウクライナ侵攻で訴えへの決意を強める

ウクライナで撮影した写真

田中さんが世界に発信しなければという思いをさらに強くしたのが、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻です。田中さんは、東日本大震災の翌年の2012年にウクライナを訪れていました。その際、チョルノービリ(チェルノブイリ)原子力発電所で廃炉作業にあたる人たちや、原発事故で避難した人たちに会い、自身の被爆体験を証言したほか、放射線の影響を心配する心境を聞きました。この時に核の恐ろしさについて深夜まで語り合った人たちのことを案じています。

田中稔子さん
「ニュースを見ていると、本当にひどい目に遭っていますよね。戦車が走っているのを見て、昔の戦争を思い出すと同時に、何ができるか本気で考えました。そして、ロシアが核で威嚇するのを見て、もう少し頑張らなきゃいけないなと思いました。これは私たちにしかできないので、ここでもっと強力に訴えていかなきゃいけないと考えています」

アメリカの若者に“核兵器のない世界”の希望託す

アメリカの学生の前で話す田中さん

世界で核の脅威が高まる中、田中さんはこれまで以上に危機感を持ってアメリカに渡りました。エール大学など、コネティカット州にある5つの大学や高校などを訪れ、今後世界のリーダーになる可能性がある若い世代に被爆体験を証言しました。証言は、3日間で7回にのぼりました。

田中稔子さん

「私は広島の原爆を経験しました。生き延びた人たちのことを日本語では『被爆者』といいます」

 

田中さんが作成した英語の原稿

70代後半から学び始めた英語で、およそ40分、通訳を介さず、直接伝えました。自らのことばで伝えることで、訴える力がより強まると考えるからです。核兵器は多くの人の命を一瞬にして奪うだけでなく、生き残った被爆者も放射線による健康への影響を心配し続けることになると、田中さんは証言しました。

田中稔子さん

「私たち被爆者は高い確率で原爆の後遺症があるのではないかと常に感じています。子どもも健康でいられるか分からず、わが子に申し訳ないという思いが常につきまといます。この精神的負担を一生背負うことになるのです。地球上の誰も同じような思いをすべきではないと思います」

質問者

「体験を話すとどんな気持ちになりますか」

田中稔子さん

「話すのはハッピーじゃないです。いつも話したくないです。でも、話すことで、もしかしたら核兵器を二度と使わない世界になるかもしれないと、希望を少しもらいます」

質問者

「核兵器による紛争をなくすためには、共感が必要だという話でしたが、世界で共感を生み出すにはどうしたらいいと考えますか」

田中稔子さん

「宇宙から見ると、地球は小さな船。そこにみんな乗っているんです。食料や場所をめぐって争っていると、いずれ漂流して全員が死んでしまいます。その状態がいま起こりつつあることなんです。そのことをみなさん想像して、考えてください」

そして、若い世代へのメッセージを伝えました。

田中稔子さん

「若い世代の皆さん、国籍や人種の違いによらず一緒に生きる道を選んでください。いつか核兵器のない世界で将来世代が美しく輝き続ける青空のもと過ごせますように」

田中稔子さん 
「ウクライナ情勢の影響もあってか、今回のアメリカでの被爆証言は、みなさん真剣な表情で聴いてくれました。終了後も質問の列が途絶えることがなく、大いに手応えと達成感がありました。聴いてくださった皆さんには、自分事として考えて、これからもそれを忘れないでくださいねと言いたいです」

G7広島サミットに向けた思いは

平和公園を歩く田中さん

被爆地・広島でまもなく開催されるG7サミット。田中さんに、核保有国も含めた首脳たちに訴えたいことを聞きました。

 

『会話を尽くして平和への道を』

田中稔子さん
「軍備を広げるのではなくて、核兵器廃絶の道へのかじ取りをしてもらえる会議になってほしいと思います。被爆者は核兵器が使われた時の怖さを知っています。首脳たちには資料館をじっくり見て、被爆者の証言を聴いてほしい。自分の妻や子、親が原爆を受けたら、この人たちと同じような思いをしたらどうだろうかと想像力を働かせてほしい。核兵器はまずなくさないといけないものなんです。広島で会議をなさるわけですから、ここを平和へ向かっていく分岐点にしてほしいと思います」

取材後記

70代後半から英語を学んで、およそ40分にわたって通訳なしで証言をする。これは、なかなかできることではないと思います。いまも学び続け、成長しようという姿勢には、頭が下がる思いがしました。田中さんは、自身の被爆体験について「本当は話したくない」とも語っていましたので、取材でさまざまなことを伺うのは、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。一方で、「話す責任がある」と考える田中さんの思いを託されているような感覚が、ことばの端々から伝わってくる、そんな取材の時間でした。

「当時を思い出したくない」という気持ちは、程度の差こそあれ、原爆を経験したほかの方も感じていることだと思います。そうした気持ちに最大限配慮しながら、核兵器廃絶を願う広島の声を今後も取材し、伝えていきたいと感じました。

  • 児林大介

    広島放送局 記者

    児林大介

    鳥取→和歌山→東京→盛岡→広島。ニュースウオッチ9リポーターとして全国のさまざまな現場を取材したほか、各地の夕方6時台ニュースでキャスターも経験。山口県出身。

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