8月

2020年10月02日(金)

「シュン」これまでのツイート 1945年8月16日~31日

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NHK広島放送局では、終戦の年(1945年)の社会状況や人々の暮らしを、3つのTwitterアカウントで発信しています。
ここでは、中学1年生「シュン」の過去のツイートを読みやすく、まとめて掲載しています。
戦争の時代の社会状況を伝えるため、当時の日記などに基づき掲載します。

 

1945年8月16日~31日のツイート

【1945年8月16日】 8:03

日本は負けた。まだ信じられない。
誰かがしきりに「コペルニクス的転回」と言っていた。 まったくだ。

【1945年8月16日】 12:59
農業会前に、西条警察署長の「戦争は終わった」という張り出しが。
昨日のラジオ。僕は確かに聞いた。
やはり平和交渉が成立したことは本当だった。

【1945年8月16日】 13:00
紀元二千六百年という輝かしき歴史は遂に汚されたのだ!

【1945年8月16日】 17:29
ん?入道雲だ。
爆音と共にどんどん大きくなる。
また米英ソがやってくるのか!それとも我が方が自爆しているのか。
田中先生は米英等の下になると、共同生活は停止されるかもしれぬと言われていた。

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【1945年8月17日】 11:07
突然、父が原村に来られた!
明日から、秩父に帰るため僕を迎えに来た。

が、秩父…帰れるのか? 父ちゃんの身体は大丈夫なのか?
先日の爆撃で大怪我を負っているというのに…

【1945年8月17日】 14:59
廣島の家に再び帰ってきた。
たった五日ぶりだが懐かしい匂いがする。

大怪我しているのに母は、弟を疎開先まで迎えに行ったらしい。

【1945年8月17日】 15:29
母が、弟を連れて帰ってきた!
母の顔は打撲のせいで化け物のように腫れ上がっている…

久しぶりだな、弟よ。おかえり。

【1945年8月17日】 16:59
僕が原村にいる間に、父母は家に残す品物を床下に埋めて、秩父へ送る行季や布団包みなどの大荷物を廣島駅へリヤカーで運んだらしい。

僕たちは、持ち帰る物や食糧の準備を開始。

【1945年8月17日】 19:59
遂に明日、出発だ。この大混乱の中、秩父まで無事に帰れるだろうか…。

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【1945年8月18日】 15:59
無けなしの食料と貴重品、僅かな家財を詰める。母は大きな風呂敷包み、僕はリュックサックと手提げトランク。父は病人なので何も持たせられない。
半壊した自宅に鍵をかけて、出発。

【1945年8月18日】 17:09
うわ…なんだこの人だかりは
廣島駅のホーム。山のように散乱している瓦礫、数えきれないほどの血膿にまみれた避難民。

そしてあれは軍人か……?大荷物を何個も背に背負っている。

【1945年8月18日】 17:11
そうか…この人たちは復員してきた兵隊だ

【1945年8月18日】 17:24
何なんだこの大混雑ぶりは…これではホームに立っていることも出来ない
こんな中を、怪我をした家族四人が秩父まで行けるはずがない

【1945年8月18日】 17:34
だめだ。どの列車も人、人、人……。すし詰めだ。この汽車も乗れそうにない。もう何が何だかわからない
二本目の列車も見送る。

【1945年8月18日】 17:50
やっと汽車に乗る。
復員兵士を先頭に大群集が我先になだれ込む。
僕たちも無理やり乗り込んだが、肩が重なり、足と足が一分の隙もない。
一旦足を上げたが最後、宙に浮いてしまう。

【1945年8月18日】 17:52
網棚にも人が乗り、車内のむわんとした空気に圧迫され、息が出来ない。
衰弱しきった父を守ってここから秩父まで……

母が、もう汽車から降りようと言う。

【1945年8月18日】 17:53
一旦汽車から降りる。
帰ろうか。と父ちゃんがつぶやく。

しかし家に帰っても食糧はない。

【1945年8月18日】 21:02
呉線経由、しかも天蓋のない貨物列車だがやっと乗れた。
混雑も、先程の列車よりは少しはまし。

しかし、とんでもなく遅い。虫が這うような徐行ぶり。
一体向こうに着くのはいつになるのだろう…。

【1945年8月18日】 22:04
遅い。もう何時間も座っていない。
母、弟の様子も気になるが、父はひどく辛そうだ。

父ちゃんには、せめて座席に座ってほしいが、誰か譲ってくれないだろうか…?
いないだろうな。

【1945年8月18日】 22:30
汽車が止まった
全員下車だ。ここはどこなんだろう?真っ暗でどこなのかも分からない

【1945年8月18日】 23:31
どうやらここは呉駅のようだ。止むなく、今日はここで野宿することになった。

【1945年8月18日】 23:58
持ってきた夏布団に横になる。
駅から続くこの広場は少し傾斜していて、今にも下の方へ落ちていきそうだ。
秩父まで、無事にたどり着けるのだろうか?

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【1945年8月19日】 5:12
最悪の目覚めだ。
体の疲れが全くとれていない。
これから、広駅まで行き、糸崎駅を出て大阪行きの列車に乗り換える。

【1945年8月19日】 9:22
猛烈な混雑ぶりは変わらないが、糸崎についた。
ここから大阪行きの列車に乗り換える

【1945年8月19日】 10:54
うわ…まさか、まただ
逃げ惑う避難民たちを押しのけて、抱えきれない大荷物を持った屈強な男たちが乗り込んできた!
支給されたばかりの新しい軍服。復員軍人だ…

【1945年8月19日】 10:55
唖然とする。
僕たちは、同じ日本国民じゃないか

【1945年8月19日】 19:09
窓の外に、暗い空の下でポツポツと家の明かりがついた家が立ち並んでいるのが見える。
父が六甲山のあたりと教えてくれる。

不思議だ。つい最近まで、明かりなんて、つけられなかったのに。
綺麗だ。本当に負けたんだ。

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【1945年8月20日】 6:22
焼け野原の大阪でまた野宿。
弟は足が痛いと言う。父ちゃんの具合も良くない。
僕が駅まで先導する。

【1945年8月20日】 7:44
朝鮮人だ!!
大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!
※注 当時の混乱した社会状況を伝え、戦争の時代についてリアリティーをもって考えていただくために、資料に基づきNHK広島放送局の責任で作成しました。

当時の日本には、多くの朝鮮半島出身者が暮らしていました。1910年の韓国併合によって日本による統治が始まった後、働き口を求めて日本本土に移住する人々やその家族などが増えました。日中戦争が長引いて労働力不足が深刻化した際に、軍需工場や炭鉱などに動員された人々もいました。

【1945年8月20日】 8:19
「俺たちは戦勝国民だ!敗戦国は出て行け!」
圧倒的な威力と迫力。
怒鳴りながら超満員の列車の窓という窓を叩き割っていく
そして、なんと座っていた先客を放り出し、割れた窓から仲間の全員がなだれ込んできた!
※注 8月20日 7:44の注釈を参照ください

【1945年8月20日】 8:21
あまりのやるせなさに、涙が止まらない。
負けた復員兵は同じ日本人を突き飛ばし、戦勝国民の一団は乗客を窓から放り投げた
誰も抵抗出来ない。悔しい…!
※注 8月20日 7:44の注釈を参照ください

【1945年8月20日】 11:44
超満員で便所にも行けない。
立ちっぱなしの車内で、疲労困憊した父を庇う。
今どこを走っているのだろう?
人に埋もれて、ガタガタという音しか聞こえない。

【1945年8月20日】 12:00
座席が一つ空いた。父ちゃんを座らせる。

【1945年8月20日】 12:29
大井川を越えた。
父の隣に座っていた親切なおばさんが、席を譲ってくれた。
すぐに父が、ぐたっと横になって寝てしまう。

【1945年8月20日】 12:44
「こんなときに、席を二人分占領しやがって!」
前の人が、母ちゃんに猛烈に食ってかかる。
「これは病人だから勘弁してください」
母が涙ながらに説明する。僕は何もできない。
勘弁してくれない。再び、僕たちで、なんとか父が座るのを支える。

【1945年8月20日】 17:41
東京駅が完全な廃墟になっている。
乗り換えの列車待ちの間に、少しでも休もうと、駅前の日比谷公園の芝生で横になる。
家族みんなで、夕飯にする。

【1945年8月20日】 18:49
母が風呂敷を広げる。
大豆の入りの芋弁当を食べよう。

【1945年8月20日】 18:58
浮浪児に弁当を奪われてしまった。
襲いかかってきたと思ったら、あっという間だった。
なんで。どうしてこうなるんだ。なんで……
※注 戦争の時代の社会状況を伝えるために掲載します

【1945年8月20日】 20:30
上野駅にたどり着く。
地下道は、暗闇の中、無数の避難民や浮浪者たちがひしめき合って、割り込む隙間もない。
また、浮浪児がこちらに向かって歩いてくる。
※注 8月20日 18:58の注釈を参照ください。 

【1945年8月20日】 20:31
「おじさん、これあげよう」
なんと、その浮浪児が父に焼き芋をくれた。
ああ、食べものだ。信じられない…!
※注 8月20日 18:58の注釈を参照ください。

【1945年8月20日】 21:19
今夜は、地下道で野宿。
ここまで目を覆いたくなるような出来事をたくさん見た。
これが、戦争に負けたということか。

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【1945年8月21日】 15:34
熊谷に到着。秩父鉄道に乗り換える。
混雑は、ずいぶんマシになった。

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【1945年8月28日】
今日は朝食後に『明治大帝』という本を読みふけった。
昼から、壊れて動かない蓄音機の音盤を手で回していたずらをする。

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【1945年8月29日】
昨日作っておいたとうもろこしの砂糖汁が、とてもドロッとして甘い。
それを饅頭につけて食べる。饅頭も甘いがとうもろこしも甘い。

【1945年8月29日】
ぶどうを取って食べる。甘いのもあったがまだ酸っぱい。
もう一度とうもろこし汁を作る。瞬く間に平らげる。

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【1945年8月30日】
秩父にいるとつい、廣島へ帰るのが嫌になる。
おまけに新聞は、原子爆弾のひどさを大々的に書いているので、思い出してしまう。
気が進まない。

【1945年8月30日】
幼なじみの親友が訪ねて来てくれる。
懐かしい。元気そうで良かった!

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【1945年8月31日】
また雨だ。最近変な天候が続いている。
朝食にニシンが出る。
とても美味しい!

【1945年8月31日】
『青年』という本を見せてもらう。
とても面白い。

【1945年8月31日】
父が面白い声で、紙芝居『大楠公』をやる。
近所の子ども達も僕もキャッキャッという大騒ぎ。
面白い、面白い!
僕も『フクチャン』を見せてやる。

【1945年8月31日】
八月は歴史の月だった。
この年月を日本国民は永久に忘れない。
日本の将来を変えた歴史的な月だ。

【1945年8月31日】
僕達はこの国辱的な八月を永久に忘れず、帝国復興に力を尽くさなくてはならない。
僕は誓う。
必ず大日本帝国を以前よりより良い国に作り直します!
世界平和、否、帝国復興のため尽力しよう。

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このプロジェクトの目的は、戦争の記憶が薄れつつある中、若い世代に被爆体験を継承し、戦争の時代の社会状況についてリアリティーをもって伝え、考えていただくことにあります。
「シュン」のモデルは、1945年当時、広島の中学1年生だった新井俊一郎さん(13)です。現代の広島の10代が新井さんの日記などを読み、その味わいを大事にしつつ、若者の感性を加味し、想像を膨らませて書いています。時間は日記などをもとに推定。必要に応じて注釈をつけます。