6月

2020年10月02日(金)

「シュン」これまでのツイート 1945年6月16日~30日

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NHK広島放送局では、終戦の年(1945年)の社会状況や人々の暮らしを、3つのTwitterアカウントで発信しています。
ここでは、中学1年生「シュン」の過去のツイートを読みやすく、まとめて掲載しています。
戦争の時代の社会状況を伝えるため、当時の日記などに基づき掲載します。 


1945年6月16日~30日のツイート

【1945年6月16日】 7:29
本日は朝早くから広島駅に集合した。どこかに動員に行くようだが、行き先が告げられていないということは軍の機密作業なのだろうか。
気を引き締めて臨まねばなるまい。

【1945年6月16日】 9:59
着いた。けれどここがどこかは口外してはならないらしい。
既に大人たちが大きな穴を掘り進めている。
話す言葉によるとどうやら朝鮮人のようだ。
※注 当時の混乱した社会状況を伝え、戦争の時代についてリアリティーをもって考えていただくために、資料に基づきNHK広島放送局の責任で作成しました。

当時の日本には、多くの朝鮮半島出身者が暮らしていました。1910年の韓国併合によって日本による統治が始まった後、働き口を求めて日本本土に移住する人々やその家族などが増えました。日中戦争が長引いて労働力不足が深刻化した際に、軍需工場や炭鉱などに動員された人々もいました。広島にも多くの朝鮮半島出身者が暮らし、原爆の犠牲になりました。その数は定かではありませんが、広島市の平和公園にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」には「2万余名」の命が奪われたと記されています。

【1945年6月16日】 10:59
それにしても大きな穴だ。
軍需物資の貯蔵にでも使うのだろうか。
機密なので誰も何も言わない。

【1945年6月16日】 12:34
朝鮮人の奴らは「この戦争はすぐに終わるヨ」「日本は負けるヨ」と平気で言い放つ。
思わずかっとなり、怒りに任せて言い返そうとしたが、多勢に無勢。
しかも相手が朝鮮人では返す言葉が見つからない。奥歯を噛みしめた。
※注 6月16日 9:59の注釈を参照ください

【1945年6月16日】
14:59
誰かが一米半もある大きな蛇を捕まえた。
朝鮮人との奪い合いの軍配はなんと僕達中学生に上がり、勇気のある一人が蒲焼にして配っていた。
気味が悪いので僕は食べられなかったが、そこかしこで旨いと声が上がった。
※ 注 6月16日 9:59の注釈を参照ください

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【1945年6月17日】 8:04
本日は日曜日だが、この情勢の中では日曜といっても遊んでいるわけにはいかない。
日曜は月に二,三度もあれば充分である。
というので本日は授業日である。
学校に向かう。

【1945年6月17日】 12:34
このように沖縄の戦局が悪化しているというのに勤労の合間に学べるのは実に有難いことである。
我々は、心より天皇陛下と勇敢なる陸海の勇士に感謝しつつ学習をしていこう。

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【1945年6月18日】 7:57
皇族に生まれ、陸軍の長老であらせられた閑院元帥宮殿下が遂に永久の眠りにつかれた。
明治、大正、昭和の三代の陛下にお仕え申した偉大な方であったのに、皇国の勝利の日を待たずその御英霊はお鎮まりになってしまった。
なんという悲しいことか……

【1945年6月18日】 17:13
今日僕らは基町へ倉庫整理の勤労動員に赴いた。
国葬日に一心に働き、帰宅するときの気持ちと言ったらとても一言に表せるものではない。
国のために戦える喜びと国葬日の喪に服せない無念、相反する二つで板挟みになった心持ちである。

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【1945年6月19日】 8:29
今朝の新聞に昨日の故関院元師宮殿下の国葬の様子が詳しく出ていた。
これを見るとまた悲しみに胸が一杯になるのだ。
また、沖縄の戦局は次第に困難になっている。

【1945年6月19日】 14:59
英語の試験。A、B、Cなどの書き取りや意味などをやっていると、その時にサイレン。警戒警報だ。
またやってきたのかヤンキーめ。
サイレンの音を聞くと、限りないほどの憤りを覚える。
※注 戦争の時代の社会状況を伝えるため、当時の日記に基づいて掲載します。


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【1945年6月20日】 9:39
1時間目の図画の時間には、仲教官が休んで居られるため自習であった。
自分は『一式陸攻』の絵を描いた。
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【1945年6月20日】 15:49
漢文の中間考査の成績の発表で、
ABCDの4段階評価のなかで僕はAマイナスだった。
あっ、警報発令

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【1945年6月21日】 14:00
さきほど、雨天体操場に集められ、上級生から訓戒を受けた。
板張りの床に、なんとゲートルを足に巻いたまま正座させられ、その僕達の周りを上級生たちがグルグルと回りながら罵声を浴びせてくるのだ。
僕達が、上級生を舐めているとのことである!

【1945年6月21日】 14:08
様々な声で怒号が飛び交い、その姿勢のまま一、二時間はたっただろうか。
やっと、「立て」の命令が出たとき、僕達は皆ボロボロだった。
足の感覚が麻痺し、とても立つことなど出来なかった。
懸命に足の甲で立とうとする者もあった。

【1945年6月21日】 16:59
時間がたつと、段々と足全体がジンジンと痛みだし、今もそれは消えていない。
明日になれば足の痛みは多少消えるだろうが、この苦痛と屈辱はこの先も絶対に忘れないだろう。

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【1945年6月22日】 10:59
来た!警戒警報がけたたましく鳴ったかと思うと、数え切れないほどの、グラマン戦闘機が現れた。こんなに沢山、今まで見たことがない!大慌てで僕は二葉山に逃げ込み、長い石段を駆け上がって山林の横腹に飛び込んだ。

【1945年6月22日】 11:04
震えが止まらない。こんなことは生まれて初めてだ!ついに広島もやられるのか!爆音が次々と近づいてくる。僕のすぐ上を、戦闘機が超低空で飛んできた!百機以上はあるだろうか。今操縦席の米兵と目が合った!!

【1945年6月22日】 11:09
ダダダダダダッと機銃掃射の弾丸が土を跳ね上げながら通り過ぎていく。物凄い衝撃!やつらは僕がここに隠れているのを知っていて攻撃しているのか!この弾に撃たれると体が吹っ飛ばされるのだ。僕はそんな死に方はしたくない!

【1945年6月22日】 11:29
やっと、終わった。グラマン戦闘機は去った。恐る恐る頭を出して周りを確認するも誰もいない。とんでもなく静かだ。元来た道に向かって一目散に駆け出す。だが、できない。膝が笑って、立つことで精一杯だ。

【1945年6月22日】 11:59
なんとか東練兵場にたどり着いた。同級生は全員無事。よかった。開墾の続きを始めようとしたが、皆息が上がっていてとても作業にならない。体の一部が削ぎ落とされたように疲れ切っている。

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【1945年6月23日】 13:59
朝は雨だったので授業だと思い学校に向かったが、どうやら作業があるようなのでまた東練兵場まで引き返した。昼食後に、粉をこねた餅をいただいた。久しぶりの甘い物に、これまでの疲労も癒えていくようである。

【1945年6月23日】 16:00
なんと一中の正木義虎君に会った!彼は国民学校時代の同級生だ。僕と同じで関東から廣島に越してきた転校生だったこともあり、気が合ってよく一緒に遊んだ。僕の特別な友達だ。

【1945年6月23日】 16:01
彼は卒業間近に引っ越して以来それきりだったので何ヶ月ぶりの再会だろう?お別れをしたとき、少し古い当用日記帳を貰った。もうすぐ今のが終わるので、あの日記帳を使わせてもらうよ。正木君、ありがとう。

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【1945年6月24日】 15:59
本日は、朝から建物疎開跡の畑に行ってサツマイモやトウモロコシを植えた。中学生になっても、まだ日曜日は学校を休むことができ、勉強をすることが出来る。有意義に使うことが出来る。何という有難いことだろうか。

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【1945年6月25日】 8:59
本来なら二十九日まで東練兵場での開墾作業が続く予定だったのだが、今日、一日でも早く仕上げると、二十九日までずっと休みになると発表があった。皆張り切って開墾作業を進めている。

【1945年6月25日】 14:59
またもや警報発令。今日はたった一機だけが飛行機雲を引いていた。二十二日のものすごい数の敵機来襲を思い出し身体が震える。何をしに来たのか?一機でも恐ろしいことが起きるような気がしてならない。

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【1945年6月26日】 7:59
今日も暑い日になりそうだ。しかし、この暑さを耐え、土地を早く耕すことで、少しでも早く日本のためにつくせるのだ。七時から出ていた警報も先程解除された。よし!直ぐに作業に取り掛かろう!

【1945年6月26日】 10:00
サツマイモが飛行機の燃料として必要とされているそうだ。日本は有利な戦況にあるはずだ。だから燃料にも不自由ないのはずなのに。なのに、なぜサツマイモなんかを燃料に使おうとしているのだろうか。

【1945年6月26日】 10:01
ともあれ、日本のためだ。立派な芋を作れるよう、よく土を耕し、良い成績を挙げ、さらには附属中学の名を汚さぬよう働こう。

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【1945年6月27日】 9:09
二十二日から度々空襲があったが、東練兵場での作業は順調に進んでいる。が、立派な芋を作るには程遠い。作った畝も、浅くて固い。これではだめだ。もう一度やり直そう。

【1945年6月27日】 11:59
錬兵場の土は固く、作業用具も少ない。質にこだわらず、片端から耕していけば良かったのだろうが、間に合わず。
次こそは良い評価を取ってみせる。労力も惜しまず出すぞ!

【1945年6月27日】 14:00
先生方手作りの教科書の配給を受け取った。物資の不足が原因だ。
そして、餅も二つ配給された。
甘い!美味い!!
これで明日も頑張れる。

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【1945年6月28日】 8:59
「夏だ!」と感じるほどの暑さ。
今日はサツマイモの苗が予定より早く到着するそうだ。午後は苗を植える作業になるだろう。

【1945年6月28日】 13:59
作業に来ている学校は二校だけ。いつもより少ない。自分達の苗は植え終わったので、他校の畑にも植えておいた。
日焼けした体が火照って痛い。

【1945年6月28日】 15:59
今日は体にこたえる暑さであった。サツマイモの苗はこの暑さの中、しっかりと育つだろうか。成長が楽しみである。

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【1945年6月29日】 7:59
雨天のため今日の作業は中止となり、学校で授業がある。実に8日ぶりだ!忘れ物の無いように行こう。

【1945年6月29日】 9:59
「武士気質」の中の伊達政宗の作戦の巧みさには、とても感心する。初めは相手を脅し、次には頼み込むというものだ。それとは反対に、相馬方の君主の卑怯さにはあきれる。
新井白石の文の巧みさには大変驚いた。

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【1945年6月30日】 7:29
昨日、岡山と山口付近で大空襲があった。ついに中国地方も攻撃の対象にされたということだ。
しかし、廣島が攻撃されなかったのはなぜだ?不気味で仕方がない。

【1945年6月30日】 8:00
今日から、今まで出動していた我々正規学級は作業を中止し、あとを科学学級に任せることになった。そのため、東練兵場に作業用の道具を返しにきた。今から電車に乗り、学校へ向かう。

【1945年6月30日】 8:19
登校中。車窓の向こうでは、雨がとても強く降っている。

【1945年6月30日】 15:59
友達と数学の代用教科書の製本をすることになった。また、この後学校の重要用品の疎開作業を行うそうだ。
昨日の岡山空襲といい、廣島はいつ攻撃されてもおかしくない。

【1945年6月30日】 16:29
小谷教官から発表があり、明日は特別に休日となった。
嬉しい!一同 狂喜!!!

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このプロジェクトの目的は、戦争の記憶が薄れつつある中、若い世代に被爆体験を継承し、戦争の時代の社会状況についてリアリティーをもって伝え、考えていただくことにあります。
「シュン」のモデルは、1945年当時、広島の中学1年生だった新井俊一郎さん(13)です。現代の広島の10代が新井さんの日記などを読み、その味わいを大事にしつつ、若者の感性を加味し、想像を膨らませて書いています。時間は日記などをもとに推定。必要に応じて注釈をつけます。