シュン

2020年06月26日(金)

「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文(1945年6月20~26日)

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もし75年前にSNSがあったら、当時の人はどんなことをつぶやいていたでしょう?

NHK広島放送局では、終戦の年(1945年)に書かれた日記をもとに、75年前の人の暮らしや気持ちをTwitterで発信中です。
https://twitter.com/nhk_1945shun
「シュン」のツイートは、新井俊一郎さん(当時13歳)が書いた日記などにもとづいて作成しています。
ここでは、ツイートのもとにしている日記の原文を掲載します。現在では適切でない表現などを含む場合もありますが、当時の社会状況を伝えるため、原文のまま掲載します。


6月20日(水) 晴
 一限の図画の時間には、仲教官が休んで居られるため自習であった。自分は一式陸攻の絵を書いた。その時、三木教官殿が呼びに来られた。何かと思って教官室に入った。用向きは、動員学徒に配給する笠屋で、出汐町に河野といふのはないか、と聞かれ、調べて来るやう命ぜられる。五限の漢文の時間に柳ヶ坪が「相模太郎」を朗唱する。自分はAマイナスである。
 警報発令。

6月21日(木) 晴
 本日の昼食時間に、上級生より訓戒がありたり。我等附中生の三年以下の者の中に、四年生を少しアナドってゐる傾向がある者が有るさうである。自分には、今までそんな事があったらうか。否、否、自分は科四の人たちは、特に辰巳さんは実に立派な人だと聞いてゐる。もう本日の様に、上級生よりの訓戒など受けぬやう、今までより一層張り切ってやらうではないか。

6月22日(金) 晴
 最近、敵機は六大都市以外の中小都市をも爆撃を行なひゐる。もう近く敵機は広島方面に大多数来襲するであらうと自分は思ってゐた。その矢先、遂に今日、敵約百五十機が広島に来襲せり。特に本日は我々は、東練兵場にて作業開始中であった。サイレンが突然、大空を震はした。警戒警報、続いて空襲警報。
 少し時間を置き、遂に敵大編隊が広島上空に侵入した。物凄い高射砲音、敵機の爆音と入り乱れて耳が痛いやうであった。我々は山の中に退避してゐた。幸ひ爆弾は投下せずに通過。これが五、六辺くり返された。
 のち、やっと解除。一息ついて昼食に移った。作業を開始後、間もなく又サイレン。帰宅。遂に本日は作業にならなかった。

6月23日(土) 雨
 朝は雨天のため、作業の有無が少し心配であったが、とにかく雨が降ってゐるので学校に登校せり。しかしやはり作業あるため、また広島駅に引き返せり。時刻は雨のため少し延びた。集合、朝礼、作業開始。後からボツボツやって来た。昼食後、また作業。こねた餅をいただく。甘くておいしい。それを捨てた者があった。けしからん。
 終了後、帰宅。明日も今日に同じ。正木君に会う。

6月24日(日) 晴
 中等学校になっても、まだ日曜日があり学校を休むことが出来る。そして家庭で勉強し、少し休むことが出来得る。何といふ有り難いことであろうか。それであるから、日曜日を有意義に使用しなければならないのである。それであるから自分は、本日は朝より畠に行って働いた。疎開跡の畠である。サツマイモやタウモロコシを植へたり。

6月25日(月) 晴
 本日より、二十九日まで作業が続く。一日でも早く仕上げると二十九日まではずーっと休みとなるさうである。そのため我々は、大いに張り切ってやった。久保田と矢田部は今日、ケンカをやった。どうして我が組は、こんなに仲が悪るいんでああろう。残念なことである。
 昼食後、作業開始。またもや警報。同時に敵機一機が飛行雲を引きて来襲する。
 帰宅後、畠に行きて手入れをせり。

6月26日(火) 晴
 本日もなかなか暑い。しかしながら我々附中作業隊は、この土地を一日でも早く耕すことが、少しでも早くお国のために尽くすことになるのである。
 サツマイモは飛行機の必要なる油になるのである。そして、外の学校より以上の成績を得なければ、附中作業隊、いや附属中学校の名折れである。少しでも立派なる芋をつくれるやう、よく土を耕し、よき成績をあげやうではないか。