一郎

2020年09月04日(金)

「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の新聞記者・大佐古一郎さんの日記原文(1945年9月5日~10日)

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もし75年前にSNSがあったら、当時の人はどんなことをつぶやいていたでしょう?

NHK広島放送局では、終戦の年(1945年)に広島で書かれた日記をもとに、75年前の人の暮らしや気持ちをTwitterで発信中です。
https://twitter.com/nhk_1945ichiro
広島の新聞記者「一郎」のツイートは、大佐古一郎さん(当時32歳)が1945年に書いた日記に加え、様々な資料や関係者へのインタビュー取材などをもとに作成しています。
ここでは、「一郎」のツイートのもとにしている日記の原文を掲載します。現在では適切でない表現を含む場合がありますが、当時の社会状況を伝える歴史資料として原文のまま掲載します。

9月5日(水) 先月末から降りつづいた雨がやっと上がり、夕方から快晴。
 都築教授が原子爆弾症について次のような発表をする。
「発熱、脱力、食欲不振、脱毛、下痢などの症状がある者は原子爆弾症(仮称〉である。爆心地から二キロ以内の居住者と被爆後五日以内に爆心付近で働いた人は症状がなくても健康診断を受けよ。被爆四週間を経た今日、広島市には直接体に悪影響をおよぼすような汚染は残っていないが、市内は負傷や病気の治療には向かぬ」
 私はきのう東洋工業の病院で白血球を計ってもらったら三千五百に増えていた。食事に注意を払っているのと、やけ酒を飲んだためかもしれない。発熱や下痢症状はもちろん、脱力感もなくなった。元気そうに見える社の橋本活版部次長や県の国民義勇隊事務局の石光君など、火傷や切り傷が治るどころかますます大きくなっている。原子爆弾症にかかっているに違いない。松浦教学課長は治療のため欠勤している。青崎国民学校で治療を受けている被爆者の中には、毎日のようにふたりから六人くらいが死んでいるそうだ。

お浄土はほんとうにあるの
9月8日(土) 高曇り、のち小雨。
 久しぶりに温品工場へ様子を見に行く。家族を失った痛手を押して黙々と働いている課長、作業の合い間に治療所をかけ回る営業部員、洗顔のたびに顔や頭からガラスの小片が出てくるという輪転部員、衰弱のために何度も卒倒しかけたという女子解版部員ら誰もあすの健康は保証されていない。こうした被爆者集団は三十数名の社員の中で半数近くを占めているが、みんなただひたすら休刊だけはすまいということを合い言葉に働きつづけている。
 写真部は横穴式防空壕を暗室にし、製版には窮余の策として天日を利用している。しかし出来上がりは真っ黒に近いもので、また雨天には製版できぬため写真のない紙面になる。沼田記者は給与班長になって三十名から五十名の給食に大わらわで、牛乳一升(一・八リットル)五円、米麦三十二名十日分三十一円五十六銭、ぶどう酒一升十円などと白損紙の上に書き込んでいる。田や畑の中に張ったテントの中へは二十センチ以上もある百足が何匹も入ってきたそうだ。
 寂しそうな山本康夫連絡部長が短歌に託した心境を見せてくれる。
  息絶えし子に正信偈誦すひまも町が燃え行く炎のひびき
  髪抜けて死に行く同僚相次ぐに死亡予定者の中なるわが名
  原爆の無惨書き継ぎて後の世に知らしめんわれの責果てるなし
 この歌で山本部長のひとり息子真澄君が死んだことを初めて知る。爆心地近くで広島一中生の建物疎開作業中に被爆したが、赤い裸体になったまま気丈にも段原町の自宅まで歩いて帰り、その夜のうちになくなった。死の直前父母に
「ほんとうにお浄土はあるの? そこには羊羹もある?」と尋ねたので、奥さんが
「ええ、ありますよ。羊羹でも何でも・・・・・・」と答えると、口の中で念仏をとなえていたが、それからは水ともいわず静かに息を引きとったそうだ。
 広実編集局長は三好君と同じように文人らしく書籍の灰の下で小さな白骨になっていたという。山田君は一〇四部隊から牛田の自宅に帰り、死と闘うこと二十五日ののち昇天した。また藤論説委員は東練兵場付近の収容された民家で翌日息絶えた。引地君は田舎へ逃げて闘病中だそうである。
 先月末からの雨でかなり増水している府中川のほとりをゆっくりと歩いて帰る。全身を震わせて一途に鳴いている虫の声を聞きながら、西から東へ流れる雨を含んだ積乱雲を見ると、ピカドンで死んだあの人たちは雲か虫に変身して何かを訴えているのではなかろうかという感傷的な想念に襲われる。
 しかしすぐ、軍閥のお先棒をかついで死を美化させた宗教家は、去勢された新聞人同様に許されてはならぬという心の叫びが、そうした思いを打ち消す。濁流の源が清らかな流れであるように、人間に死以上のものを与えて安心立命の喜びを得させようとするバイブルや仏教の聖典そのものは優れたものだろう。しかし、それが末流の戦争協力者によって、死は美化され他力本願や寛容、あきらめの滅私奉公の精神に変えられたのだ。広島五師団が常に全国の最強部隊として大陸や南方の困難な作戦に動員され、最高の戦死傷者を出してきたのも、移民最多県であることを示す家々の貧困にも原因はあるが、こうした安芸門徒的な宗教の温床が権力者への従順と奉仕を単純に受け入れさせたからである。徳川幕府の迫害に屈しなかったキリシタンや日蓮宗不受不施派のレジスタンスもこの戦争ではまったく跡を断ち、大日本宗教報国会に変身して「醜敵必滅」の声明を出して、軍閥に屈服迎合してしまった。
 米国原子爆弾災害調査団(団長ファーレル代将)一行十三人と万国赤十字社ジュノー博士らが神奈川県から飛来して宮島に宿泊する。

マ元帥、言論と新聞に関する方策を出す
9月10日(月) 曇り。夜、雨。午後三時ごろの気温三〇・四度。
 マ元帥が日本の管理方式について、まず言論と新聞にたいする根本方針を明らかにした。
「日本人は連合国との対等観を捨てなくてはならぬ。言論、新聞、宗教および集会の自由は占領軍の軍事的安全を維持するため制限される。事実に反したり治安を害する事項を掲載しないこと。日本の将来に関する論議は差支えないが、世界の平和愛好国の一員として再出発しようとする国家の努力に悪影響をおよぼすような論議を掲載しないこと。公表しない連合国軍隊の動静や連合国にたいする虚偽の批判または破壕的批判や流言を掲載しないこと」
 万国赤十字社代表のマルセル・ジュノー博士が高野知事に建築資材、食糧品、医薬品などの救援物資を送ることを約束する。竹内人事課長が
「ジュノーさんは中立国の利益を代表するスイス人だが、信仰から発した人間性豊かな気品のある紳士だ。広島救援のためには全力を出して奔走するといった。しかも話の間には"ウイル・ユー・プリーズ"や"サンキュー" のあとに"ベリー・マッチ" をかならず入れる。このように立派な人はアメリカ人にはいない」と話す。
 これからは英会話ができぬと仕事にならぬ。私たちは文法上正しい英語のスピーク・アウトはできてもヒヤリングがだめだ。とくにアメリカ英語でたたみ込んでこられると"プリーズ・ワンスモア" とか"スピーク・スローリー" を連発する。放送局の吉村君がいう。
「近くラジオで夕方に"実用英語会話"が放送されるからそれで勉強したら・・・・・・」
 戦時中、三呉沿線の板囲いのように、国民と海軍とは遮断されたため、連合艦隊はいまどこで何をしているのかと国民を深い謎に包んでいたわが水上艦隊勢力の詳細が発表される。開戦直後からの軍艦マーチは昭和十七年六月のミッドウェー海戦以後は葬送行進曲だったのだ。戦争指導者たちはこの事実から国民の目をおおい隠しながら、数多くの空疎なスローガンや激しい号令で国民を敗戦の泥沼へ駆り立てていったのである。