一郎

2020年08月28日(金)

「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の新聞記者・大佐古一郎さんの日記原文(1945年8月22~27日)

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もし75年前にSNSがあったら、当時の人はどんなことをつぶやいていたでしょう?

NHKでは、終戦の年(1945年)に広島で書かれた日記をもとに、75年前の人の暮らしや気持ちをTwitterで毎日発信中です。
https://twitter.com/nhk_1945ichiro
広島の新聞記者「一郎」のツイートは、大佐古一郎さん(当時32歳)が1945年に書いた日記に加え、様々な資料や関係者へのインタビュー取材などをもとに作成しています。
ここでは、「一郎」のツイートのもとにした日記の原文を掲載します。現在では適切でない表現を含む場合がありますが、当時の社会状況を伝える歴史資料として原文のまま掲載します。


天気予報三年八ヶ月ぶりに復活
8月22自(水) 快晴。
 きょうから気象台の天気予報が三年八ヶ月月ぶりに復活する。
 日の出、日の入り、潮の干満、月齢など自然の法則に偽りはない。私たちはまたそれらの事実をラジオや新聞の予報で知ることができる。永遠で神秘な自然に触れることによって、心の平穏と希望が得られることになった。自然の動きを予知することのありがたさ、これは確かに平和につながっている。朝の冷気を胸いっぱいに吸い込み、はーっと大きく吐いたあと、六日から休んでいた乾布摩擦を冷水で始める。だが体調には以前の爽快さがない。病気が治りきっていないのだろう。

8月23日(木) 快晴。気温三三度八分となり今夏最高を記録。
 下村定陸軍大将が陸軍大臣に発令される。児玉九一前東京都次長が中国地方総監として着任する。東洋工業に移転した県庁に同盟・中村、歌橋、大阪・石井、合同・杉田、毎日・重富の諸君やわが社の生き残り記者たちが次々と現れる。各人の消息は人づてには聞いていたが、顔を合わ
せると半年も疎遠の旧友にめぐり会ったような気がして、友情の笑みがお互いの顔面を走り、手を握り合う。
 中村編集部長は楽々園の下宿先で被爆した直後、黒い雨の降る中を己斐まで来たが、木造橋が焼け落ちていたので入市できず、山のふもと沿いに原村の放送所へ行き、岡山放送局を経由して同盟本社へ広島壊滅の第一報を入れたそうだ。その日の午後二葉山の第二総軍横穴陣地に行くと、井本参謀が
「くやしいよ。畑元帥は無事だったが、肩に裂傷を受けられた。宮様参謀は戦死、各参謀もほとんど重傷を負っている。何もかもわれわれ軍人の責任だ。みんなは恨んでいるだろうなあ」とかれの手を強く握った。他の参謀たちも「やられた。やられた」とはいうが「もうだめだ」とか「負けた」という言葉は使わなかったそうだ。
 重富君は爆心地に近い立町で被爆した。奥さんと家の中にいたため、ふたりとも大きな火傷は受けなかったが、頭の裂傷と顔の一部を反射光線で焼き全身が血みどろになった。ふたりは四時間かかって可部町にたどり着き、知り合いの岩谷警察署長に原稿を渡し、警察電話で島根回りで毎日本社へ送ってくれるよう頼み、同町の仁井旅館を臨時支局として傷の手当てをしたそうだ。
「立町町内会二百三十戸のうち生き残った者はおそらく私と妻のふたりだけだろうが、妻は翌日から体一面に赤紫の斑点が出て苦しんでいる。死の前兆だと思うが口には出せないよ」
「東大の都築博士と県の松永博士が奇蹟の人として私を何度も診察してくれたが、都築博士は"被爆すると体内の白血球が破壊される。あなたは被爆直後からトマトを多量に食べているのでビタミンCが適当に補給され、白血球の破壊を最小限に食い止めているらしい" といった」
 私の白血球は、どうなっているだろう。急に不安が襲いかかってきた。

英霊にわびる
8月24日(金) 晴れ、のち薄曇り。
 毎日新聞によると、米国では「広島、長崎は今後七十年間草木はもちろん、いっさいの生物の生息は不可能だ」と放送しているそうだ。
 広島県政協力会議が東洋工業内の仮議事堂で聞かれる。連合軍の進駐対策が議題だが、石原警察部長と栗山、山本、重山、高垣議員らとの間に激論の応酬がある。たったこの間までの県会や参事会は東方遙拝、黙禱、なんでも無修正可決、拍手、直会と翼賛議会の筋書き通りに運んでいたが、きょうはそれがガラリと変わっている。上意迎合の無風県会は県民の恐怖や不安を直接当局にぶっつけて詰問する下意上達の討論会場になったからだ。
 県会議員らはほんとうに県民の味方なのか、正義派だったのか、戦争責任を痛感し始めたのか、それとも個人主義者か、オポチュニストか。どこからあのおしゃべりや闘志が生まれてくるのだろう。・・・・・・そういう新聞人はいったい何だ。反省も贖罪もなしに保身に窮々としている私を含めて・・・・・・。私は名刺入れの中から日本新聞会が発行した登録記者証を取り出して破り捨てる。
 朝日が「英霊にわびる」というシリーズものを連載している。その中の吉川英治が書いた「慚愧の念で胸さく」を読み、新聞人の戦争責任についてとつおいつ考えつづけると、布団の上を三転五転して眠れない。

8月25日(土) 台風が接近したが広島をそれるらしい。高曇りから強い雨となる。六日以来の天水でカラカラの大地がうるおう。午後八時の風速十四メートル。
 敵の本土進駐が台風のため四十八時間遅れる。うわさによると敵はまず報道機関を接収し管理するだろうという。この接収説と山本社長のいう"中国村建設" とが、社の復興が遅々として進まぬまま、いまだに朝毎の代替発行に甘んじていることと重なり合って、社員を滅入らせている。写真部の吉岡君がいう。
「われわれの武器を取り上げたらやつらは何をしでかすかわからん。支那人が飢えて日本人が飽食できる訳はない。ピカドン(原子爆弾)を落とすくらいだ。日本民族の滅亡をたくらんでいるかもしれん」
 この意見は市民の間に根強くはびこっており、きのうは武田林務課長も同じことをいっていた。私の家の近所でも敗戦の日までは動じなかったのに、今度は本気で疎開を考えている人があったり、主婦や娘が田舎へ避難している例もある。妻も矢口へ行こうかと思案しているくらいだ。

8月27日(月) 曇り、ときどき雨。夕方、小枝が折れるほどの強風、風速十六メートル。
 逓信病院へ行き白血球の検査をしてもらう。学究らしい若い医師が顕微鏡から眼を離すと、私の被爆前後の行動や、下痢、発熱のあったことなどを聞いたあと
「赤血球数は四百五十万あって異常はないが、白血球がたりない。現在のところ二千七百だから健康な人の半分になっている。体を無理に使わないで、カルシウムやビタミンCを採るようにしなさい」といって、腕に小さな注射をうってくれる。
 私にはまだ脱毛や皮下に斑点が出るなどの徴候はない。しかし、ときどき脱力感におそわれて、自の前がぼーっと暗くなるようなことがあるのは、この白血球の変化からくるのだろう。最近、外傷のない人や六日に市内に入った人が、ぽっくり亡くなるという事実を見聞きするが、ひょっとすると、私もそのひとりになるのでは・・・・・・そう思うと自の前といっしょに心の中まで真っ暗に'なる。
 とぼとぼと上流川通りまで帰ると老女が焼け跡で声を出して泣いている。
「誰かが亡くなったんですか」と声をかけると、またひときわ声高く泣く。ああ、どうにでもしろ、私も慰められたいのに・・・・・・。
 夕方早く、酒を三合(〇・五四リットル)ほど飲んで寝床に入る。
 向かい左前の和田さん宅では重傷だった娘さんが快方に向いたからか、ほがらかな笑い戸が絶えないし、数軒離れた右前の中島家では死んだ孫娘のお通夜で甲高い鳴り物入りのお経が続く。