一郎

2020年07月31日(金)

「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の新聞記者・大佐古一郎さんの日記原文(1945年7月25~31日)

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もし75年前にSNSがあったら、当時の人はどんなことをつぶやいていたでしょう?
NHKでは、終戦の年(1945年)に広島で書かれた日記をもとに、75年前の人の暮らしや気持ちをTwitterで毎日発信中です。
中国新聞記者・大佐古一郎さん(当時32歳)の75年前の今日は、どんな日だったのでしょう?
https://twitter.com/nhk_1945ichiro

毎日のツイートは、広島ゆかりの人たちが日記をもとに想像を膨らませ、今の人に伝わりやすい言葉にしています。
このブログでは、もとになった大佐古さんの日記の原文をご紹介。
ツイートにあわせて更新しています。
75年前の生の言葉を、ツイートにあわせて読んでみると興味深いですよ。
公式HP 
https://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibaku75/timeline/

 

7月25日(水) 薄曇り。夜にわか雨。
きのうから名古屋、桑名、和歌山、大阪、神戸、姫路方面へ敵機の波状攻撃が続いている。B29約六百機がP51など千四百機と呼応して大挙来襲し、主として航空基地をねらっているもよう。沖縄作戦を終えた敵はその全力を挙げて本土へ殺到してきた。上陸の前奏だろうか。

7月26日(木) 朝にわか雨、午後快晴。
 きのうはB29二機が伊予灘に機雷を投下したほか、艦上機を主とした小型機約二十五機が広島湾内の艦船を爆撃する。損害は死傷者十一人、建物全半壊四だそうである。きょう広島県では山県郡戸河内町と佐伯郡浅原村に約二万枚の宣伝ビラが落ちる。
 徳山市が二度目の空襲を受け海軍貯炭所、燃料廠や町の大半がやられる。社の徳山支社も焼失。
 きょうの配給はだいこんが一人二銭ずつで、あとは満州から送られた大豆が野菜の代わり。このところ大豆や玉蜀黍の配給が多く、役所でも社でも腹をこわして便所へ何度も通う人が多くなった。袋町国民学校に疎開している衛生課の喜多島課長は次のように話す。
「大豆、玉蜀黍はひきうすかコーヒーひき器で粉にして食べたほうがよい。腹をこわしても下痢止めだけでは治らぬ。ビタミンCが不足しているのだから、だいこんや南瓜の葉を木の棒でたたき、その汁をしぼって飲むとよい」
 政府はどんぐりを主要食糧の戦列に加え、今年中に五百万石(七五万トン)以上を確保するという。胃腸の弱い者は戦う前に倒れてしまうかもしれない。

7月28日(土) 薄曇り、のち晴れ。
 チューリヒ二十六日発同盟によると、米大統領トルーマン、英首相チャーチルと蔣介石はポツダムから連名で次の「日本に課すべき降伏の最後条件」なるものを放送したそうだ。
 以下の各条項はわれわれの課すべき降伏の条件である。われわれはこの条件を固守するもので、他に選択の余地はない。われわれは今や猶予することはない。
 一、世界征服を企てた者の権威と勢力は永久に抹殺されること、軍国主義を駆逐すること。
 一、日本領土中、連合国により指定せられる地点はわれわれの目的達成確保のため占領せられること。
 一、カイロ宣言の条項は実施せられ、日本の主権は本州、北海道、九州、四国とわれわれの決定する小島に限定されること。
 一、日本の兵力は完全に武装解除されること。
 一、戦争犯罪人は裁判されること、日本政府は日本国民に民主主義的傾向を復活すること、日本政府は言論、宗教および思想の自由と基本的人権の尊重を確立すべきこと。
 一、日本に留保を許される産業は日本の経済を維持し、かつ物による賠償を支払い得させるものに限られ、戦争のための再軍備を可能にさせるような産業は許さぬこと、世界貿易関係に対する日本の参加はいずれ許さるべきこと。
 一、連合国の占領兵力は以上の目的が達成され、かつ日本国民の自由に表明された意思に基づく平和的傾向をもつ責任政府の樹立を見た場合は撤退すること。
 一、日本政府は即刻、全日本兵力の無条件降伏に署名をし、かつ適切な保証をすること。そうでない場合は直ちに徹底的破壊をもたらすこと。
 政府は「この三国の最終的条件の提示を、多分に宣伝と謀略的意図を含むものとして、なんら重大な価値を認めない。従ってこれは黙殺し断固として戦争を完遂する」という方針を、情報局から指導記事用として発表する。また鈴木首相は記者団と会見して「三国声明はカイロ宣言の焼き直しで価値がない。昨年から着手した地下工場は、目下決戦兵器を月産千機単位で順調に生産している。最低の食生活は維持しているので最善の作戦が遂行できる」と言明する。国民はポツダム会談を中心とする敵の外交攻勢について、わが最高指導者の本心を聞きたがっているが、それはない。
 午前六時半ごろから午後四時半ごろにかけて、敵の艦上機延べ約九百五十機、B29、B24の大型機延べ約百十機が広島県下に来襲、主として呉市、呉軍港、江田島、因島、御調郡の艦船や軍事施設、重要工場を銃爆撃し、宣伝ビラ約六万枚をまく。死者六十、重傷三十八、軽傷七十二、行方不明四人、家屋全半壊四百二十、同全半焼二十六戸、山林火災一ヵ所、被災者千五百九十四人。敵機撃墜九、同撃破四機。
 十時ごろ、あちこちの高射砲陣地がさかんに火を噴き始める。県庁にいた私はすぐ屋上の対空監視哨の下まで上がる。高度は五、六千メートルもあろうか、南寄りの上空をコンソリデーテッドB24二機がゆうゆうと西進している。その前後左右に数十発の高射砲弾が炸裂して白い弾幕を作っているが、高度が違うのか命中しそうにもない。
 このあいだの夜は来襲したB29少数機の機影を求めて、二十数本のサーチライトがいたずらに光芒を広島上空に乱舞させたが、この真っ昼間、B24は鮮やかに肉眼で見える。あんなに撃って弾がなくなりはしないかと思うほど、地上火器はよく撃つ。当たらぬのがはがゆい。
 そのとき突然一機の右翼が付け根から折れて横へ飛び散った。機体が急角度で下へ突っ込む。地上のあちこちでワーッという歓声が上がる。観音町上空辺りから五日市上空へかかろうとしていたときだ。私ひとりが壕から出て見ているものと思っていたが、そうではない。B24の進路をそれている県庁付近の人々はみな友軍の対空砲火を見ていたのだ。きりもみ状態で落ちる機体からふたつのパラシュートが飛び出した。五日市の付近だろう。たった一機ではあるが、初めて見る敵機撃墜に、私の胸のつかえは一気に取り除かれたような気がする。ラジオの情報は後続する敵機があると伝えている。しかしその後の広島市上空はなにごともない。
 佐伯郡八幡村に降下したふたりの米兵は警防団員に捕えられたが、トラックで駆けつけた中国第一〇四部隊の兵に引き渡され、広島で中国憲兵隊に捕虜として抑留された。サイドカーで降下現場へ行った沼田記者の話によると「航空兵は青い作業服の二十歳と二十六、七歳ぐらいの頭髪が兵隊刈りの若者だったが、戦争は“アメリカが必ず勝つと思う”といった」そうである。

7月29日(日) 高曇り。
 正午すぎ、B29約二十機、B24約三十機とF6F、F4Fなどの小型戦闘機六十機がまたまた呉付近と警固屋沖合、豊浜に来襲する。地上施設と船舶を攻撃したもようだが、被害は報告がなく不明。

7月31日(火) 晴れ。
 午後八時ごろ、総監府からの口頭命令が県の特高課を通じて本社の築藤業務局長に伝達される。内容は「八月一日付から呉新聞の題号を中国新聞に変えて読者に配布せよ」というのである。呉新聞は呉鎮守府からの要請で、記事内容は中国新聞とほとんど同様のものを発行している中国新聞の子会社だった。新聞統合のあらしにも耐え抜き、軍港都の新聞として幾多の曲折を経てきたが、呉の被災以後は発行部数も激減して有名無実の存在だっただけに、休刊は当然だろう。
 妻が食べたものを吐く。つわりらしい。去年の暮れもこれと同じような症状があった。
食物を受けつけぬのだから寝ていて体力の消耗を防ぐ以外に手がない。義姉がいるので今回は安心して出社できる。