一郎

2020年05月01日(金)

日記の原文(大佐古一郎さん)。75年前のご本人の生の言葉にふれてみてください!1945年4月25日~5月1日

4月25日(水) 薄曇り。
 天満橋西詰め一帯が強制疎開地に指定され、今週中に立ち退くよう市から通達が出る。橋のたもとの角地にある妻の実家は、老人と女子供七人の大家族で義姉は呆然としている。呉へ応徴中の義兄が休暇をとって急遽帰り、家族と家財を差し当たって矢口、観音と私の家など三カ所の親戚へ分散疎開することにする。
 私の家へは実家に同居中の畠山の義姉がくる。義姉は未亡人でひとり息子は阪大工学部に在学して下松の東洋鋼鈑へ学徒動員で行っている。
  春尽きて家族離散の疎開かな

4月27日(金) 快晴、のち晴れ。
 新任の大塚広島県知事が午前八時十八分広島駅に着く。今回は箱乗りができなかったため駅頭が初対面である。六十二歳の健康そうな痩身を国民服に包み、胸の勲一等の略綬と長靴が決戦下の指揮官らしい。九時半から県庁の長官室でクラブの全員と会見して「戦時行政の要点は時だ。一瞬間の前と後とがどのように変わるかは、東京空襲でじゅうぶん体験したことだ……」と語る。
 牛田へ疎開した姪が湿性肋膜で床についているというので見舞う。果物を欲しがっているが最近は自由販売もない。

4月28日(土) 晴れ、ときどき薄曇り。
 新聞の持ち分合同で広島県下と山口県の東部は、わが社の独壇場になった。今までのような他社との競争意識は消えて書く記事はみな独占特だねということになる。しかし、安易な陶酔に浸ってはおられない。政府が地方紙を存続強化する理由のひとつには、地方紙の長所を生かし、地方民の翼賛的な力を紙面に躍動させることにある。第二総軍とともに行政協議会や軍管区が中央集権から脱却して、独自の動きをしようとしているとき、その地元紙の使命は中央紙とまったく差はない。クラブの中央紙や他府県紙の記者が、情報収集の活動以外のことをしなくなったからには、記事を交換し合うようなイージーな取材はできなくなった。農業会と経済第一部を中心に動く佐伯君と行協、県政全般を担当する私の力の限度もしれている。私たちの足をいままでの倍も使ったところで、期待されるような紙面はできないだろう。
 以上のことを朝の研究会で話したが、夕方にはさっそく反応がある。藤坂さんが肩をたたいた。「安芸津から増岡君を呼び戻して君のほうへ回す。もうしばらく我慢していてくれ」

ムッソリーニ処刑さる
4月29日(日) 晴れ。大東亜戦争下四度目の天長節。
 中国軍需監理部次長原乙未生陸軍中将(部長は大塚知事)が着任し「勝機をつかむ時、質、量を忘れるな。まず翼を作れ」と語る。
 イタリアのムッソリーニ総統はきのうコモ湖畔で国民義勇軍に逮捕、処刑されたそうだ。
 米誌『タイム』四月二十三日号の報道によると、ニミッツはレイテ作戦依頼、米国民が憶測していた日本軍の秘密を明らかにした。命知らずのカミカゼ特攻隊によって受けた米艦隊の損害は今まで隠されていた。いまのところカミカゼの編成も組織もわかっていない。使用する飛行機は古物ではなく、大部分は最新鋭である。米艦隊の将校の告白によるとカミカゼの攻撃を受けたときは髪が逆立つ思いだったという。

4月30日(月) 快晴。午後二時ごろの気温二三度五分。
 防衛当直明けの早朝である。空襲警報が発令されたので、私たち当直員のうち六人は社の防衛本部になっている一階の元業務局長室に集合して炭火を囲んでいた。ラジオ情報は敵の大型機が日本海から反転して島根県を南進中といい、間もなくその一機が海田上空を経て南方へ退去したと伝えたかと思うと、また一機が広島上空に近づいていることを知らせる。後続機がいないようなのでみんな安心し「巻き取り紙のくずにくるまって寝ると、ガサガサ音はするが、暖かいので布団以上だ」などと話し合っていた。突如、社の上空でシュル、シュル、シュル……と花火の燃えるような音がしたかと思うと、南の方からドーンと大地を揺るがすような爆発音が響いてきた。六時四十五分だ。敵の後続機はないといっていたので、急いで三階の屋上へかけ上がる。
 南西の市役所付近から大きな土煙がもうもうと立ち昇り、それが南方へ流れている。あの辺りは自宅に近いのではないかと思うと胸がドキンとする。中国配電(現在の中国電力)付近から火の手が上がり火勢はだんだん強くなるもよう。私は横山司令に「これから報道挺身隊の仕事で現場へ行く」と一言して自転車を飛ばす。
 中配裏手に落とされた爆弾は倉庫や民家を吹き飛ばし幅十数メートルの大穴を開けている。消防車や町内の防衛隊、それに弥次馬も出て右往左往しているが、思ったほどの被害はない。火災の延焼を防ぎ止め三十分後には鎮火した。県と市の防空本部で調べた結果、投下爆弾は十個、死者十名、重軽傷十六名、建物全壊十四戸、半壊十五戸、全半焼十戸、被災者約二百名だった。十一時、無傷のわが家に帰り朝飯と昼飯をいっしょにとる。

ヒトラー自決す
5月1日(火) 雨、のち曇り。午後、強い南南東の風吹く。
 朝の研究会で「敵国の内情をもっと知ろう」という私の提案が入れられて、けさは地方班整理部の沼田記者が「アメリカ雑誌の動向」につてい三十分ほど話してくれた。同記者は岡山の加藤支局長とともにアメリカからの引揚者で、在米二十三年間に「羅府日報」「産業日報」の記者をしていた。
 増岡君の本社勤務発令。
 ヒトラー総統が三十日、ベルリンの地下壕で自殺、後継者はデーニッツという急電が入る。