舞台裏日記

2020年09月20日(日)

終戦直後の広島を襲ったもう一つの惨禍「枕崎台風」

 原爆投下から1か月あまりの1945年(昭和20年)9月17日の夜、焼け野原となった広島市を、今度は超大型の台風が襲いました。「昭和の三大台風」の一つとして観測史上にも残る「枕崎台風」です。この台風の来襲が、復興に向けて立ち上がろうとしていた被爆直後の広島の人たちに追い打ちをかけたことについては、あまり知られていません。

 1945年9月17~19日の「一郎」「やすこ」「シュン」の日記にも台風の様子が記載されていますが、このブログでは、3人の日記では描かれなかった被害の全容を記します。

 9月17日午後2時頃、台風は薩摩半島の枕崎に上陸。広島市に最も接近したのは、午後10時40分頃でした。広島では最大瞬間風速45.3m/s、降り始めからの雨量は218.7mm。広島市内中心部を流れる太田川では、堤防が決壊し、市の周辺部も含め、低地のほぼ全域が浸水しました。原爆で壊滅した市中心部では、気象台の観測や通報体制も十分に回復しておらず、防災・警戒対策はないに等しいものでした。人々はラジオからの情報を聞くこともできず、事前に台風に備えることができず、被害を一層大きなものにしたと言われています。被爆者達が身を寄せ合って暮らしていたバラックや防空壕にも水が押しよせ、山沿いの集落は土石流に襲われ、広島県内で2012人が犠牲となりました。

 後に広島市長となった浜井信三は、このときの心情を振り返り、次のように記しています。
「市役所の屋上から市中を見渡すと、全市が湖になっていた。瓦礫や倒れた家、ガラクタがすべて水の底にかくれ、一見美しい眺めであった。“原爆砂漠”が一夜にして、“原爆湖水”に変わっている。――これで一切合財が、徹底的に葬り去られた。私はヤケッパチな気持で、いっそこの水がこのまま永久に引かなければよい、と思った。」

 記者の大佐古一郎さんが勤めていた中国新聞社も、広島市郊外の温品工場で、ようやく新聞の自社発行がかなった矢先に工場が浸水。温品から広島市に通ずる唯一の橋も流出し、再び、新聞製作ができなくなりました。

 今井泰子さんの暮らしていた広島市郊外の緑井村でも、付近の川の堤防が決壊し浸水の被害が出ました。夫の次雄(つぐお)さんは、そんな中を帰ってきたのです。

 広島県の西部、宮島対岸の佐伯郡大野町(現在の廿日市市)にあった大野陸軍病院には、原爆で負傷した多くの患者が入院し、軍から要請を受けた京都大学原爆調査班が、被爆者の調査と対策の研究のために滞在していました。しかし、台風による土石流が建物を飲み込み、入院患者や京大研究班を含む180人近くが亡くなりました。原爆を生き延びた人々、そして、原爆被害を解明しようとした研究者たちの命も失われたのです。

 広島県で戦後最大の自然災害となった「枕崎台風」。土石流や洪水の被害が甚大となった背景には、戦争の激化で、山林の整備や、治水事業がストップしていたこともあると言われています。昭和初期から計画されていた太田川の治水事業は、戦時中、工事を中断していましたが、この台風で大きな洪水被害をもたらし、それがきっかけともなり、1951年(昭和26年)に工事が再開。1967年(昭和42年)に太田川放水路が完成しました。


【参考】
広島県土木建築部砂防課『広島県砂防災害史』1997
藤吉 洋一郎/監修, NHK 情報ネットワーク/[ほか]編『NHK20 世紀日本大災害の記録』日本放送出版協会,2002
柳田 邦男『空白の天気図:核と災害 1945・8・6/9・17』文芸春秋,2011
浜井信三『原爆市長』朝日新聞社,1967