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2020年04月03日(金)

今日までの一郎(1945年10月)

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地元・広島の中国新聞社・記者として、県庁の記者クラブに所属し、記事を書く一郎さん。戦時下でも、お正月の頃には、夫婦で映画を見たり、頻繁に趣味の俳句をたしなんだり、まだ少しゆとりがあったようでした。

しかし、5月になると、戦局は悪化。ヒトラーが自殺し、同盟国ドイツが降伏すると、日本はいよいよ追い詰められていきます。
一郎さんは、趣味だった俳句も詠む気になれなくなりました。沖縄では熾烈な地上戦が展開され、全国の各都市への空襲もどんどん激しくなった6月、一郎さんは、広島市中心部から郊外の府中町に妻と義姉と共に疎開することに決めました。

その頃の新聞紙面の一面は、軍が発表する、日本が優勢かのような威勢の良い記事ばかり。国民が一致団結して「一億総力戦」で立ち向かえと唱えます。一方、生活情報が掲載される二面には、「どんぐりが主食」、「航空燃料を調達するためさつまいもを増産」、そして、「尿から塩を作る方法」など、、、国民生活がいよいよ厳しくなっている様子がうかがえる記事ばかり。

一郎さんは、日本勝利のために記者として貢献しようとしてきましたが、岡山や呉が大規模な空襲を受け、その惨劇を目の当たりにする中で、疑念を抱くようになっていました。
日本は負けるのか、ここままで良いのか・・・。

原爆投下の前日となる8月5日、広島市中心部の新聞社に当直で泊まっていた一郎さん。翌朝、郊外の自宅に戻った直後に、原爆が炸裂しました。幸い大きな怪我は負わなかった一郎さんは、何が起きたのか、すぐさま市街地に取材に向かいます。そこで、広島の惨状を次々と目の当たりにすることになりました。

「廣島全滅・・・。」
それが、一郎さんが広島の町を目にしたときの実感でした。

その後、8月9日には長崎にも原爆が投下され、8月15日、長かった戦争が終わりました。

一郎さんの務める新聞社も壊滅的な被害を受け、多くの同僚達も亡くなりました。一郎さんは、原爆症の不安を抱えながらも、焦土となった町で、記者として、取材を続けます。

9月、日本にGHQが進駐してくると、社会の価値観は一変。次々と戦争の実態が明らかになる中で、一郎さんは、「戦争」とは、「原爆」とは何だったのか、問い続けます。