NHK広島 核・平和特集

原爆は 国籍や民族の区別なくあらゆる人々を襲った 【その③ 朝鮮半島にルーツをもつ被爆者 朴南珠さん】

2020年12月25日(金)

NHK広島放送局では、被爆75年のプロジェクトとして、原爆投下・終戦の年(1945年)の日記をもとに、当時の社会状況や人々の暮らしを、「シュン」「やすこ」「一郎」の3つのTwitterアカウントで発信してきました。このブログでは、3人の日記には記されていない「空白」をさまざまな証言や情報で埋め、多角的に広島を描きます。
原爆は、国籍や民族の区別なく、あらゆる人々を襲いました。当時の広島市は日本有数の軍都。市内には、朝鮮半島出身の多くの人々をはじめ、台湾や中国大陸の人たち、ドイツ人神父、亡命していたロシア人家族、東南アジアからの留学生などが住み、原爆の犠牲になりました。市内にいたアメリカ兵捕虜も亡くなりました。
今回は朝鮮半島にルーツを持つ被爆者の女性に話を伺いました。

被爆した女性 朴南珠(パク・ナムジュ)さん

1910年の韓国併合によって日本による統治が始まった後、働き口を求めて日本本土に移住する人々やその家族などが増えました。日中戦争が長引いて労働力不足が深刻化した際に、軍需工場や炭鉱などに動員された人々もいました。当時の広島は日本有数の軍都で、労働力として、多くの朝鮮半島出身者が住んでいました(1944年内務省の調べでは広島県全体で8万1863人。広島市の居住者数は不明)。
当時、朝鮮半島出身の人々はどんな思いで暮らしていたのか。12歳で被爆した在日韓国人2世の朴南珠(パク・ナムジュ)さん(88歳)にお話を聞きました

朴さんの父親は、先に日本本土に来ていた親戚に誘われて1929年に朝鮮半島から広島に移り住み、その後、妻を呼び寄せました。朴さんは1932年に広島で生まれました。広島市内の福島町で育った朴さん。子どもの頃、学校で勉強するのが大好きでした。

朴さん「朝鮮人は勉強ができんとか、意地悪な子はわざとそういう言葉を言ったりした。私は一生懸命勉強するほうで、言い返しよった。『勉強できんのにおおもんたれるな(※広島弁で嘘をつくなの意)』ってね。」「ただね、学校の先生がすごくよくしてくれた。先生にある日、学校にあったピアノの鍵盤に触らせてもらって。この子は一生こんなピアノに触ることはないだろうなという気持ちで触らせてくれて。いつも忘れられないんよ。先生の名前までね。」

朴さんはもっと勉強したいと女学校に進学することを夢見ていましたが…

朴さん「当時、朝鮮の子は女学校へあまり行かなかったからね、親は反対する。経済的にゆとりがないから勉強ができない子が多いんよね。女学校というと、勉強ができないといけないでしょ。『朝鮮人のくせに女学校?』と言われたぐらいだから。」

それでも、朴さんは意志を曲げずに女学校を受験。無事、進徳高等女学校(現在の進徳女子高)に合格しました.

朴さん「合格したらね、お父さんがすごい喜んだ。すぐに闇市でね、ズックを買って。どこへ頼んだんか知らんけど、制服もちゃんと買って。うれしかった。入学式にもお父さんがついてきてくれて。あとにも先にも、父が入学式に子どもの学校へ行ったのは初めて。」

念願の女学校に進学したものの、授業は満足に行われず、食糧増産のための農作業や建物疎開の手伝いをさせられる日々が続きました(注:「建物疎開」とは、空襲による火災の延焼を防ぐために、建物を取り壊して空間をつくる作業のこと)。そんななか、建物疎開の手伝いをしていた1945年7月20日に、木の破片が飛んできて額を5針縫うけがをします。治療のため、学校を休むことになった朴さん。このけがが大きく運命を変えました。
8月6日もけがのため学校を休んでいた朴さんは、疎開先の廿日市の親戚の家に路面電車で弟と妹を連れていこうとしていました。

朴さん「爆心地から1800mあたりの福島という電停から電車に乗って20~30mぐらいのところで、『やあB29が飛んどら』って声がした。『なぜ?』という気持ちと同時に、かすかに爆音を耳にしたようなんです。『なぜ爆音?』という思いのなかで、ぴかっと光ったかと思うと、真っ黒い煙が電車を覆い尽くしました。」

何が起こったかわからないまま自宅に帰ろうと川の堤防にあがったとき、衝撃的な光景を目にします。

朴さん「ともかくがれきの山。広島がなくなっている。本当に驚いた。たまげた。言葉も出ないし、頭のてっぺんから爪の先まで、血が全部流れて落ちたように血の気が引いた。怖かった本当に。家から出て10分ぐらいの間にあの惨劇。考えられんよね。涙も出ん。いまだにそれを思い出すと涙が出る。」

その後、無事、両親には再会できましたが、自宅は全壊していたため、しばらく堤防で過ごすことになりました。堤防には大やけどを負った人がどんどんと押し寄せてきます。朴さんはけがをした人々が亡くなっていくのを間近で見ながら、2~3日堤防の上で過ごしました。

朴さん「やけどをした人たちの肌は8月6日は真っ赤だったのが、7日になると色が変わって膨れているんよ。救援隊の人が堤防の下へ焼き場をつくって、どんどん焼いていった。焼いたあとは、拾った瓦へ名札の名前と血液型を書いて何百個と置いていたけど、誰一人として探しに来る人はいないよね。8日にはかわいそうで見られん。もう目の玉がはじけて飛び出てね、唇ははじけるような。体はもう真っ黒になって、牛みたいな形になって。もう手が触られんような状態じゃけん、火のつくっているところへそのまま落とすようにして焼いて。」

その後、朴さんは自宅があった場所に廃材を集めてバラック小屋を作り、家族で住み始めました。そして8月15日。終戦を告げる玉音放送は、近所のラジオから聞こえてきたそうです。

朴さん「戦争が終わったと聞いたときは、すごくうれしかった。恐ろしいB29が飛んでこんと思うたらすごいうれしかった。それと同時に、アジアの共栄圏をつくるための、正義の戦争に負けたというのは悲しかったです。これは当時の私たちがそういう教育を受けとるけえね。」

日本の学校で軍国教育を受けていた12歳の朴さんは、「戦争はアジア諸国を解放し日本がリーダーとなって共栄圏を作るための正義の戦いだ」と信じ込んでいました。一方、父親は違った反応をしていたそうです。

朴さん「父は『ヘイバン』言うて喜んでいた。ヘイバンというのは、漢字で解放と書く。『ヘイバンになった』って。ちょっと悲しそうでなかった。やっぱりなんか抑圧されたものがあったんでしょうね。」

戦争が終わると朝鮮半島に帰る知り合いも多かったそうですが、朴さん一家は広島に残ることを決めます。母親の兄である伯父が原爆で行方不明になったきり帰ってこず、母親が「兄を置いて帰れない、故郷の母親に顔向けができない」と訴えたからです。伯父は8月6日に日本銀行広島支店(爆心地から約500m)ちかくで作業をしていました。75年たった今も伯父の消息はわからないそうです。

終戦から1年後、集落の集会所でハングルを教える教室が開かれるようになりました。それまでほとんどハングルがわからなかった朴さんは、初めて朝鮮半島の言葉や歴史を学びました。

朴さん「それまでは絶対日本人になりたかったけど、学んでみたら自分の祖国というのは朝鮮・韓国だという気持ちが生まれました。」

その後、朴さんは韓国から日本に留学にきた男性と19歳で結婚。広島市内で養豚業で生計を立てながら、子どもを育てあげました。日韓の国交が正常化した際、韓国にある夫の実家に訪ねたことがあるといいます。

朴さん「すごくいい待遇をしてくれるんですがね、5日いたら広島に帰りたくて帰りたくてたまらなくなった。そして、城北通り(広島の通りの名前)をタクシーで帰るとき、なんと上品できれいな街なんかと涙が出るほどうれしかった。広島を見て、人も原爆に負けないぐらいたくましいと思った。」

朴さんは原爆の悲惨さとそれを乗り越えた広島のたくましさを伝えるため、今も修学旅行で広島にくる学生などにむけて被爆証言を続けています。

参考文献)
田村紀之「内務省警保局調査による朝鮮人人口」『経済と経済学 46号』東京都立大学経済学部 1981