NHK広島 核・平和特集

8月6日のやすこさん、こぼれ話。

2020年12月25日(金)

 NHK広島放送局では、被爆75年のプロジェクトとして、原爆投下・終戦の年(1945年)の日記をもとに、当時の社会状況や人々の暮らしを、「シュン」「やすこ」「一郎」の3つのTwitterアカウントで発信してきました。

このブログでは「やすこ」の8月6日のツイートを作ったときの裏話を少しお伝えします。

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「やすこさん」のもとになった日記を書いた今井泰子さん。
彼女は、子どもの頃から日記を書き続けていました。
その文章からは、身近な風景のなかに隠れた「美しさ」を敏感に感じ取る豊かな感受性が読み取れます。

例えば、8月4日のツイート。
TW_yasuko0804.pngのサムネイル画像

このツイートのもとになった8月4日の日記はこちらです。

「四時に起き梅林へ切符を買いに行った。夜明けのすがすがしい空気を快く感じながら月見草の続いている道を歩いてゆくのは楽しかった。だんだん空が明るくなって月が消え星が消え、東の方が美しく紅色に染まって、大きな太陽が上がり初め、七時に切符を買って帰るころにはもう赫赫と照りつける日ざしに汗ばむ位だった。」

日記をもとにツイートを作っているのは、広島に住む3人の女性です。
泰子さんは子供の頃から戦後にかけても日記を書き続けていました。
泰子さんは生前に日記が公開されることを了承され、ご遺族や関係者の許可を得て今回の企画で泰子さんの日記を使用させていただいています。
メンバーは泰子さんを知る方に取材を重ねたり、1945年以前の泰子さんの日記を読み込んだりして、可能な限り「今井泰子さん」に近づきながら「やすこさん」の投稿を作ってきました。
ツイートでは日記で書かれていない内容を発信することもありますが、そうした取材や泰子さんと当時同居していた方が後年書かれた手記がベースになっています。
こうした過程のなかで3人は泰子さんの性格や考え方へ理解を深め、「やすこさん」はまるで友達のように身近な存在になっていきました。
8月4日の日記からはそんな泰子さんらしい瑞々しい感受性が伝わってくると考え、ツイートはできるだけ原文を忠実に反映しました。

こんなに感受性が豊かな泰子さんですが、8月6日疎開していた病院(現在の広島市安佐南区緑井・爆心地から約10km)に負傷者が押し寄せ、救護の最前線に突然立たされることになります。

その光景を見た泰子さんは何を感じたのか。
医療的な知識がほとんどないなか、自分が人の命を左右する立場に突然立たされた泰子さんはどう行動したのか。

泰子さんの存在を身近に感じていたメンバーだけに、8月6日のやすこさんの心や行動を想像し日記からツイートを作るのはとても辛い作業でした。
どんなつぶやきを作成したらツイッターを見ている方に8月6日の泰子さんを伝えられるのか、1か月ちかく議論を重ねてきました。
このようにツイートを作成するなかで、議論になった点が1つあります。
「病院に押し寄せた被爆者への泰子さんの反応をどう表現するのか」ということです。

ひどい火傷を負ったけが人について、やすこさんは日記のある部分でこのように描写しています。
「酷い」「全く目もあてられない」

時間をかけて泰子さんへの理解を深めてきたメンバーは、この直接的な描写から、「あのやすこさんがこうした言葉を使わないといけないくらいむごくひどい状況だったんだろう」と泰子さんが巻き込まれた状況をリアルに想像しました。
この直接的な言葉の重みをできるだけツイートにも活かしたいと考えましたが、こうした言葉を使うことでツイートを読んだ人に「やすこさんは何故そんな直接的な言葉をけが人に言えるのだろう」と誤解されてしまうのではというリスクも生まれます。

メンバーで議論を重ねた結果、たとえ直接的であってもできるだけ原文に忠実に泰子さんの表現をツイートに反映することにしました。
自分たちが故意的に泰子さんの表現をマイルドにしてしまうことで、泰子さんの壮絶な体験が矮小化されて伝わってしまうことを避けたいと考えたためです。

こうした議論があったことを、生前の泰子さんを知る方に伝えたところ後年のエピソードを教えていただきました。

原爆投下から10年ほどたった暑い夏の日、その方は泰子さんと広島市内中心部に出かけたそうです。
街中の人混みのなか、泰子さんは見知らぬ女性に近付き、お辞儀をしながら、話しかけました。
その女性は季節外れの長袖を着て、ネッカチーフをしていました。
2人で何かを話し合ったあと、女性はネッカチーフをほどき、袖をめくって傷跡を見せたそうです。
当時の広島には、原爆による傷が残った人が今よりもずっと多くいました。
女性の服装から気づいた泰子さんは声をかけ、その女性から原爆のときの体験を聞き質問をしていました。
一緒にいた方はハラハラするような気持ちで見ていましたが、2人の間に何か共有しているものを感じたそうです。泰子さんから「あなたも一緒に拝見なさいませんか?」と声をかけられ、その方も女性の傷を見せてもらったといいます。

泰子さんの8月8日の日記には、「罹災者を学校へ運び、午後は大掃除をして、方々漸く元通りとはゆかないがどうやら片がついた。」と病院から怪我人を近くの学校に移送し救護の手伝いを終えたことが短く書かれています。
泰子さんは、満足な治療も出来ず学校へ運ばれていった傷ついた人々を、どんな思いで見送ったのでしょうか。街中で見知らぬ人に声をかけた思いがけない行為に、その心中が忍ばれます。

泰子さんはその後の人生をかけて、8月6日に見た傷ついた人々の記憶と向き合っていきました。