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相模原障害者施設殺傷事件 第5回 高谷清さんインタビュー

2016年09月12日(月)

 

Webライターの木下です。
今回は、“重症心身障害児者”いわゆる“重症児者”の診療をする小児科医の高谷清さんにお話をうかがいました。高谷さんは、滋賀県のびわこ学園に長年勤務し、“支える医療”の担い手として治療に当たる一方、『はだかのいのち~障害児のこころ、人間のこころ~』『支子~障害児と家族の生~』など、重症児者との触れ合いを描いた著作を数多く発表してきました。当事者とともにご家族とも親密に交流を重ねてきた高谷さんに、今回の事件に関連して、重症児者との心のつながりについてお話しいただきました。

 

これからの社会の取り組みが問われている 


木下
:まず事件のことを初めてお知りになったときに、何を思われたのでしょうか。

20160909_5_001.JPG高谷:19人もの人を殺害したという事実に、ともかく驚きました。事件当日の7月26日はびわこ学園での勤務でしたから、仕事の合間を縫って、食堂のテレビをちょこちょこ見ていました。そして、必要な情報は残しておかなければと思い、新聞のスクラップを始めることにしました。事実を集めて、本質をきちんと把握した上で、こういう事件に対する私たちの姿勢をはっきりと発信していかないと、障害者への誤解や偏見が広がり、社会が悪い方に流れていくような気がしました。
 ショッキングな事件ではありますが、個人の暴走によるものであって、いまの社会全体がこの犯人に同調するような流れになっているとは、私は思いません。むしろ、これから私たちがどう反応し、どう取り組むかで、社会の流れができていくのだと思います。

木下
:容疑者は3年間勤務経験のある施設職員です。入所者の方と豊かな交流のできる職員の方と、植松容疑者のように障害者を無価値と思ってしまう職員との違いは何なのでしょうか。


20160909_5_002.JPG高谷
:報道によれば、植松容疑者は、津久井やまゆり園の園長の面接を受けたときに、「ずっと車いすに縛られて生きることが幸せなのか」と発言したとされています。このものの見方は逆でなければならない。車いすがあるから歩けない人が移動できるのです。車いすは障害のある人の社会参加の可能性を広げる大事な道具なのです。それなのに、車いす利用者の気持ちに思いが至らず、不幸せであるとしか感じていない。そのことに象徴されますが、植松容疑者は入所者の方々を人格をもった人間として見ていない気がします。ふつうの施設職員のような人間らしい思い入れができなかった。
 なぜ、そうなるのか。これはあくまでも推測でしかありませんが、容疑者は障害者に関わる仕事は、本来自分が就くべき仕事ではないと思っていたのかもしれません。自己に対する過剰な思い入れによって、障害者のお世話をすることを、心のどこかで屈辱と感じていたのではないでしょうか。そのために障害者の存在が自分の尊厳を脅かすものとなり、「社会が自分に低い評価しか与えないために、こんな仕事にしか就けなかった」と、劣等感を募らせていった可能性があります。劣等感は自分と同等の者や目上の者に対してではなく、弱い者に向かいやすい。自分を不遇と考える恨みや悔しさを、意思表示の難しい重度の障害者を犠牲にすることで、はらそうとしたのではないでしょうか。


脳に大きな障害ある人の感じる心


木下
:一般の方は重症心身障害児者、いわゆる重症児者と接する機会は、ほとんどないと思います。「重度の知的障害と重度の身体障害が重複する障害者」という制度のための定義はありますが、もっと身近に感じるための具体的なイメージを教えていただけますか。

高谷
:簡単に言えば、自分の力で動くのが難しい人であり、言葉を話すだけの知力がない人です。身体障害と知的障害が重複しているというと、2種類の障害が合わさっているように思うかもしれませんが、脳の形成不全などにより脳の基本的な機能が失われている人と考えればいいと思います。もちろん、一人ひとりによって原因も症状も異なりますが。

木下:体が硬直して、手が内側に曲がっていたり、体を伸ばすことができなかったり、背骨が変形しているような方もおられますが、それも脳の障害が原因なのですか。

高谷:そうです。体の障害として現れますが、原因となっているのは脳の障害です。人間の脳は体の緊張を緩めたり、バランスを取ることを赤ちゃんの頃から無意識にやっています。姿勢を保ったり、体をリラックスさせたりできるのも、脳の働きによるものです。脳に大きな障害のある人は、それができないので、筋緊張が続き、その筋肉の圧力が身体の変形を生んでしまうのです。左右の脳の損傷具合に差があると、体の左右の筋緊張に違いが出てくるので、それが長年続くと、背骨の湾曲へとつながる場合もあります。筋緊張のために呼吸や食事が難しくなることもあります。自分の体が自分を締め付けているようなしんどさがある。私たちは、それらを筋弛緩剤やリハビリによって取り除くことで、少しでも楽に生きられるようにサポートしているわけです。

木下:保護者や施設職員の方たちとの交流の様子は、どんなふうでしょうか。

20160909_5_003.JPG高谷:町でストレッチャーに乗った重症児者をたまたま見かけると、みなさん口にこそ出さないけれど、「何もできない人」「何もわかっていない人」「生きているのが辛そう」と思うことはあるでしょう。
 でも、彼らは明らかに何かを感じています。例えば、母親がそばにくると、反応が違って、安心した表情になります。雰囲気が変わります。職員で毎日介助をしている人は、「私ら毎日お世話しているのに、こんなにええ顔せえへん。久しぶりに来たお母さんにだけ、こんなにええ顔を見せるのはどういうこと?腹立つわ」と、冗談交じりで話しています。
 お母さんの方も子どもの顔を見て慰められています。しんどいことがあると、施設にやってきて、気持ちを楽にして帰られるお母さんがいます。ときには毎日のように来て、ほっこりとした気持ちになって帰っていかれます。
 「子どもさんは、お母さんのことわかっておられる?」と訊ねると、「わかっています」というので、「どうして、わかっていることがわかるの?」と重ねて聞くと、「私が帰ろうとすると、う~んって唸るんです。他の人ではそんなことないようなのに、私のときだけ。だから、なかなか帰れなくなります」。
 本人はそこにいるのが自分の母親だというようなことは、たぶん何も理解していないと思います。でも、母親に対して、心で何かを感じているのでしょう。職員に対しても、信頼している人には同じようなことが起きます。私もかつて常勤だった頃、肺炎になった女性の患者を付きっきりで看病したことがありましたが、その後、その女性のそばから離れようとすると「う~ん」と言って、離れさせてくれないのです。私は、「ラブコールやな」と言って、悦にいってました(笑)。

木下:それは生理的な「快・不快」とは別の感情なのですか。

高谷:別ですね。人間のつながりに関するものですから。人と人とのつながりを感じる心は、かなり根源的だと思います。脳がほとんどないような人でも、信頼する人がそばにいると赤ちゃんのように安心した顔になることがあります。
 重症心身障害者という言い方で、心と体の障害と表現していますけど、「本当は知能と体の障害であって、心の障害ではない」と私は思っています。信頼する人とつながろうとする心は、生きていく上で一番大事なものなのかもしれません。そして、それが人間に生きる喜びももたらします。びわこ学園の見学者の中には、感動して立ちすくんでいる人もいます。寝返りを打つこともできない、言葉もしゃべれない、そんな重症児者にも心を感じるからです。心と表現するのが適切かどうか・・・・、でも心としか言いようがない。

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はだかの命を大切にするかかわり


木下:
人との豊かなつながりを施設の中で実現していくには、どうすればよいのでしょうか。

20160909_5_005.JPG高谷:今回の事件で施設入所を問題視する意見も出ているようです。しかし、「施設で暮らすのか、地域で暮らすのか」が問題ではなく、「周囲とどれだけ豊かなつながりをつくれるのか」が大切だと思います。たとえ、大きな施設であっても、生活単位を小規模にして、家庭的にすればいいのです。びわこ学園では、内部を10人以下の小さなグループに分けています。そして、本人と職員、本人と家族、本人と同室者などの、それぞれのかかわりを緊密にするとともに、地域の催しや行事への参加など、社会とのかかわりも大切にしています。
 植松容疑者が、なぜあのような凶行に及ぶに至ったのか、真相はわかりませんが、「障害者は不幸を作り出すことしかできない」というような妄想に振り回されずに、重度の障害者のあるがままの姿を見てほしかったと思います。人材としての不可価値など気にせず、「はだかのいのち」そのものを大切にするようなかかわり方を学んでいればと、残念で仕方がありません。


 木下 真

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