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画家・山下清の素顔について考える 後編

2016年03月07日(月)

WebライターのKです。

山下清には画家としての顔とタレントの顔とふたつがあると言われていますが、実はもうひとつ、放浪の日々を綴った『裸の大将放浪記』などの作者でもありますし、また雑誌の対談などで名言を残す文化人としての顔ももっていました。




◆山下清語録



・みんなが爆弾なんかつくらないで、きれいな花火ばかりつくっていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな。(『裸の大将放浪記』)

・東京の人もいなかの人も同じ人間だから、どこへ行ってもはくじょうな人としんせつな人がいる。(『裸の大将放浪記』)

・自分がうそをついて、よその人が本気になってむちゅうになって話を聞いてむすびをくれるので、自分のうそがうまいぐあいにいったと思っておかしくなってしまいました。(『裸の大将放浪記』)

・自分がいい所へ行こう行こうと思うと、少しもいい所へ行かれない。いい所へ行こうとしなければ、しぜんにいい所へぶつかる。いい所へ行こうとするから、いい所へぶつからないんだろう。(『裸の大将放浪記』)

・日本は世界で一番強いとか、日本人は心が正しいと言って、日本がうそを言うのは、自分達が住んでいる国だから、自分達が住んで居る所をゆかいにして、気持ちよくほがらかにするために日本のいい事をいっているのだろうと思います。(『裸の大将放浪記』)

・日本人は日本だましいがあるから戦争勝つと言うのはうそだ。日本人もアメリカ人も同じ人間だから、両方ともたましいがあるから、心は同じだから、戦争の道具のいいのを持っている国にはかなわない。(『裸の大将放浪記』)

・ぼくは新聞はめったにみないが、ときどきよむとみんな本当のことばかりではないような気がするので、嘘と本当はどのくらいのわりあいに世のなかにあるものだか、わからなくなる。大ぜいが本当だといえば、嘘でも本当になるかもわからないので、世のなかのことは、ぼくにはよくわからないのです(『日本ぶらりぶらり』)

・ぼくは動物園がすきなので、もっとここにいたかったのに、まだいくところがあるからはやくいこうといわれて、自分のみていたいものは人がおもしろくなく、人のおもしろいところはぼくにはちっともおもしろくないので、人はすきずきで、自分のすきなものだけみてあるくには、ひとりで放浪するのがいちばんいい。(『ヨーロッパぶらりぶらり』)

・北海道と本州と四国と九州だけじゃ、いくら東条さんでも、アメリカと戦争しようと思わかなかっただろうな。明治になってから日本はよその国と戦争するようになった。明治になってから台湾をとったり、朝鮮をとったり、カラフトをとったり、満州をとって日本はうんと強くなった。シナも少しとったかな。・・・・日本の国がうんと広くなったから、アメリカと戦争しても大丈夫だろうと思ったんだね。(『徳川無声の問答有用』)

・えらいからって何でもできるとはきまらないんだな。ぼくたちでも、ふつうのひとがかける絵でも、かけないときがある。天皇陛下でもさ、ふつうのひとのマネできないことがたくさんあるでしょう。上だからといって、なんでもできるとは、きまってないんだな。(『徳川無声の問答有用』)

・人間は自分のことはわからないんだな。・・・・ひとの絵を見るとうまいと思うけど、自分の絵は、うまいっていわれたって、どのくらいの程度かわからない。(『徳川無声の問答有用』)

・他の仕事をやったら、他人に笑われるばっかりの僕だが、絵のことなら笑われない。・・・・僕は絵の学校に行ったわけでもないし、絵の理論というようなことも解らない。ゴッホとピカソの他には、絵かきの名前も知らない。展覧会も見たことがない。それでも、僕の絵をおもしろいといって下さる人がいて、僕の絵を買ってくれる人がある。・・・・いままでは好きだから描いていたのだが、これからは、どんなに苦しいことがあっても、がまんして描いて行きたいと思ってます。(「芸術新潮」1955年9月号「初めて絵を売る」)




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 画家・山下清の素顔について考える 中編
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コメント

「ヨーロッパぶらりぶらり」は、
読みました。
「歴史の先生だって自分で話をしながら、見たことがないのだからほんとかうそのことか、よくわからないことだってたくさんあるだろう」
「日本の品物でも西洋の品物でもめずらしいからいいのでなくて、便利の方がいい品物だと思った」
等、鋭い指摘に満ちており、
何て頭の良い人だろうと思いました。

投稿:do ut des 2016年03月09日(水曜日) 16時12分