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画家・山下清の素顔について考える 中編

2016年03月07日(月)

WebライターのKです。

山下清は関東大震災の前年の1922年に浅草で生まれました。1937年、15歳のときの「特異児童作品展」で注目を集め、その後安井曾太郎や梅原龍三郎などの画壇の巨匠に絶賛され、「日本のゴッホ」と称されました。そして第2次世界大戦を経て、1950年代後半には、新たな山下清ブームがやってきて、全国のデパートで展覧会が開かれ、延べ500万人近くが押し寄せました。映画「裸の大将」は大ヒットし、自身が描いた『裸の大将放浪記』もベストセラーとなり、昼のテレビのワイドショー番組のレギュラーにもなりました。そうして絵の才能だけではなく、山下清の言動のユニークさが取りざたされるようになりました。1971年、49歳の若さで亡くなった山下清は、日本中にそのキャラクターを定着させたテレビドラマ「裸の大将放浪記」を見ることはありませんでした。


yamashita002_R.JPG山下浩さんは素顔の山下清を知ってほしいと願っています。

 

ライターK : 日々の暮らしはどんなふうだったのですか。


山下浩 : 
家族と本当にふつうに暮らしていたのです。毎日のように絵を描いていて、暇なときは、私たち子どもと将棋やったり、トランプやったり、プラモデル作ったりして遊んでいました。いたずら好きで、周りの人を笑わせるのも好きでした。

ライターK : 周りに合わせて笑うことがなくて、無表情で不愛想だったとか、人と目線を合わせなかったという感想を残している人もいますね。

山下浩 : みんなで盛り上がって大騒ぎするということはなかったです。でも楽しい雰囲気は好きでした。ニタニタしたり、ひとりで「くっくっくっ」と含み笑いをしていました。それに相手によって、ずいぶん態度は変わりました。

ライターK : どんなタイプの人が好きだったのですか。

山下浩 : 質問にきちんと答えてくれる人です。煩わしがったり、いい加減にあしらおうとする人は嫌いでした。タレントのミヤコ蝶々さんとは仲良しでした。沈黙がきらいだったので、おしゃべり好きで、相手を無視しないで、きちんと対応してくれる人と馬が合ったようです。

ライターK : 映画やテレビドラマの「裸の大将」については、本人やご家族の方はどう思われていたのですか。

山下浩 : 「仕方ないね」と言っていました。「水戸黄門」みたいなもので、みんなに愛されるなら、それはそれでいいとあきらめていました。本人は映画しか見ていませんが、「半分は本当で、半分はお芝居だな」と嘆いていました。でも、有名になるのは絵を売るための営業サービスだと割り切っていたところもあります。みんなが何を期待しているのかは、よくわかっていて、それに応えようとしていました。
 有名になってからは、開襟シャツにジャケットを着て、ベレー帽をかぶって、服装には気を使っていましたが、新聞社のカメラマンから、「絵にならない」と言われて、ランニングに着替えさせられたこともありました。夏ではありませんでしたが、それでも文句も言わずに応じていました。

ライターK : みんなの望むイメージのままであってほしいのでしょうね。寅さんを演じていた渥美清みたいなものですね。

山下浩 : 講演会で話していると、かならず「山下清は本当におにぎりが好きだったのですか?」という質問が出ます。確かにおにぎりも好きでしたけど、もし目の前に「おにぎり」と「お寿司」があったら、間違いなく「お寿司」を選んだと思います。好物は「お寿司」「かつ丼」「すき焼き」・・・・。普通の人と変わらないのですけど、“おにぎりが何より好きでした”と答えれば、うれしいのでしょうね。
 困るのは、本人はわざとジョークを言っているのに、マスコミが、本人は何もわからず、おかしなことを言っているかのような記事にしてしまうことですね。知的障害者のステレオタイプのイメージを重ねようとしてしまうのです。まじめに言っているのか、笑わせるために言っているのか、家族にはすぐにわかるのですけど、同じようにはとらえてもらえなかったですね。

ライターK : 子どもの頃に、両親からは、おじさんはどんな人だと教えられていたのですか。

山下浩 : 画家だと言われていました。でも、私は子ども心にタレントだととらえていました。朝早く、旗を付けたマスコミの黒塗りの車がきて、おじを連れていくのです。それで、例えば、テレビの生放送が終わって帰宅すると、「服装はどうだった?話し方はうまくできていた?」と、私の母親に確認を取るのです。すごく周囲の目を気にしていました。私は家の中に有名タレントがいるのだと理解していました。

ライターK : 山下清さん自身はマスコミのステレオタイプの報道について、どう思っていたのでしょうか。

山下浩 : 不満を漏らしていました。とくに、自分がコンプレックスに思っていた吃音を強調されたり、知的障害を感じさせる言動を誇張されたりすることには不快感を示していました。いじめのように感じていたのだと思います。
 おじは子どもの頃の激しいいじめがトラウマになっていました。集団から受ける暴力やいじめには、ずっと強い恐怖心を抱いていました。おじが放浪生活に出た理由のひとつに徴兵検査逃れがありました。軍隊に行けば、怒鳴られたり、殴られたりすることがわかっていたから、必死になって日本全国を放浪して逃げ回っていたのだと思います。そのように集団への警戒心をもちながら、もう一方では、きちんと自分を理解してほしいという願いも常にもっていたと思います。
 映画やテレビのおもしろおかしい山下清を愛していただけるのもありがたいですが、できればもうひとりの山下清がいたことも理解してほしいと思います。そして彼が生涯の仕事として一生懸命取り組んだ絵については、知的障害者というイメージを先行させることなく、ひとつの作品として純粋に楽しんでいただけたらありがたいです。


後編では、著作などから拾った「山下清語録」を掲載しましたので、続けてお読みください。



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