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分かち合いたい―「津久井やまゆり園」を訪ねて―

2016年08月05日(金)


あの日から10日。私自身、心の整理がなかなかつきません。
都心から電車とバスを乗り継いで、2時間。
きょう、神奈川県立津久井やまゆり園に行ってきました。
亡くなった方たちに花を手向けに。

 

深々と頭を下げ、顔を上げた時。
柵の向こうに見えたのは、私に向かって、私以上に頭を下げていた男性職員。
私は、しばし動くことができませんでした。

 

事件後真っ先に頭に浮かんだのは、同じような障害のある人たちや家族のみなさんのことでした。今も変わりません。
みなさん、苦しんでいませんか。悩みを抱え込んでいませんか。

8月8日(月)生放送で、みなさんと思いを分かち合いたい、と思っています。

当日、ツイッターでも声をお寄せください。


20160805_yamayuri_s.jpg

蝉の鳴き声が響く、山里。
この写真の場所から左に視線を移すと、津久井やまゆり園があります。
のどかな場所にも関わらず、私の心は落ち着きませんでした。  



関連番組
 『ハートネットTV』
 
緊急特集 障害者施設殺傷事件
 8月8日(月)夜8時/再放送 8月15日(月)昼1時10分

コメント

sunriseagainさん(すいません、何とお読みするか解りませんが)、引用失礼します。
「誰が生きて誰が死ぬべきかなんて、人間の考えることではない。」

同感です、医学が進歩して、色々出来るようになったからと言って、何でもやれば良い訳ではないと思います、出来る事とやって良い事かは別問題、結果、医療費や介護費用は激増、日本は早期の段階で少子化対策に失敗している為、これからの若者は、自分の生活もままならず、夢も描けずにいるのに輪をかけて、多額の税金を納めなければならないのです、このまま税金を必要とする人ばかりに増え続けられては正直困るのですが・・・。

感情論としてはおっしゃっている事は良く解ります、では、健常者は自分の身をどこまで削れば良いのでしょうか?、結局誰かが何かしらの形で負担をせねばならず。
余裕がある健常者であればやぶさかでは無いのでしょうが、こちらも自分や家族を守るので必死なのですが・・・。
障碍者は生きている価値が無いなどとは決して思いませんが、生きていく為の負担を健常者が負わなければいけない理由も無いような気がします、すいません、エゴの塊で。

投稿:とむ 2016年10月04日(火曜日) 20時15分

はじめまして。

先の「相模原重度障害者殺傷事件」を受けて、義憤にかられ社会の心ない人々向けに以下のコメントを書きました。Yahoo知恵袋の知恵ノートに載せましたが一般的でないサイトなので、こちらにてお目を通して頂けましたら幸いです。

なお英語が話せるので世界(キリスト教の国々)の数人の知人からは「なぜあなたの国の首相は、これほどの事件に国民に向けてコメントしないのか?」とも問われました。

タイトル 「重度障害者とその家族について。私は何を知っているか。」

「先月、埼玉の多重障害者ケア施設「津久井やまゆり園」で起きた事件を受け、日頃、障害者について一般の健常者の方たちがいかに知らない事が多いかを痛感した者です。

皆様は、重度障害者でアインシュタインに次ぐ天才物理学者イギリス人のホーキング博士や、知的障害者で画家の山下清の名前は知っていても、一般の多重そして重度障害者についてどのくらい知っているでしょうか?

私は重度障害者の一人です。親もきょうだいもいます。だから事件を起こした容疑者の考えは、正しいのか思い込みなのかひどく考えさせられました。また世間一般健常者の人々の障害者に対する考え方、視線。一方で私の両親、きょうだい、親族などの思いは手に取るようにわかります。

はっきり言って人間は、美しい物、美しい人が好き。優れた物、優れた人が好きです。私もそう。その点から言えば重度障害者は外見上その印象上、美しくありません。どころか外を車いすで歩けば奇異な物体が現われたようにびっくり嫌悪の目にさらされるでしょう。

私は、関節リウマチで障害者になったので手足にリウマチ特有の変形があります。五体満足の高齢者が車いすに座っている姿とは見た目が違うのです。

私の両親やきょうだいは大変です。母は自分の産んだ子なのだから自分に責任がある。親に何かあれば他の子供達に面倒かけることになる、この子より先に死ねないと生きる決意と苦労は健常者の子供を持った親達より多いと思います。

一方で世間の人々が内心嘲りや嫌悪を持って見るのを知っているから人前にさらしたくない。他の子供達にまで肩身の狭い思いをさせたくない。親きょうだいは、世間の排他的な偏見とも闘わなくてはなりません。

その親の気持ちをご存知でしょうか? なんでこの子だけこんな障害を持ったのか? (または) 持って生まれたのか? 世が世ならよそ様の健康な子供達と同じに、他のきょうだい達と同じに、この子だって当たり前に生まれたかったろう。社会の中でなぜこの子だけ貧乏くじを引いた、可哀そうだと、その子の美点を知っているだけに見えない所で泣くこともある。

障害者のきょうだい達にはその余裕はない。彼らは同世代の人々の残酷な笑い顔に怒りと恥を覚え、障害ある兄弟か姉妹は死んだ方がとさえ思うかも知れない。いなければ平和になると。事実、その子が施設に入って手もかからず目の前にいなければ世間様や友人に対し引け目を感じることもない。平和な心でいられる。

誰しも自慢できるほどとは言わずとも普通の兄弟姉妹がほしいのは当たり前。その逆だから愛情と苛立ちで苦しみ、きょうだいが障害あるその子に冷たくあたることもある。むしろ深い考えを持つ赤の他人の方がその子に優しかったりする。

しかしながら一度でもそのきょうだいが自分の人生の中でどん底を味わったなら、その時、障害を持つ子は彼らの助けになるのです。人の命さえ奪いかねないこの世の地獄、それを味わったことのない人々には、この意味はわからないと思います。

弱肉強食の社会の中で敗者になるか心底叩きのめされた時、自分が無益なちっぽけな存在、いなくてもよい存在と思える時、どん底の苦しみの中で謙虚に自分を見つめるとき、障害を持った子は静かな優しい目で見つめる「そんな事ないよ」と。

きょうだい達はそれに癒され慰められる。もちろん他人でも同じ経験を持つかも知れない。若過ぎてまだ人生を知らない人、傲慢なまでに順風な人にはこれはわからないことです。

きょうだい達には二つのタイプがあるようです。知人の兄は多重障害で途中からケアホームに入りました。そして知人は擁護関係の仕事を選びました。兄の影響です。障害を持ったきょうだいを拒否するか、健やかに産まれた事に感謝して不運なきょうだいを支えようと思うか。

もし障害を持つ子が死んだら家族はほっとするだろう、と言っている人々がいます。しかし事はそんなに簡単ではない。確かにきれい事ではなかった世話も無くなり平和は一時的戻るかもしれない。

しかしここが人の心の深いところだが、その存在の貴重さに初めて気付かされる時が来る。年齢を重ねるごとに社会の厳しさの中で自分の立場がその障害あった子の立場と重なる時間がやってくる。人生の終わるまで家族には心の中に愛情と悲しみと負い目が残る。自身への後悔と偏見ある社会への怒りとを持ちながら、なぜほっとするなんて言えるものか。

家族も犠牲者です。間違わないでほしいのは、障害者がいるから家族まで犠牲をこうむるのではない。「障害者は役に立たない無用な存在」という世間の排他的考えの犠牲者だと言いたい。これは無知で視野の狭い浅はかな人間の考えです。苦労したことのない人間の言葉、はっきり言って人生を甘く見ている人々の言葉です。

私の友人には、脳梗塞で若くして半身麻痺になった弁護士とか、汽車マニアで写真を撮るためあまりに汽車に近づき過ぎて巻き込まれ、脳の半分を失った男性とかがいます。

元弁護士の友人は、半身不随の不自由さと、あれほど頭脳明晰だった脳に多少の記憶障害が残りました。弁護士を続けることは不可能、他の仕事にも無理があります。しかし知性的で凛としたその声に、今でも元弁護士であった片鱗を感じさせます。

汽車マニアだった男性は、明治大学を卒業して大手に就職したのに今はケアホームにいます。家族が高齢になり世話できないからです。脳に障害はあるけど、歩けて感受性はしっかりしていて親切な人といじわるな人とを見わけ、優しくしてくれた人のことをすごく気遣う面を持っています。

多重障害者は何も感じない、分からないなんて無知な人の思い込みです。知的障害者には、知性、記憶の代わりに感受性がとても発達しており感性で何でも理解する人達がいます。言葉は発せずとも察知して把握しているのが、見える人には見えるんです。

この世は、危険がいっぱいの世界。いつ事故や病気や災害で重い障害者にならないとは誰にも言えない。この世は恐ろしい所です。想像力が乏しく障害者へ偏見を持っていた健常者がいつ障害者になるか誰にも決してわかりはしない。交通事故で話せなくなり、寝たきりになった20代の男性の眼は語っているようです。「俺のようにはなるなよ」と。

人間は激烈な競争社会の中で、たえず他人を優劣で判断する。もちろん私もそうです。違うのは一般的な知性の五体満足の健常者を判断する時よりも障害者を見る時の価値判断が細かく、何が彼、彼女の美点か外見を越えて判断しようとするところだと思います。

私は、その人が生きて生かされている限り、なにか美徳があるに違いないと考えます。すると本当にその人の美徳が見えてきます。言わば施設の職員さん達も家族もミクロの世界が見えるメガネを持っていると言えるかも。

植松容疑者の考え方は、民族優位を唱えてユダヤ人を大量虐殺したヒトラーの思想と同じです。それは人間のすることではない! 他人を害する人は自分自身をも大切にしない。「障害者無益論」を唱える人々は、自分を大切にしていないと私は思います。

障害者に偏見を持つ人々は、もしもこの世が健常者ばかりだったらもっと住みやすい社会になると思っているでしょうか? 私はそうは思えません。健常者はお互い相手より優れなければならず見栄と体裁を今より気にし排除されないよう弱みを握られないよう注意し疲れ果ててしまうだろうと思います。殺伐とした攻撃的な心を持つ人々が増えるだろうと思います。

障害者とその家族達は、謙虚におだやかな人間であらねば地域で生きられませんから結果として社会がおだやかに平和に営めることに貢献してはいないでしょうか? また恵まれた人々の、障害者や不運な者に対する憐み、あたたかい心は彼ら自身の心をも潤おし、手を差しのべる慈善や愛の心はその人自身の心も癒し活力の一部となると言ったら言い過ぎでしょうか?

もちろん障害者の中にも幾人の愛人を作ったとかあきれた障害者もいれば、適切な対処が遅れ時として危険な障害者もいます。しかしその比率は健常者の方がはるかに危険な人々が多い。それはもはや健常者、障害者という枠組みでとらえるものでなく個人の人格の問題だと思います。

お母さんが分娩する時、産科医が膣から逆子を引っ張り出すのに2時間もかかり、酸欠状態から脳性まひになった車いすの女の子。

ポリオウィルスに感染して産まれた時はあちこち手脚が勝手に動いてしまう男の子。みんな気立ての良いいい子で話してみれば、パソコンの達人だったり、気遣いがうまかったり。街中で健常者が見れば車いすで頭の弱い障害者にしか見えないでしょうけども。

もしこの社会の上に自分を越えた大きな存在を考えるなら、障害者が社会にどんな役割がありその負わされた責務を果たしているか? 正直に言って神様の考えのすべてを私ごときがわかるわけはない。しかし神様がその人にいのちを与えた以上、その領域を犯してはいけないと私は思うのです。誰が生きて誰が死ぬべきかなんて、人間の考えることではない。

在宅で、ケアホームで、障害者は多かれ少なかれ介護する人々という神の手に支えられて生きている。彼らの存在なくして私達の存在はない。彼らの尊い汗によって.私達も笑顔で汗をかくことができる。もし私達がそれぞれその能力に応じてささやかでも何かをなし得たなら、それは介護して下さる人々の愛の力であり、苦労のたまものです。

両親、兄弟姉妹達に平安と幸せを。その支援者、そして介護関係者の皆様に尊敬と感謝を。また偏見を持つ世間の人々が少しでも考えてくれることを願いつつ。」


以上です。しかし、このようなコメントをいくら発しても日本はあまり変わらないと思います。問題は、人間本来のエゴイズムであり、それに対する教育による広い視野と考えが必要かと思われます。ご拝読ありがとうございました。よろしくお願いいたします。


投稿:sunriseagain 2016年09月30日(金曜日) 14時03分

ゆおさんへ

ご意見頂きまして感謝します、自分を見つめ直すきっかけに致します。

自分が路頭に迷わない自信や材料などは勿論持ち合わせていません、私のこの意見は、基本的に弱肉強食でなければ人類という種の保存自体が叶わないだろうとの思いからのもので、いつなんどき、どんな理不尽な理由で自分自身が淘汰される側にまわる事になるかは判らず、その可能性は踏まえた上での発言です、つまり自分がいつまでも安泰でいられる側にいる前提に基づいた意見ではありません、今の自分のコンディションはラッキーなだけであるという事は認識しています、ただ、自身も含めて一部の生き残りにこだわってそれを積み重ね続けた結果、全滅したのでは元も子もなく、といって感情論を持ち出すとそもそも線引きをする事が無理になるので、何かの基準が必要では?という事です。

また、自分がどれだけ社会に貢献しているか等という事は、私が決める事ではなく、私以外の人が決める事だと思っていますので、私にはそれは判断しかねます、無論自分では社会に貢献するべく努力はしているつもりでは有りますが、様々な立場や見方で、その結果には意見が分かれるところでしょう。

投稿:とむ 2016年09月08日(木曜日) 01時04分

とむさんは、自分で賄うを、前提に、
そこからもれる人を切れと言ってますが、
ご自分が路頭に迷わないと言う、
絶対的な何かがあるのでしょうか。

また、とむさんは、どれだけ社会に、
貢献しているのでしょうか。

投稿:ゆお 2016年09月03日(土曜日) 20時28分

多様性を認め、様々な人々が生きやすい世の中を目指すという事は、広義で捉えれば犯罪を行うような人も含めてみんなが認め合えるような世の中を目指すという事なのでしょうか、無理が有るように思います。

障碍者を差別しないという事は、良い事だとは思いますし、そのようにありたいと思います、障碍者でも生きている意味が有るし、生きていてはいけない人などいないという考えにも共感する部分は有りますが、例えば自分の子供が生まれたときに、障碍者ではなかったと安堵するという事は障碍者差別なのでしょうか?、親であれば誰しも当たり前の感情だとおもいますが・・・、そう思わない親なんているのでしょうか?

人間の価値は、経済活動に寄与出来るかどうかだけで決まる訳ではないとは思うのですが、自分が生きる為に必要なコストは自分で賄える事を前提に考えるべきだと思います、限られた資源で人類が絶滅せずに生存する為にはやはり、ある程度の種としての優劣による選別は必要で、何らかの形で、そこの割り切りを実行しないと最後は全滅する気がします。

投稿:とむ 2016年08月16日(火曜日) 21時41分

お疲れ様です!どうしてこの様な悲しい出来事が起きるのでしょうか。世の中の仕組みが間違っているのでしょうか?コメントの言葉が見つかりません。

投稿:清満 2016年08月10日(水曜日) 11時33分