うつサポート情報室 いきいきした心をとりもどすために
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体験談

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体験談 >> NO21
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社会から離脱して、人間と断絶している毎日が
「闇」の中にいるようであります。

  東京都 42歳 男性

 昭和55年2月、高校受験で、筑駒、開成と合格しました。さぁこれからだというとき、高2の春、一連の不定愁訴(しゅうそ)により登校拒否に陥いりました。カウンセリングなどを経て、家族のものと相談し、昭和56年4月30日に、慶應病院 精神神経科にて、診察を受け、診断書には『うつ状態』と書かれていました。投薬治療を施しますが、副作用で苦しみました。同年、夏、20日間近く自室のベッドから起きられない状態が続き、地獄のような毎日であったことを記憶しております。

[無気力,悲哀感,疲労感,眠気,倦怠感,夜間の咳,皮膚疾患,立ちくらみ,頻尿,足の冷え,鼻づまり,下痢と便秘が交互する,食欲不振,頭痛,腰痛,三叉神経痛,肋間神経痛,坐骨神経痛,書痙,指に水疱,緊張による頭痛やけいれんなどの諸症状がみられました。](発病原因は、高校受験にあると思っています。すなわち、若年における脳の酷使ではないかと。)
この間、慶應病院には、2回通院しますが、距離的問題と待ち時間の苦痛が理由で、通院の意志がなくなりました。昭和57年7月30日、慶應の紹介で、自宅近辺の精神科専門の病院(主治医:院長)に通院することになりました。以後、現在までお世話になっております。
 昭和58年3月、欠席日数も多かったですが、なんとか高校を卒業します。しかし、うつ病の理解は、先生方には得られなかったです。(欠席=怠け者呼ばわりされたり、意志が弱いなどと。(その意志を患う病気なのに、今現在は、もっと理解される状況ですが、当時は、こんなものだったです。) その後、浪人生活に入ります。翌年、私立大数学科に合格しますが、自分としては、納得できなかったです。しかし,「これ以上浪人生活をするよりも、専門分野(数学)の学業に専念するほうが、身体的にも精神的にもプラスになる。」と院長に言われ、多大な葛藤がありましたが、譲歩して、大学に入学しました。

 昭和59年後半は、無気力状態や身体的苦痛で学業も阻害されます。留年し、翌年、休学を決意します。
このとき診断書には、『本人の性格(神経質,完璧主義,執着気質)が起因となるAntitypicalなうつ病』と書かれます。
しかし、休学が功を奏し、波はありましたが少し回復して、何とか休学を終えて、4年後に卒業にこぎつけます。が、大学でも問題児扱いされました。それから、就職活動は一切行わず、教員免許取得のため、大学の聴講生となります。このころは、自律神経失調症も目立ってきます。
[気分が悪い,頭がぼやける,眠気,イライラ,頭痛,吐き気,胸部の圧迫感,口渇,足の冷え,離人感,不安神経症,不眠症(夜),異常な発汗,頻尿,思考の歪み,頻脈,肝機能障害など]さらに、「うつ」のひどいときは,点滴治療(即効性があります。)なども何十回となく病院で行いました。教員免許取得後、私立中・高の数学の非常勤講師となります。社会的責任を果たすためにも、少しでも身体的苦痛が軽減することを望むようになりますが、思ったようには、なりません。年々少しずつ仕事の量を増やし、人生に生きがいを持つように努力しました。これで,「うつ」を克服したようにみえますが、そうではなく、「うつ」の兆候が現れる前に、疲れをとり、寝ることに専念したものです。ひどいときは、1日に16時間寝ていたこともありました。うつにならないように、先手先手と予防策を考えても、やはりなるときはなってしまいます。
教科指導の能力は、誰にも負けないと自負していたので、この学校から専任教諭にならないかと依頼され、医師と相談して、決定しましたが、その間も「うつ」と戦いながらがんばりました。が、何せ急に仕事の量が増えて、身体的にも精神的にも疲れ果て、欠勤も多くなり、2年後、講師に戻ります。
その間、T大の第1問をかなり詳細に当てたことのほか、ユニークな入試問題を作成したという実績も、教師からは、評価されませんでした。
生徒とのトラブルは、一切ありませんでした。それよりも感謝されることが多かったです。
その後、40歳を過ぎると精神的疲労に加え身体の衰えを感じてきました。また、気象条件によりずいぶん違った症状になることがあります。台風や、勢力の強い低気圧が接近してくると、何かトラブルをおこしたり、イライラしたり、気分が悪くなることが多いということがわかりました。
そして、これ以後対人関係が問題となってきます。職員室で、気分が悪いとき、ふさぎこんで、話に加わらないと他の先生方には、「自分たちを嫌っている」のかと思われたり、私が、「具合が悪い」といえば、笑われたり(普通この年齢で「具合が悪い」なんて言葉は出てこない、と一般人は思っているのでしょうか。)また、飲み会などに参加しないと、「協調性がない」といわれ、(これは、飲み会も自分にとっては、仕事みたいなもので、投薬をしていることでお酒は飲めないし、(飲みたくもないし)何といってもその後のことを考えてしまいます。つまり、これ以上頑張ると「うつ」が来るという「恐怖」が、行動範囲を狭くします。) これで、幾多の誤解が増えていくこととなり、病気退職へとつながります。病気退職といえば、聞こえはよいですが、実際は、解雇されました。
理由ですが、まず私が、主任に体力が続かないかもしれないことを相談し、時間割りを少しでも楽にしてくれないかと望みましたが、聞き入れてもらえず、2日間欠勤した後、代わりの人材を用意され、その後主任から、自宅に電話があり、「もう学校に来なくてよい。」といわれ、わたくしの私物もすべて、宅急便で返されました。他の教科の先生との挨拶もできず、基本的人権を疎外されたように当時は思い、いまだに、夢などをみます。 (前年院長が他界し、今は主治医がかわっています。)その後自宅療養していましたが、月に2〜3回しか外出(必需品の買い物,通院など)せず、その他のときは、寝てばかりしていました。もちろん自殺も何度も考えたことがあります。かつて、生徒を偏差値の高い大学へ入れることに、ほんの少しの生きがいを持っていた頃とは、雲泥の差です。しかし今現在それをできる体力も精神力も失ってしまいました。
 対人関係で不快な思いをしてから、今は、医者と患者、店員と客という以外の人間関係はありません。

 それから、苦渋の選択ではありましたが、障害者として生きていくしかないと考えました。書類を集めるのに大変な思いをし、最終的に区役所に提出するまで、2ヶ月経ち、それから認定(昨年2月)されるのに3ヶ月要しました。結果は、精神障害2級でした。
 その後、完全に無気力となり、食事もまずく、「ひきこもり」のような生活になり、「うつ」もおそいかかり、また、投薬も増加してしまいました。  人間に総好かんされた悩みは、消えません。家族(母75歳)以外接する人は、0人です。人間が、人間をうらんで死ぬことほどつらいことはありません。「自分の人生は、一体なんだったのか!」
 現在は、朝(11:00)起きて、3時間、部屋を片付けたり、ボーっとしたりして、その後、昼食をとります。昼食後はことに気分が悪く、夕食まで寝てしまいます。夕食後、1時間ぐらいテレビを見て、(それほど観たいわけではありませんが)風呂に入り、睡眠薬を飲んで、寝ます。眠れないときももちろんあります。このとおり1日で、まともに行動できるのは、1,2時間だけです。しかし、うつがくれば、生活のリズムは一転します。 寝たきりの人たちと同じです。また、頭痛や咳・胸部の激痛・胃痛などは、毎日のように起こり、痛み止めは常時用意しています。しかし、うつを治すには、長時間の睡眠をとるほかないと思います。起きていたくもなく、寝たくもないというような状態もあります。ベッドに入っているだけです。これは、かなり苦しいです。
 母は、「どんな状態でも、どんなことがあっても、自殺しないで生きていてほしい、生きていることが、私(母)の活力となっている。」と申しております。当たり前なことだとは、充分私も思っておりますが、「うつ」の実体験がない人には、そのつらさはわかりません。経済面でも、あと10年たてば、それだけ苦しくなります。家にいて、もんもんとしているだけでいいといわれても、当事者は、つらいのです。

 最後に、「うつ」(精神病)は、人に声を大にしていえる病気ではなく、また、外面上では判断がつかない、つらい病気です。何百回とうつを体験していますが、常に自殺願望がつきまといます。「難治性うつ病」は、人間から仕事も取り上げ、人との接触もできない悪魔のような病気です。まだ、世間一般には理解されない病です。
 また、脳の成長過程である17歳のときから抗うつ剤と睡眠薬を投与しはじめ、25年半たってから人間がどのようになるかという臨床実験はないというのも残念ですが、私がその実験の資料となればいいかとも思います。死んだ場合には、脳の解剖をお願いすることを家族のものに承諾してもらいました。
友人もいない、社会的地位もない、経済力もない、このように社会から離脱して、人間と断絶している毎日が、「闇」の中にいるようであります。
 このようなケースが存在することを1人でも多くの方たちに認識してもらいたく、筆をとりました。

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