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特集「旧優生保護法下での強制不妊手術」

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(2018年5月27日(日))

出演:米津 知子(よねづ・ともこ)さん(DPI女性障害者ネットワーク/優生手術に対する謝罪を求める会)
聞き手:宇野 和博さん(番組コメンテーター)
    高山 久美子(ディレクター)
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高山
特集です。旧優生保護法の下で、障害などを理由にして、本人の同意のないまま、強制的に不妊手術が行われていました。今年1月、仙台市で、被害者の女性が国に対して、謝罪と補償を求めて提訴したことをきっかけに、全国各地でこの手術の実態の掘り起こしが進みつつあります。
今日は、長年、この問題に取り組んでこられた、米津知子さんにお話を伺います。

“不良な子孫の出生を防止”を認めた優生保護法 

高山
米津さんは、DPI女性障害者ネットワークや優生手術に対する謝罪を求める会の会員で、車椅子ユーザーでいらっしゃいます。
米津さん、まず「優生保護法」とはどんな法律だったか、教えていただけますでしょうか?
米津
はい。この法律は、1948年にできたんです。「第一条」に “優生上の見地から、不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命・健康を保護することを目的とする”って書いています。優生思想をもった法律だったんです。障害をもつ人に、中絶や不妊手術をさせる条文がありました。
高山
「させる」ということは「強制的に」ということなんですね。
米津
本人の同意がなくても不妊手術を行うことができたんです。それが、いま問題になっている「強制不妊手術」なんです。
高山
はい。
米津
“遺伝性”とされた疾患の場合は、不妊手術にかかる一切の費用を国が負担していました。本人の同意を得て行う規定もあったんですけれど、障害者の立場がとても弱かったということを考えれば、本心からの同意だったのかはとても疑問です。ハンセン病の方たちがそうだったんですね。実態は限りなく強制に近かったことが分かっています。
高山
どうしてこのような法律ができてしまったのか、歴史的な背景とあわせて教えていただけますか。
米津
優生保護法ができる3年前、1945年は、日本が戦争に敗れた年でした。食糧もないし、住む家も不足していて、でも、ベビーブームが始まりかけたんですね。そこで国としては、生まれる子どもの数を減らしたかった。その前はどんなふうだったかというと、国としては、働き手や戦争に行く兵士になる子どもが、たくさん欲しかったので、「堕胎罪」で中絶を禁止して、不妊手術も避妊も厳しく規制してたんです。
高山
「産めよ、増やせよ」という言葉を聞いたことがありますけど。
米津
その通りですね。それなので無理をして出産を繰り返して、身体をこわした女性もいたんです。
「優生保護法」では、これとは逆に、一般の女性の健康の保護として、産まないこともできるようにして、子どもの数を減らそうとしたんです。
高山
つまり、人口政策ということでしょうか?
米津
そうです。それから、優生政策でもあったんです。生まれる子どもの数を減らすからこそ、健康な子どもだけが産まれるように、障害をもつ人に子どもを産ませないという規定を設けたんですね。
宇野
対象となった病気の中には、視覚障害に関することもありましたね。
米津
遺伝性視神経い縮、網膜色素変性、全色盲、アルビノというような、視覚障害にかかわる名称も含まれていました。他にも、遺伝性とされた精神疾患、身体の奇形、難聴やろう、血友病やてんかんなども入っていました。中には、遺伝とは言いきれないものも入っていました。そして精神病は、遺伝性でなくても対象にされていたんです。