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「私たちの生きにくさ ―障害のある女性として―」

「私たちの生きにくさ ―障害のある女性として―」

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(2013年6月23日(日))

【恋愛・結婚・出産にからむ困難】

高山
次に、恋愛、結婚、出産などにからむ女性障害者の困難さについて、お話をうかがいたいと思います。 藤原さんは、現在子育て中ですけれども、これまでの人生のなかでどんなことが大変でしたか。たくさんあるとは思うんですけれども。
藤原
はい、そうですね、私は子どもの時から、母親から「女は結婚して子どもを生むのが幸せなんだ」って言われてきたんですね。でも、30代で障害をもって、40歳で妊娠したときに、病気があることと、障害があるということ、高齢出産になるっていうことから母親と医者が反対で、中絶をすすめられたんです。
高山
お母さんが突然変わったっていうのは、どう思われました。
藤原
まあなんて勝手なんだろうって。「なに、それ」って思いましたね。もう話すこともできなかったというか。私は、もう「なんとしてもこの子を守ろう」って、それしかできなかったですね。頑(がん)として聞かないって。「話してもたぶん分からないだろう」って思って。今、問題になっている出生前診断についても、羊水検査をすすめられました。それは、赤ちゃんに異常がないっていう事を確認する検査がありますよね、エコーとか。さらに羊水を取って検査するということで、「障害があるって事は異常なことなんだなあ」っていうのを、その時にすごく確認させられるんです、自分も障害者なのに。障害のある自分のこと自体をもちろん否定されているし、存在自体を否定されている。で、その私のおなかの中にいる子どももね、まだ生まれてくる前から、その存在を否定されているような気持ちがして、すごく悲しかったですね。つらかったです。
高山
そうですね。中山さんは独身女性として。
中山
私は、恋愛というか、ある時、目の見える男性とデートをしてたんですけども、歩いてたら「これ、いらないよね」っていって、白い杖(つえ)を急に私の手からとって、どこかに隠しちゃったんですよね。彼にしてみれば、杖のある私と歩くと周りから、「かわいそうな人に親切にしているのね」っていう風に見られるけど、杖がなければ、ただ手をつないだカップルで、寄り添って歩いてて格好良いと思ったようなんですね。でも、私もそのときに「えっ。杖は私の体の一部なのに」とは思ったのですけれども、その男の人に嫌われたくないっていう気持ちが強くって、遠慮して言えなくって。悲しいんだけど、言えなかったという思い出がありました。
高山
藤野さんはそういうご経験はありますか。
藤野
はい。私自身はね、恋愛して結婚したんですけれども、友人に全盲女性と全盲男性が恋愛しているというのは、よくありました。結婚するのかなあと思っていたら、破談になったということがよくあるんですけど、その原因というのが、全盲男性の母親に強く反対されて、破談になるというケースがとても多かったです。今までは息子の面倒は私が見てきたから、その後は、奥さんになる人にやって欲しいっていう役割分担があるっていうことを、その母親はたぶん思っているんだと思うんですけど。そういうこともありましたし、それから、結婚はしたけれども子どもは絶対に持たないって決めたとか、子どもができても、すごい喜んでいたのに、会ったときに「堕ろしちゃったんだ」と言って、泣き疲れたというか、泣きじゃくっていたということもあって。なんか、一緒に泣いちゃったりしたんですけど。そういう人もいました。
高山
せつない話ですね。
藤野
そうですね。はい。
高山
いま、全盲男性のお母さんの話がありましたけれども、「女性だからこういう役割がある」とか、「こうするのが当たり前」というような既成概念があって、そういうのを押しつけられて困ったということは・・・藤原さんいかがでしょうか。
藤原
中途障害なので、家族とか周囲の人から、何も出来ないと思われて、その頃、何もさせてもらえなかったんですね。生活訓練のためにある施設に入所したんですけれども、そこでは、弱視の女性が全盲男性のお世話をする、面倒をみるという構図ができあがっていたんですよ。でも私もその頃、何もさせてもらえないのが、「あ、私でもできることがあるんだ」と思って、うれしくってついやってしまってたんですね。それで献身的な妻というのは、社会的に評価も高いですよね。で、自分の生きがいみたいなものを見いだしてしまっていたんですけれども、でもやっぱり完璧にはできないので、そうなれないなって。そうすると、そこからもあぶれてしまうっていうのがあって、私も早々に施設を出たんですね。
それと、自分は女の子を出産したんですけれども、周りから「女の子で良かったね」って。「家事とか何でもしてくれるよ、面倒見てくれるよ」って言われるんですよ。特にそれを言うのはなぜか、けっこう年配の女性たちなんですよね。たぶん、自分たちも言われてきたことを、そのまんま継承してるんだろうなと思うんです。娘は時々「目の見えるお母さんだったら良かったのに」ってつぶやいているんですけど、やっぱり、まわりから度々そういわれることも影響しているのかなと思って、なんかかわいそうになります。
高山
まだ小さいのに・・・
藤原
そう。だから自分もつらいし、娘も、「自分は、将来面倒みないといけないんだ」みたいに、きっと思ってるんじゃないかなと。
高山
藤野さんはいかがですか。
藤野
はい、私は子どもを産まなかったんですけど、よく周りから言われましたね。「子ども生んだら手伝ってくれるから、楽になるよ」とかね。何度も何度も言われました。「自分が楽するために子どもを生むんじゃないよな」とか思ったんですけど。それから、友達の話でも「私が子どもの手を引いているのに、子どもが“お母さんの手をひいて、偉いね”って言われる」って。よく昔はお金をもらったりね、子どもにね、物を買ってもらったり、っていうこともよく聞きますけど。
高山
お駄賃みたいにして、ということですか。
藤野
はい。
高山
藤原さんもやっぱりお子さんと歩いていると、そういうことありますか。
藤原
そうですね。保育園に連れて行くと、道を歩く人が「偉いね」って声をかけるんです。多分、私に言ってないと思うんですね。3歳の娘に言っているんだろうなと。私は3歳児に連れられているのかなみたいに思いますよね。

♪短い音楽