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盲ろう者が語る3.11

盲ろう者が語る3.11

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放送日:2017年3月12日
シンポジウム登壇者:小山(おやま) 賢一さん
笠井 実さん
八幡 (やはた)美知子さん
菅井 裕行さん(宮城教育大学教授)
高山 久美子(司会)

【テーマ音楽と、スタジオでのアナウンス】

高山
「視覚障害ナビ・ラジオ」。沈丁花の香りに穏やかな春の訪れを感じています。
いかがお過ごしでしょうか。高山久美子です。
東日本大震災から今月で6年がたちました。
目と耳の両方に障害があることで、
災害が起きても、その状況の把握さえ難しい「盲ろう者」。
今日の「視覚障害ナビ・ラジオ」では、盲ろう当事者に
震災の経験を語ってもらい、災害時にどんな支援が必要なのかを考えます。

【公開収録より・・・被災の状況について】

高山
まずは、震災の時の被災の状況をお話いただけますでしょうか?石巻市の小山さん、お願いします。
小山
はい。小山です。私は、地震が発生した当時、一人で自分の部屋におりまして、テレビを見ていたんですけれども、その時に、容赦ない、長くて強くて、これまで経験したことのない揺れが襲って来まして、建物ごとつぶされると思いました。いったん揺れが少し収まったタイミングがあったので、すぐ津波が来るかもしれない。避難をしなくちゃいけない。なんとか、状況をと思ったんですが、テレビもすぐに停電になりましたし、電話も、携帯電話も通じない、そして、防災無線も入らない状況になってしまいました。
見えなくても安全に移動ができるルートで高台に逃げようとした時に、父が迎えにきて、車で高台に一緒に避難することができました。私の自宅は津波により、すべて全壊、流出。土台だけが残った状況でした。あと少し遅れたら、また一人で避難をしていたら、ちょっと間に合ったかどうかわからないようなタイミングでした。
高山
ありがとうございます。郡山市の笠井さんは地震の時どのような状況だったんでしょうか。
笠井
娘と2人でコーヒーを飲んでいた時、突然激しい揺れが始まりました。食器棚であるとか、棚の上のものがすべて頭の上から落ちてきました。娘も、お父さん逃げよう!ってしがみついてきたんですが、とても逃げ出せるような状況ではありませんでした。
記録によれば、郡山は震度6弱で6分間揺れたことになっていますけれども、私には10分15分も続いたような気がして、とても生きた心地はしませんでした。
やっと揺れが収まって自宅の前の公園に娘とともに逃げました。自宅前の公園が緊急時の避難所になっていることは前もって知っていたからです。
公園には300人500人ぐらいの近所の方も集まっていたのですが、誰もが自分のこととか、家族との連絡に必死だったのだと思います。私と、娘に声をかけてくれる方は誰もいませんでした。防災無線は鳴っていても、私には何を言ってるかさっぱりわかりませんでした。
たまたま娘と一緒にいたのでなんとかなったのですが、目の前の状況というのが本当にわからないのに、苦労しました。ラジオを通じて、被災地の大変な状況が伝わってくる一方で、私の目の前に何が起きているのか、それがわからなかったんです。
高山
ありがとうございます。大槌町の矢幡さんお願いします。
矢幡
息子も息子の嫁も、家にはおりませんでした。一番上の孫がその時中3でした。2人で家におりました。地震が起きて、大きな地震にとても驚きました。孫に手を引かれて、とにかくその揺れが収まるのを待っておりました。家族全員は無事でしたけれども、大槌全体では千六百人もの人がなくなりました。とても悲しい状況でした。
地震が発生する前は、通訳介助に岡田さんという方が、様々な支援をしてくださっていました。盲ろう者友の会の交流会などでも連れて行ってくれたり、様々協力をしていただいていました。震災が起きた時に、家のことが心配で、慌てて家に帰ったようですけれども、そこで津波に流されてしまったのか見つからなくなりまして、盲ろう者である私を支えてくれる人がいなくなって、とても心配な時を過ごしました。岩手盲ろう者友の会の事務局をされている佐々木さんに相談しまして、隣の遠野市にいる方が支援に駆けつけてくださいました。遠くからわざわざ車で来てくれました。地震で病院も倒壊してしまったようですので、本当は病院に行く予定があったのですが、それもできなくてじっと我慢をしていました。