手話と口話-ろう教育130年の模索-

※手話をお使いになる秋篠宮佳子様
手話を使い、お言葉を述べる秋篠宮佳子さま。今、佳子さまのように手話を学ぶ人が増えています。
検定試験に申し込む人の数は、10年前の4倍、1万人にのぼります。
今年3月に始まったのが手話の歴史が学べるサイト。
貴重な文献や動画に気軽にアクセスできると話題になっています。
手話は、聴覚に障害のある子どもたちにとって、自然に身につけることができる言語。
しかし、ほんの十数年前まで、多くのろう学校では手話を使うことが禁止されていました。
20世紀はじめ、「口話」という新しいコミュニケーションの方法がアメリカから上陸。日本のろう教育の中心となっていったからです。
手話と口話。今回は日本のろう教育の辿った歴史を見つめます。
1878年、ろう教育を日本で初めて行った、京都府立ろう学校です。
ここに、貴重な資料が残されています。
指で表した五十音図。初代校長の古河太四郎が、当時「手まね」と呼ばれていた手話を元に考案した指文字です。
日本初のろう教育は、筆談や指文字、そして手話を使って行われていました。
しかし半世紀後、これに異を唱える人物が現れました。
後に「口話教育の父」と呼ばれた西川吉之助(よしのすけ)です。

娘の濱子は、3歳の時に「ろう」である事が判明。それを機に学校を訪れた吉之助は、著書に感想を記しています。
手話や筆談に頼らなければコミュニケーションができない濱子が人前に出ると、濱子は「唖(あ)」とさげすまれることでしょう。
私は愛する濱子に此の辱めを受けさせたくはありません。
「唖」とは、話すことができない障害を指します。当時「聞こえない」ことは、「話せないこと」であると考えられていました。
ろう教育研究家の坂井美恵子さんは、吉之助が「唖」という言葉を使った事にポイントがあると言います。

(坂井先生)聞こえない聾であるっていうことと、話せない唖であるっていうことは異なることだということに吉之助は気がつくんですね。それでは濱子をなんとか話せるようにすることで、濱子自身が社会に対して正々堂々とこう生きていける、そういう子供にしたいと
滋賀県の聾学校には、濱子の教育のために吉之助が集めた資料が残されています。
語学に堪能だった吉之助は、世界各国の文献を取り寄せ、むさぼるように読みました。
ろう教育の専門誌。「ボルターレビュー」。この中に吉之助が求めていたものがありました。

当時欧米で研究が進んでいた「LIP READING」。
後に吉之助が「口話」と名付けた、コミュニケーションの方法です。
「口話」は、口の形から言葉を読み取り、また、その口の形をまねることで言葉を発します。
吉之助は、日々、濱子と顔をつきあわせ、繰り返し口の形を真似させました。
うまく発音できないときは、濱子の口に指を入れ、舌を引っ張って動かし方を覚えさせたといいます。
濱子と実際に話をした人がいます。
檜山秋彦さん、74歳です。
濱子は女学校を卒業後、地元の幼稚園に就職。檜山さんは園児でした。

(檜山)
何より僕がしゃべっていることを必ず正対してごらんになりますね。やっぱり。それは何も違和感ないんですけど、じっと見て。ゆっくりと話しかけてくださったんですね。
(ディレクター)
聞き取りづらいとか?
(檜山)
それはなかったです。
はっきり分かりました。あの言葉の内容は全く普通の方が話しておられる理解度は同じですね分からないことは全くなかったです。
だから聞こえているんじゃないかっていう人がいたくらいです。

今回の取材で、貴重な資料が見つかりました。濱子の肉声が収録されたテープです。
濱子は42歳の時、聴覚障害児の親に向けて講演をしました。
(濱子)親の愛情というものには2つあります。1つの愛情は冷たい愛情。1つは温かい愛情、温かい愛情だけではダメです。子供の将来のためにも、我が子を突っつぱなすだけの冷たい愛情も必要です。
濱子は9歳の時には、人前で話をしていたと言います。
これに、あるメディアが目を付けました。
ラジオです。
耳の聞こえない少女の、健気で流ちょうな話しぶりは、大きな反響を呼びました。

(坂井先生)番組の司会進行していたアナウンサーが番組の途中から既に涙声で話している。子供たちの健気な姿ということで涙声で話をしているんですね。
本当に社会の聴いていた人たちが本当にびっくりしたようですよ。
こういうことができるのなら、なぜそれをやらないのかという風になるわけですよ。

1933年、ついに政治も動きます。
時の文部大臣、鳩山一郎は、全国のろう学校に口話の指導に力を入れるように指示します。これ以後、口話教育は全国に広まっていきました。
1962年放送の「テレビろう学校」。聴覚障害の子を持つ親に向け、口話の指導法を教えました。
口話教育は家庭でも重視されていたのです。
一方手話は、多くのろう学校で禁止されました。これは、口話教育の「教則本」として、教師たちが参考にした書籍です。
手話に対する差別的な言葉が並び
手話は口話の習得を妨げるものと
滋賀県に住む辻久孝(ひさたか)さん、57歳です。
2歳の時に聴力がないことが分かった辻さんは、幼稚部から高等部までろう学校で過ごしました。
辻さんが通っていた学校では、休み時間も手話が禁止されました。手話でおしゃべりしたい時は、隠れて使っていたと言います。

(辻さん)手話を使っているところを先生に見られた、厳しく怒られました。
手話ではなく口で話しなさいと言われました。
手話を使っているのが見つかって手をたたかれることもありました。
さらに辻さんを悩ませたのは、この頃、多くの学校で行われていた口話の指導。それは厳しいものでした。
(辻さん)特にカ行、カキクケコの発音は難しかったです。
どう練習するかというと、うがいをする時のように水を口に含んで飲み込まないようにしながら発音するんです。
のどのところに水を止めて、と言われ発音させられました。
口話は全然うまくできなくて、とてもつらかったです。
かつて口話ができないことは、本人の努力や能力に問題があるとされていました。
しかし、1980年代になると別の原因が分かってきます。
ろう教育に詳しい群馬大学の金澤貴之さんは、口話を習得するには条件が必要だと言います。

(金澤教授)聴覚障害者と言っても全く耳が聞こえない方っていうのはほんのわずかなので、残存聴力、それがどれくらいあるのかですよね。より聴力が活用できればできるほど、口話の獲得にはより有利であるということ。これがまず一番決定的ですよね。
そして二つ目として失聴の時期、いつ聴覚障害になったのかという時期です。ただ今はそもそも日本語を獲得した後で耳が聞こえなくなったようなお子さんは聾学校に来ることはほぼ無いんですけれども、一昔前であれば日本語が獲得できて、そのあとで耳が聞こえなくなった、学齢期に耳が聞こえなくなったお子さんも聾学校に来るということがあったので、そういったお子さんも口話法の成功例の一つとして数えられることもなくはなかったと。
口話法はそれなりに成果もあげていると思います。ただ口話主義に問題があったと言えるかなと思うんですよね。

一方、手話の禁止に関しても議論が巻き起こります。90年代、ろう者たちは、教育現場への手話導入を各地で訴えました。
2009年、ついに文部科学省は学習指導要領を改訂します。
手話を初めて明記。ろう学校でのコミュニケーション手段の一つとして認めたのです。
今、口話は、発音・発語の指導に代わり、障害のレベルに合わせて行われています。
(教師)声しっかり口の形もはっきりお願いします
そして教師は、手話を使って授業を進めます。
(子供)声で聞き取りにくかった事も、手話があったらわかりやすくなる。日本でろう教育が始まって凡そ130年。理想の指導を求めて、努力が続けられています。