【語り】高山久美子
「熊本県立黒石原支援学校教員に補する。」
4月、これまでほとんど例のない、盲ろうの教員が誕生しました。
橋本紗貴さん、24歳です。両耳はほとんど聞こえない重度の難聴。弱視と視野狭窄のため、見える範囲も限られています。手足にもまひがあり、自由に動かせるのは左手だけです。
かつては運動が大好きだった橋本さん。原因不明の難病に襲われ、絶望のふちに立たされました。
橋本紗貴さん
「今まで当たり前にできていたことが、ある日突然できなくなって、こんな不自由な思いをするくらいだったら死にたいって。」
それでも、教員になるという夢を抱き、数々の困難を乗り越えてきた橋本さん。その道のりを追いました。
熊本県南関町。
橋本紗貴さん
「こんにちは。」
2月上旬、橋本さんが暮らす実家を訪ねました。
父 正信さん
「今度、花子が産まれるたい。叔母さんたい。」
橋本紗貴さん
「まだ24で、おばさんはちょっとやだ。」
重度の感音性難聴のため、両耳に補聴器をつけている橋本さん。マイクで集音し、聞き取りやすく再生するスピーカーも使い、コミュニケーションをとっています。
父 正信さん
「反応がいいですね。やっぱりこれをつけたら、よく聞こえるみたいですね。」
橋本紗貴さん
「家族と他愛もない話をできるのがうれしい。輪に入っている感じがして。」
それでも体調によって聞こえ方が変わってしまうため、手話や指文字も身につけました。
Q:今はなんて話してたんですか?
橋本紗貴さん
「取材緊張してるよって言ったら、『私も』ってきて、マジかって。」
橋本さんは、5人兄妹の4人目。バドミントンや弓道などに打ち込む活発な女の子でした。
しかし、中学2年生の体育祭の日、突然 病に襲われます。神経の難病、ギラン・バレー症候群。橋本さんは、多発神経炎を併発。視覚、聴覚など、全身に障害が残りました。
橋本紗貴さん
「ずっと動けていたのに、倒れてから体の自由が利かなくなって、すごい悲しかったっていうのが最初の気持ち。なんで動かないんだろう、なんで見えないんだろう、なんで聞こえないんだろうっていうのがずっとありました。」
母 貴子さん
「もう死にたいって言ってました、ずっと。字も書けない、見えない。どうすることもできなかったですね。親は無力だなとつくづく感じました。」
自ら死まで願う絶望。不安ばかりの日々のなか橋本さんを支えたのは、家族やクラスメート、そして、当時の担任の先生の存在でした。
橋本紗貴さん
「中学の担任の先生がすごくいい先生で、できないところは手助けするけど、自分でできることはしっかり自分でやるっていう。障害のあるないに関係なく、一人の生徒として接してくださったので、その先生の考え方に出会ったからこそ生きてこられたのかなって思います。」
絶望を乗り越え、地域の高校へ進学した橋本さん。希望を抱いて入学した学校でしたが、苦しみを味わいました。障害のことを理解されず、周囲から心無い言葉を投げかけられたり、理不尽な扱いを受けることもあったといいます。しかし、それをきっかけに、ある決意を抱くようになりました。
橋本紗貴さん
「(入学して)半年たってから思いました。教師になろうって。私が教師になって、学校環境を変えたいっていうのが、教師になろうと思った大きなきっかけです。」
なんとしても教員になりたい。その思いで懸命に学び続けてきました。学校から出されるレポートや課題は、僅かに見えている視野と記憶を頼りにキーボードを使って作成。さらに、文章を点字に変換する機器を使い、間違いがないか確認してきました。
橋本紗貴さん
「『今日はいい天気です』って書いてあります。点字は独学でインターネットを見ながら勉強しました。」
橋本紗貴さん
「このまま見えなくなってしまうかもしれないという不安というか恐怖があって、点字を見えるうちから知っておけば、いざ見えなくなったときでも学びを止めなくていい、学び続けられる。」
さらに、活用しているものがあります。視線入力装置。体を動かさなくてもパソコンの操作ができる機器です。専用のカメラが視線の向いた先を判断。マウスの代わりを果します。弱視で見えにくい状態のなか、2年かけて操作を習得しました。
障害が進行し、いつ聞こえなくなるか、見えなくなるか分からない状況でも、「できる」ための方法を探し、教員になるという夢を追い続けてきたのです。
橋本紗貴さん
「病気で、できることが少しずつ減っていくなかで、できることも少しずつだけど増えていくっていうのって、前に進むためにはすごい大事だったなって思います。」
母 貴子さん
「すごい必死で勉強していました。びっくりするくらい。寝るのも惜しんで、ご飯食べるのも惜しんで、ずっと勉強していました。この試験に懸けるんだみたいな感じで、そこまでしなくていいんじゃないって思いましたけど。」
そして迎えた教員採用試験。結果は不合格でした。問題文の文字を見やすいものに変更してもらうなどの配慮が実現できず、実力を発揮しきれなかったのです。それでも決して諦めず、勉強を続けていた橋本さんのもとに、あるとき、障害のある子の親からメッセージが届きます。
「支援学校の先生になってほしい」
生徒の気持ちに寄り添い、可能性を伸ばす先生になって という声ー
多くのものを失った自分だからこそ、伝えられるものがある。橋本さんは教員になる決意を新たにしました。
橋本紗貴さん
「障害の無理解から、いろんな壁にぶつかってきたので、学校で勉強する生徒たちには学びやすい環境を整えたいっていうので、夢は諦められなかった。」
そして去年、再び挑んだ試験では必要な配慮を受けることができ、見事合格。追い続けてきた夢をかなえたのです。
4月1日
「橋本紗貴先生」
新任の教員として、辞令が交付されます。
「橋本紗貴先生、熊本県公立学校教員に任命する。熊本県立黒石原支援学校教員に補する。」
橋本紗貴さん
「初任で分からないこともたくさんあると思いますが、児童・生徒に寄り添い、児童・生徒のことを第一に考えられる教師になりたいと思っています。よろしくお願いします。」
橋本紗貴さん
「緊張した。無事に終わりました。」
母 貴子さん
「ようございました。」
橋本紗貴さん
「安心でした。」
学校から実家までは、およそ40キロ。当面は両親の送り迎えでの通勤です。
母 貴子さん
「教師として第一歩を踏んだ娘に対して、もう精いっぱいしてやりたいなと思います。」
家族の支えを受け、夢見ていた教員生活が始まるはずでした。しかし、この5日後、新型コロナウイルスの影響により、学校は休校を余儀なくされます。
そして、6月、休校明けの初めての授業。
橋本さんは、まず自分の思いを子どもたちに伝えました。
橋本紗貴さん
「大切にしていることは、感謝を忘れないこと。2つ目の挑戦し続けることは、できないって言って最初から諦めるんじゃなくて、どうしたらできるかなっていうのを考えて工夫しながら、いまやっています。」
そして、一人ひとりと積極的にコミュニケーションをとっていきます。
「ワンちゃんがうちにいて、かわいいです。」
橋本紗貴さん
「種類は?」
「パピヨン」
橋本紗貴さん
「パピヨンかわいい。」
何があっても諦めず、教員になるという夢をかなえた橋本さん。これからも、その道を切り開いていきます。
橋本紗貴さん
「いろんな事情を抱えた児童・生徒が通う学校なので、全部の気持ちは分からない。分かってほしくないと生徒も思うかもしれないんですけど、少しでも生徒の気持ちを理解して寄り添っていけるかなって、いま感じています。希望を与えられる存在になりたいというふうには思います。」