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ろうを生きる 難聴を生きる「サハリン“樺太”で生まれたろう者の戦後」※字幕

    かつて「樺太」と呼ばれ、日本が統治していたサハリン。そのサハリンで生まれ育ったろう者がいます。村川健雄さん、87歳。第二次世界大戦中に北海道へ。聞こえないため情報が得られず、時代の変化から取り残されて、故郷に帰れること知らないまま生きてきました。2019年6月、ろう者のNPOなどに支援され75年ぶりにサハリンへ…記憶をたどり故郷を巡りました。これまで語り継がれてこなかった「ろう者の戦後」を考えます

    出演者ほか

    【語り】高山久美子

    番組ダイジェスト

    故郷へ~サハリン「樺太」で生まれたろう者の戦後~

    北海道・宗谷岬の北、43キロ先にあるサハリン。ここを実に75年ぶりに訪れた、日本人のろう者がいます。

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    村川健雄(けんお)さん、87歳。この地で生まれた村川さんの、初めての里帰りです。

    NPO法人 UPTAIN 高波美鈴さん
    「よかった!見つかったね。」

    サハリンはかつて「樺太(からふと)」と呼ばれ、日本の統治下にありました。炭坑や製紙業で栄え、およそ40万の日本人が暮らしていました。その「樺太」で幼少期を過ごした村川さんは、第2次世界大戦中に北海道に疎開しました。終戦後、サハリンはソ連の支配下に。人の行き来は厳しく制限されてきましたが、1980年代以降は樺太出身者が訪問できる機会が増えました。しかし…村川さんはこれまで帰ることができませんでした。

    村川健雄さん
    「樺太生まれの人とは、聞こえる人とも聞こえない人とも会っていません。(知り合いは)もう皆さん亡くなってしまったし、サハリンに帰る方法は全く分かりませんでした。」

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    懐かしの故郷へ。ただその思いをかなえるのに、なぜこんなに時間がかかったのか?「ろう者の戦後」、その知られざる歴史を振り返ります。

    北海道の新得町にある、聴覚障害者のための養護老人ホーム。村川さんは4年前からここで暮らしています。面倒見の良い性格で、皆から慕われる存在です。もともと大工で、手先が器用な村川さん。古くなったシーツを同じ大きさに裁断し、ふきんを作る内職をしています。

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    村川健雄さん
    「(今回の報酬は1,200円くらいかな。時々、欲しいものを買っています。お菓子とかね。無くなったら、また仕事します。」

    1932年、村川さんは呉服店を営む裕福な家庭に生まれました。当時、樺太で唯一のろう学校に入学。親元を離れ、寄宿舎で暮らしました。そして第2次世界大戦中の1943年、11歳のとき、樺太を離れ北海道に疎開。終戦後の混乱の中、家具職人の見習いから始め、大工の道に進みました。手に職をつけて懸命に働き、北海道で2人の娘を育てます。その頃…、樺太出身の日本人は「墓参団」としてサハリンに渡り始めていました。情報誌やテレビからの情報、また仲間同士で声をかけあうなどして、一緒に故郷に向かったのです。しかし、日本語の文章が苦手で聞こえない村川さんは、その「情報」が得られませんでした。
    戦後、家族で撮った写真です。実は村川さんには、ここには写っていないもう一人の「家族」がいます。

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    すぐ上の兄が、村川さんが5歳のとき、樺太で亡くなっているのです。聞こえない村川さんの面倒をよくみてくれた兄。いつか故郷に行ってお墓参りがしたい―そんなささやかな思いを、かなわぬものとして心にしまい続けてきました。

    残留邦人の一時帰国などを支援してきた、日本サハリン協会。多くの樺太出身者を支えてきましたが、村川さんと出会うまで、当時、樺太に「ろう者」がいたことを認識していませんでした。

    日本サハリン協会 斎藤弘美会長
    「考えもしなかったことにショックでした。そういう方の存在を今まで考えていなかった。ポツンとひとりだけいるわけですよね。ずっとひとりだけポツンといて、今まで生きてきた。」

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    そんな状況を変えるきっかけを作ったのは、国際手話の普及活動を行う、高波美鈴さんです。

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    去年(2018年)の3月、国際交流のためにサハリンを訪問。その時の様子をSNSで発信すると…、それが偶然にも、村川さんの娘、早苗さんの目に止まりました。今はサハリンに行くことができる―その「情報」がようやく村川さんに届いたのです。高波さんは日本サハリン協会に協力を依頼。クラウドファンディングで寄付を募るなどして、里帰りを計画しました。

    渡航の5日前、村川さんの元に、娘の早苗さんがやってきました。故郷に帰る父のため、樺太時代の古い写真を持ってきたのです。懐かしの風景…。

    村川健雄さん
    「工場の前には川が流れていて、鮭がいたんだよ。」

    娘 川和早苗さん
    「え?お父さん釣りしてたの?」

    村川健雄さん
    「そうそう。」

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    川和早苗さん
    「故郷の景色は、すっかり変わってしまったみたいなの。」

    村川健雄さん
    「年をとったからなぁ、70年以上経っているし、もう忘れちゃってるかもな。でも写真を見て、少しずつ思い出がよみがえってきたよ。」

    日本人のサハリンへの渡航が盛んになった80年代後半から遅れること、およそ30年。ようやく村川さんの里帰りが実現することになりました。75年ぶりに帰ってきた村川さんを歓迎してくれたのは、現地のろう者たちです。滞在中の道案内なども買って出てくれました。

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    まず村川さんが向かったのは、母校の豊原盲唖(もうあ)学校。この辺りに校舎があったということですが…。草木が生い茂り、景色はすっかり変わり果ててしまっています。

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    周囲を探しまわること、およそ1時間。近くに住む現地の女性に話を聞くと…。

    女性
    「2年前に火災で無くなってしまったんですが、この場所に、とても古い廃墟のような建物がありました。」

    2年前まで、ここに校舎の一部が残っていたことが分かりました。

    NPO法人 UPTAIN 高波美鈴さん
    「よかった!見つかったね。」

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    高波さんと、ここまでたどりつけた喜びを分かち合います。

    村川健雄さん
    「ありがとうございます。」

    渡航3日目。村川さんは、生まれ故郷のマカロフ(知取)を訪ねました。

    村川健雄さん
    「あれあれ!あの煙突。」

    「川は同じだ!」

    幼いころの思い出が鮮明によみがえります。

    村川健雄さん
    「向こうの川岸で魚釣りをしていたんだ。糸を垂らしてリールを巻き取って、大きな魚を釣ったんだ。」

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    さらに村川さん、何かを思い出したのでしょうか?道なき道をどんどん奥へと進みます。現れたのは、古く朽ち果てたコンクリートの建造物。

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    村川健雄さん
    「あった!あった!これがここにつながってたんだよ。」

    巨大な建物の先端は、川までつながっていました。この川は、当時、紙の材料となる材木が集められていたところ。製紙工場まで木材を運ぶ、トロッコのレールが残っていたのです。記憶と風景が完全に一致しました。「自分は今、確かに生まれ故郷に立っているのだ」という感慨があふれます。

    村川健雄さん
    「見つけた、やっと見つけた。」

    そして、今回の訪問の一番の目的。それは、樺太で亡くなったお兄さんのお墓参りです。当時のお墓は、もう残っていませんでした。しかし、日本人の共同墓地で兄は安らかに眠っているはずだと、村川さんは確信していました。

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    これまで見過ごされてきた「ろう者の戦後」。75年の時を経て、ようやく村川さんの人生が一本の線でつながりました。

    村川健雄さん
    「樺太生まれだという思いを、心の深いところに強く持っていました。ここで暮らしたこと、故郷の記憶に触れることができました。サハリンに来られてよかったです。ありがとうございます。」

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    樺太出身のろう者を支援するプロジェクト。その取り組みは今も続いています。

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