藤彌 葵実

生きるのが苦しいと感じたとき

「周囲に合わせるようになった就活時期」

家にお金がなくて、東京の大学とか行けないよって言われてたから、諦めて地元の大学に行って、就職も、自分が何がやりたいかじゃなくて、周りが「これが良いんじゃない?」っていうことを信じてというか、そっちに寄って。
文章を書くのが得意だった。でも「出版社とかは儲からないから」っていうことで、じゃあプログラムのコーディングというところで文章を書こうかな、みたいなことでシステム開発会社にして。「東京の方がいい」っていうイメージだけで東京の会社にして。でも「システム開発会社は福利厚生が良くない」って言うから、福利厚生が良さそうな製鉄会社系のシステム開発会社に入ったり。なんか全部、そういう基準で選んでましたね。

就職活動のときも、最初はレディースのパンツスーツで行って。でも、すごい面接の合格率が低くて。人間って第一印象は「視覚が何%」「言っている内容が何%」とかいう法則があると思うんですけど、第一印象でしか見ないから、面接は。「やっぱり第一印象がいい方がいいんだろうな」っていう理由で、スカートのスーツに変えて就職して。
そういう積み重ねなんだろうな、と思って。自分の好きなこととかやりたいことを選ぶよりか、そうじゃないことを選んだ方が周りに褒められるとか、認められる、みたいなところで、やりたいことはやらないとか、したくないことをする、みたいなのを選ばされちゃってたんだろうなって思います。

結局そのまま、俗に「こういう新人女性社会人がいいよね」って言われるような、「愛想がいい」とか「飲み会によく行く」とか、何でも「そうなんですか」「すごいですね」「わかりません、教えて下さい」っていう、そういうイメージに寄せよう寄せようとしてましたね。

「男女で区別する社会への違和感」

多分、幼少期からそういうのが積み重ねであって。例えば、ウルトラマンの方が好きだったら「女の子なのにウルトラマンなの?」とか、「ジャンプじゃなくてリボン読んで」とか。「制服はズボンじゃなくてスカートで」「就活ではこういうメイクして、こういう髪型で、こういう服装で」とか。そういう社会のルールみたいなのを頑張って守ってきて、それが“ちゃんとした人”だ、みたいなイメージがあって。

アセクシュアル(注1)に関しては、大学生のときには辿り着いてた概念ではあるし、でも、アセクシュアルとかって言わずに生きた方が、ちゃんと生きられるんじゃないかって思って否定してた時期があって。例えば自分がアセクシュアルだって言ったら、社会からは誤解されるんだろうな、嫌なこといっぱい言われるんだろうなって思ってて。実際、私が「アセクシュアル」とか「Aジェンダー(注2)」とかって言ったら、「そんなこと言わなくてもいいのに。別にふつうだよ」「気にしすぎだよ」って言われたりするので。

(注1)アセクシュアル…性的欲求を抱かないというセクシュアリティ。ここではアロマンティック・アセクシュアル(恋愛感情を抱かず性的欲求を抱かない)の略。

(注2)Aジェンダー…自らを性別で区別しないというジェンダーアイデンティティ。

「新卒でシステム開発会社に就職したころ」

就職して2年ぐらい経ったときですかね。メイクしたりとか髪も長くて、いわゆる“女性”的な感じで仕事をしてたんですけど。同僚の人とかと飲みに行ったりもしてて。でも、2人で飲みに行ってた人に迫られて、地下道で、トイレの方にちょっと、みたいな感じで引っ張り込まれそうになって。拒否をしたんですけど、次の日、会社に悪いうわさを流されていて。
相手は多分「セクハラした」って言われたら困るから、「何もしてないのに『セクハラした』って言ってくるからあいつやばいよ」みたいな話をしたんじゃないかなと思うんですけど、みんなすごい素っ気無くなってて。
いろんな人に相談したりしてたんですけど、「仲良さそうだったじゃん」「2人でよく帰り道ご飯食べてたじゃん」「気を持たせないように、異性との距離感はやっぱり気を付けないとだめだよ」みたいに言われて。

じゃあ同じようなことが起こらないようにするためには、異性―男性とされる人全員と距離を置いて、なおかつ友好な関係を築き、仕事上は仲良く、いい上司と部下で、にこやかで愛想いい方が良いって言われるし。でも、好かれたらダメなんでしょう?みたいな。
こんだけ“ちゃんとした人”になろうと思っていろんなルールを守ってるのに、またルール追加されるのか、って。しかもそのルール自体が、私にとってすごく矛盾してる。「人とは仲良くした方がいいけど、仲良くしすぎるとダメ」っていうこの矛盾したルールが、またさらに追加されたっていう感じで。何なんだろうな。なんか、無理じゃんって。

私も結局、ふつうにちゃんと見られるとか、初対面で印象が良いとか、そういう方が人に嫌われないし、良いんだろうなって思ってたんですよね。服装にしたって、振舞い方にしたって。でも、だんだんそれをしてるうちに「私じゃなくても良くない?」って思ってきて。
ふつうにするとか、第一印象良いとか、私はやってて苦なんだけど、頑張ったところで“どこにでもいる誰かさん”でしかなくて。でも、その“どこにでもいる誰かさん”になるために私はすごい嫌な思いをして、自分のことを否定して、自分のやりたいものとか、着たい服とかを着ずに頑張ってる。でも、この頑張ってるのって誰も知らない、みたいな。みんなそうやって生きてるんだろうなって思ったけど、私はそれで生きてるのは嫌だなって。

みんなから受け入れられるための努力って多分永遠に終わりがなくて。「気を持たせないようにしないといけない」っていうのが、限界ラインだったんだと思うんですけど。あれもこれもそれも言う通りに頑張ってきたけど、だからって社会から守られるわけでもなく、結局さらに負担を増やされるだけ。なんかなぁって思って。

「社会人はストレスに耐えられないとダメだ」

「この毎日を60歳までできないな」って思ったのが一番大きかったですね。朝起きて。狭い部屋で。満員電車乗って通勤して、服装とかもまあよくあるOLみたいな感じで、メイクも一応して、職場では誰とも挨拶をせず、「気を持たせないように」っていうルールに縛られて。でも私の中ではもう片方のルールとしては、仕事もちゃんとして挨拶もした方が良いっていうルールもあるし。そこで身動き取れなくなって。身動き取れないながらも明日は来るから、家帰って寝て明日また行くんだけど、「え、これを60歳までやるの?」みたいな。

生きるって結局、プラスマイナスだとマイナスにしかならないなと思って。たまに美味しいもの食べたり、楽しいことをしたりしても、そのときは面白いけど、でも会社行って稼いでるから美味しいご飯が食べられるわけで。会社行ってお金稼ぐということは、嫌なこともやらないといけないわけで。で、この嫌なことやらないといけないとか、ストレスに耐えるとか、嫌なこと言われても笑う、みたいなのが、社会ではよく言われますけど「社会人はストレスに耐えられないとダメだ」っていう話になるから。
「そんなもんだよ」とか「みんな、めんどくさいけど毎朝メイクしてさ、好きな格好じゃないかもしれないけど印象が良い格好選んで、そうやって生きていくのが社会だよ」みたいなことを言われるから。こんなストレスを抱えて、じゃあこのストレスはなくならないんだなぁ、と思って。夜寝て、朝目が覚めたら人生最後の日だったらいいなって思っていました。タイムスリップしたいなって。

それでもいま生きている理由

「縁のない地方に引っ越し 転職」

もう生きていけないな、みたいな気持ちになって。でも「会社辞めても、どこ行っても同じだよ」って言われたりとか。「3年も経たないうちに会社辞めて、次行っても無理だよ」「再就職にも都合が悪いよ」とか。いろんな選択肢が潰されていって。
いろんな可能性をふさがれていった結果、「死ぬ」っていうところに辿り着くんですけど、でも、「死ぬ」も選択肢として選べなくて。
じゃあ自分はどういうところならぎりぎり生きていけるんだろうか。本当はすごい良い人がいて、良い仲間に出会って、良い職場に出会って、とかっていうのが理想ですけど、そういうのはもう期待できないことなので、自分の力で何とかできることって言ったらまず、広い家に住む。
自然豊かなところに住むとか、通勤時間が短いところに住むとか。あんまり残業多くなくて、満員電車に乗らなくていい。人混みに揉まれなくていい、とか。今感じているストレスで、自分で解決できるところを考えていったら、じゃあ田舎に行って、生きていけるだけの給料稼いで、1人で引きこもって暮らす。“隠居する”ならできるかなと思って。人の少ないところを選んで引っ越しました。全然隠居になってないんですけど、結果的には。
最初は本当に、頑張らない。とりあえず、自分を生かすことだけを考えて生活できればいいかなって思っていました。

誰か人に頼るっていうところも選択肢に入っても良かったかもしれないけど、そのときの私の心理状況もあったのかもしれないですけど、なんか誰に言っても解決しないって思っていて。だから、人っていうのはもう期待ができないんだなって思ってました。
環境変えようって思ったときは、生きていけないっていうレベルだったので、「嫌なことあっても生きていけさえすればいい」と思ってました。給料は低くなるとか、めちゃくちゃ嫌な人がいっぱいいる地域かもしれないとか、食べ物に困るかもしれないとか、それは全然不安としてはあるんですけど、「でも、今よりは良いでしょ」っていう気持ちでしたね。

「髪を短く切ってみた」

引っ越してきてからも、いろんなことをやってました。服装とか髪型とかは、あんまりすぐには変えられなくって、やっぱりまだ「ここまでしたらダメだ」みたいなラインが高くて。私の中で。美容室とかでも「短くして下さい」って言っても、本当は「見せた写真と全然違うじゃん…。」って思ってるけど、「ここ、丸くかわいく作っときましたんで~」とかって言われて、「あ、そうなんですか…。」って。

「女性」に見られる人が、メンズの髪型するとダメなのかな?とか、すごい思ってしまってたんですけど、最近は「いいや!」と思って。「ちょっと攻めた髪型にしたいんで、これ、ぎりぎりまで切って下さい」「メンズのやり方で切って下さい」って言ったら、「メンズはねー、ここはストレートに出して…」みたいな。やっぱ切り方が全然違うんですよね。なーんだ、って。今までずっと頑張って、何て言えば切ってもらえるのかって思ってたけど、「メンズ」って言っただけで解決したな、とか。

全然それが周りに受け入れられたとかじゃないんですけど。髪を切ったら切ったで、「長い方が良かったのに」「女の子なんだけぇさぁ」って言われたり。恋愛とか結婚の話も「恋愛、結婚、しません」って言ったら、すごい説教されたり。「人口減少なのに」とか「少子高齢化についてどう思ってるのか」とか言われたりして。
その点で言うと、何にも言わずにふつうっぽくしてた方が、そういう嫌なこと言われずに済んだのかもしれないんですけど。まあでも、言われたところで何とか生きていけるというか。

「自分のジェンダー・セクシュアリティについて語るようになった」

「町の人が良いからセクシュアリティについてオープンになれたんだね」とかって言われるんですけど、それは全然無くて。どっちかというと、この人たち、こんなに良い人で、ご飯食べさせてくれるっていうことは私のこと嫌いじゃないはずなのに、何回言っても私のことを全否定してくるなって思って。
「結婚するつもり無いです」ってちゃんと伝えていても、「結婚した方がいい」「結婚しないと不幸になる」とか。でもご飯は一緒に食べる、みたいな。これは何なんだろう?!って思ったときに、やっぱりその「男女」とか「結婚する」とか「恋愛する」っていうことを前提とした考え方があって、それが染みついているというか。嫌な人だからそういうこと言うんじゃなくて、何かそういうセクシュアリティとかジェンダーの感覚があるから言うんだな、私と齟齬があるんだな、っていうふうに理解していった感じですかね。

ボランティアで夜中に集まって神楽の練習とかしてて。すごくないですか?(笑)私、お金も払わないのに、いろんなサークル活動ができてるし、悪い人たちじゃないんだろうな、と思って。それまでは、職場辞めたりとかしたら、それで終わっちゃうから、わざわざ関わっておんなじ時間を過ごすっていうことがないんですけど、田舎はそうじゃないので。嫌いでも無理やり一緒に過ごさないといけない時間があって。(笑)そこで解消していったっていうのはあるかもしれない。

知識を得たっていうのも大きいかもしれないです。ジェンダーとかセクシュアリティについて調べて、実際「男女」って言っても、女性ホルモンが多い人・少ない人とか、男性ホルモンが多い人・少ない人、がっしりした体つきの女性、華奢な男性、とかっていうグラデーションがあるわけで。決して「男」と「女」だけではないし。身体のつくり自体、そういう概念なんだなと思って。
セクシュアリティについても、アセクシュアルもいれば、グレイセクシュアルとかデミセクシュアル、リスセクシュアル(注3)とか…。同じようにロマンティックについても、アロマンティック、グレイロマンティック、デミロマンティック、リスロマンティック(注4)…いろんな言い方がありますけど。色々調べていった結果、「あ、いっぱいあるじゃん」と思って。

世の中で言われてる「男女だったら好きになるでしょ」とか、「女の子なんだし仕方ないんじゃない?」とかっていうのは全然本当のことじゃなくて。それこそ迷信みたいな、事実じゃない思い込みなんだなぁって思えるようになって。

(注3)さまざまなセクシュアリティについて
グレイセクシュアル…稀に性的欲求を抱くというセクシュアリティ。
デミセクシュアル…強い絆や親密な関係がある相手に性的欲求を抱くというセクシュアリティ。
リスセクシュアル…他人に性的欲求を抱き、かつ他人から自分へ性的欲求を向けられることを望まないセクシュアリティ。

(注4)さまざまなロマンティック(恋愛指向)について
アロマンティック…恋愛感情を抱かないセクシュアリティ。
グレイロマンティック…稀に恋愛感情を抱くというセクシュアリティ。
デミロマンティック…強い絆や親密な関係がある相手に恋愛感情を抱くというセクシュアリティ。
リスロマンティック…他人に恋愛感情を抱き、かつ他人から自分へ恋愛感情を向けられることを望まないセクシュアリティ。

「社会を言い負かさなくてもいい」

なんか、1人1人考え方が違っていいじゃんって。今まではそれを自分に当てはめてなかったんですけど、当てはめられるようになったっていうところはあるかもしれないです。
「結婚しないと幸せになれないよ」って言われたときに、「そういう人もいるかもしれないし、そうじゃない人もいますよね」って。「私は別に今のままでも幸せです」とか、それが一意見として良いんだ、って思えるようになったというか。
社会が男女を前提としてたりとか、異性恋愛を前提としてたとしても、その社会を言い負かせないと自分の意見を言っちゃいけないわけじゃなくて、自分は自分の意見として言って良いんだなって。当然っちゃ当然のことなんですけど。

やりたくないことをやるとか、やりたいことをやらない、思ってないこと言う、みたいなのって、自分が思ってるよりストレスなんだなって、死にそうになって初めて気付いたので。
自分の意見を言わないとか、自分の意見じゃない意見を言うっていうのは、1回自分の中で自分を否定しちゃってて。それが積み重なるともうずーっと自分を否定する。もう生きてても仕方ないなってなっちゃいそうで。生きるために、自分の意見を言ってる気がします。

「社会の声より 自分の声を聞く」

「行きたくなかったら休んでもいいよ」とか、「ご飯食べたかったら食べればいいし、めんどくさかったら寝てていいよ」とか。自分に「どうしたい?」って1回聞く、っていうのをやってる気がします。「お菓子食べたい」だったら「お菓子食べていいよ」って。お菓子食べてる間は生きるっていうことをしてるっていうことなので。なんか、延命してるなっていう気分になります。
あと猫をかわいがると「いっかな」ってなる気がします。猫は、私に「結婚しろ」とか「散らかってるぞ」とか、男だとか女だとか言ってこないし。「遅刻したらダメだよ」も言ってこない。猫って別に、私に何かを求めたりしないんですよね。自分が「ご飯食べたいです」「あったかいところにいたいです」とか。やりたいことをやってるな、嫌なことはやってないなって、猫見てると思うので。そういうところもすごく気が楽になるのかなと思います。

意外と、他人だったら簡単に味方になれるんですよね。「いいじゃん、髪切ったって。切りたいんでしょ?切ったら?」って。「そんな死にたくならなくてもいいよ、別に好きに生きたら」って他人だったら言えるのに、自分だと全然言えない。社会から言われる言葉を、自分の言葉にしてしまって、自分で自分を否定してた。
「それじゃダメだ」って今まで思ってたけど、「社会の声ばっかり聞いてたら生きていけないよ」って、ちょっと自分を客観的に見て。そういう、社会の声ばっかり聞いてたら生きていけない人を、どうやって生かし続けていくのかっていうのを考えたときに、じゃあやっぱりこの人の声聞いて、何がしたいかを聞いて、やってあげなきゃこの人は死んでしまうなっていう、そういう判断基準になったのは大きいかもしれないですね。もっと自分を他人だと思って、甘やかしてかわいがったらいいなって。

自分にとって自分が敵だったら、社会も全部敵だし、自分が自分にとって味方だったら、一応、味方はいるし。社会の中でも多分、1人とか2人は味方になってくれる可能性があるから。

藤彌 葵実

町役場に勤務。3匹の猫と一緒に古民家で暮らす。
セクシュアリティは「Aジェンダー・アロマンティック・アセクシュアル・クエスチョニング」。

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