小林 美穂子

生きるのが苦しいと感じたとき

なんか、現実っていうものと向き合わざるを得なくなったのが高校生ぐらいのときで。それまでは、まあまあかなと思っていた自分の成績とか、人付き合いとかが、どうも厳しいのかなというふうに思い始めた。すごい成績悪かったんですよ。高校受験までは何とかなったんですけど、その後がひどくって。このままいっても、ぱっとした人生にはならないんだろうなーっていうのが薄々分かり始めたころですかね。勉強しても全然できないし、勉強の仕方も分からないし、果てはどこが分からないのかすら分からない状態になって。いつも学校でぼんやり外を見ているような。歴史の教科書も、歴史上の偉人の顔に片っ端から落書きしてたりとか。そういう「小学生かよ」っていうような有り様で。友だち付き合いとかも、自分が一人浮いちゃう感じになっているのに自覚し始めたのが高校ぐらいですよね。

「周りから浮いてしまう」

高校のとき、必ずみんなセットで、2~3人で組むじゃないですか。1人になるのを怖がって。それにはあぶれずに何とかやってはいるんですけども、なんか、浮いちゃうんですよね。浮きたくないって思っても、自然にぷっかり浮いちゃうところがどうしてもあって。なかなかそれを人にも言えないし、自分のこの生きづらさって何だろう?というのは、自分でも正体が分からない。ただ、どうも原因は自分にあるんじゃないかと思うので。だから、クラスの人気者の笑い声を真似てみたり。あの子みたいになりたいという子がいて。「何で私はあの子じゃなくて私なんだろう」って悶々と考えたり。

例えば、先生の暴力に対してみんなで一斉に怒ろうってなっても、怒りを収めるときっていうのは空気で決まっていて、それを私は分からないんですよ。気が付くと私一人が怒っていたりして。さっきまで一緒に、教室を全員で飛び出して抵抗したりしてたのに、みんな今はもう懐柔されてしまったんだっていう、そういうのが分からないんですよね。空気が本当に読めなかったんでしょうね。「まだ言ってるのはお前だけだぞ。見てみろ」って先生に言われて周りを見ると、みんな下向いてシーンとしてたりとか。そういう、「またやっちゃった」っていうことが多かったですよね。高校になると、どうもそういうところがダメらしいって分かってきて、人前では普通通りに一生懸命寄せているけれども、一人になるとすごくいじけてたり。何でそれが自分にはできないのか。みんな元々備わっている機能のように、一糸乱れぬ動きができているのに、なぜ私はそれができないのかというのを、自覚し始めるのが高校生ぐらいのときですね。

自分は生きててもこんな感じで、これがずっと続くんだろうか、という漠然とした不安感。将来どうなるかとか、今後どういう人と会って何があって、というのは全然分からなくて。その本当に小さい世界の中で、これが全てに違いないって思ってしまうので。なんか生きてて楽しいことあんのかなぁっていう。これが私の限界だとしたら、なぜ人は生きているんでしょうねっていうふうな考えになってしまって。

よく、つらいなあと思うときは学校に行かないで、行く途中にあった小さい神社で大きな木の下のブランコに乗って、色々考えたり。木の下にいると、とても落ち着くというか。言葉には出さなくても考えていることを吸い取ってくれるような、そんな気持ちがして、その神社にはよく通っていました。
で、午後になって学校に行くと、先生に辞書で頭を殴られるっていう(笑)。和英と英和の2冊で、ドンッてやられて。そんな時代でした。

「当時 見えていたのは“ぱっとしない未来”」

ぱっとしない未来。本当に、先の見えた未来っていうんですかね。「つまんないだろうなー」って、思いました。子どもっていろんな夢を持つじゃないですか。若いころ、あれになりたい、これになりたいという希望を持ちますけれども、そうは言っても「そのどれも叶わないんだろうなー」って。本当にすごく平凡な、間違いなく平凡な一生を私は送るんだろうなと思っていました。20歳ぐらいまでずっと、それ以外の道ってこのままだとないよねって思っていました。確信、みたいな。

平凡で面白くないっていうのは、今思うとすごい偏見なんですけど。当時の私の中の「平凡」は、その地域で暮らし続けて、身近な人と結婚して子供が2人いて、専業主婦っていうようなイメージで。でも今考えると、それってかなり幸せなことだったり、平凡なんてものはどこにもないっていうふうに思うんですけれども。

「就職して出会った“主流”ではない人たち」

短大を出て地元に戻って、小さな会社に勤めたんですけど。まあよくよく思い返せばパワハラとセクハラの祭り状態で。本当は、1人1人糾弾していきたいぐらいですけど、お金を貯めるために働いているって割り切っていたのもあって。
自分に害を与える人たちもいるんだけれども、すごく面白い人たちもいて。工場でずっと缶詰を作っているおじちゃんとパートのおばちゃんたちとか。警備員の人とか。いつも売り上げが悪くて怒られている営業の窓際な感じの人とか。社長秘書とか。いろんな事情を抱えた方だったりしたので、そういう人にすごく興味があって。ちょっと“主流”から外れている人たちですよね。そういう人たちにすごくなついて、かわいがられてました。

そういう人たちの、“主流”から外れていて誰も関心を示さない人たちの持っている意外な素顔っていうのが本当に、ずっと忘れられないぐらい印象深くって。ものすごく怖い顔していつも誰ともしゃべらない警備員のおじさんが、実はバラ栽培が趣味で。誕生日に立派な紫のバラを2本くれたりとか。私、バラの香りがすごく好きで。もう本当になんてカッコいいんだろうって。その人の会社で見せている顔と違う顔っていうのがすごく魅力的で。あるいは、みんなから恐れられている秘書がどんな人生を歩んできたのかとか。そういうところがすごく、なんか無下にはできないというか。大切なものなんだろうなと、そこはかとなく私は感じていたと思います。

それでもいま生きている理由

「お金を貯めてニュージーランドへ留学」

そのころに、ようやくやりたいものが分かり始めて。私は外国部というところに配属されたんですけれども、実際は英語が全然できなくって。英会話学校に通ったりしながら、少しでも仕事の枠を広げたいって思って。一生懸命、仕事する傍らバイトしたりしながら資金を貯めて留学した。

海を越えたら、もう劇的に変わったんですよ、生きづらさが。全ての鎖ががらーんと落ちたような、そのぐらいの解放感があって。生きづらさというのは全然感じなくなったんですよね。誰かに寄せようとしたり、周りに合わせようとしたりしないで、自分のままの方がかえっていいんだ。別に変えなくていいんだって。イエスでもノーでもない、みたいなことを言ってると「どっちなんだ!」ってみんながイラついたりして。海外に出てから、あの人を喜ばせよう、とか周りに合わせるんじゃなくて「自分の意見を言えるようにしろ」っていう教育をされるようになって。
「なんだ良かったのか、自分のままでいいんですか」って。そこから空っぽになった自分をまた詰め直す、一回外に出したものを詰め直す、みたいな作業が始まっていくわけですね。「何でもソーリーソーリー言うのやめろ」って言われて、そこを矯正し始めたり。日本に染まったところを、今度は削いでいく作業が海外で行われて。

「帰国後の危機 かけつけた親友」

ニュージーランドでホテルの勉強をして、現地のホテルで働いて、オペレーションを学んだ上で日本に帰ってきて、同じ系列のホテルで働くようになりました。そこがもうひどい会社で。半年で体調崩しちゃったんですね、まっすぐ歩けなくなって。

本当に絵に描いたような“名ばかり管理職”で。生活するのがやっとのお給料で、ものすごく働かされる。その仕事の内容がすごく緊張を伴う仕事が多くて、それで具合悪くなって。でも私の中では、何とか半年間だけでも頑張ることが美徳だと信じていたので。「歯を食いしばってでもいたら、もしかしたら事態は変わるかもしれない」、「どんないいものも悪いものも、ある程度見極めるには時間が必要だ」と思っていたので。一生懸命、カレンダーに毎日バツつけながら、頑張っていたけれども、好転するどころかどんどんひどくなっていって。もう月曜日が嫌で嫌で、金曜日大好きで、土日休むと日曜日の夜って最悪なんですよね。どうしても眠れないから、お酒を飲むようになって。

あるとき、本当に本当にもう嫌で。死にたいわけじゃ全然ないんですよ、死にたいなんて全然思っていなくて。ただ、朝がくるのがもう怖すぎた。怖すぎて、ありとあらゆるものを飲んでしまったことがありました。
友人と同僚に電話してるんですよね、真夜中に。私は病院に運ばれて。何日か寝続けるっていうことはありました。

後から母親に、電話をかけた友人が大阪から駆けつけてくれてたっていうふうに聞いて。2歳年上の友人で、ニュージーランドで一緒に勉強して、姉妹みたいにいつも一緒にいた。でもおかしいのは、私は意識がなかったはずなのに、朝一番の電車で来た彼女が、廊下を小走りにね、すごく困惑した顔で、弱ったなあって顔しながら心配そうにあの廊下をこっちにやってくる映像の記憶が頭にあって。でも、私は寝てたはずなのに。母親に「いつ帰ったの?」って聞いたら、「その日のうちに帰ったよ」って言うから、私は全然気がついていない、会っていないんだよなって思うんですけども。

私はその彼女の姿に、今も支えられていて。なんか嫌なことがあったりつらいことがあったりすると、いつも思い出すのは、暗い廊下を小走りに、参ったなあって心配そうに「美穂子さん、美穂子さん」って言いながら走ってくる、彼女の小さい姿なんですよね。その姿にずーっとその後の人生支えられているような気がしています。そのイメージに。不思議です。すごいリアルに残っているんですよね。

「生活に困窮する人の支援活動との出会い」

なんか全ては偶然のように思うんですが、通訳の仕事を経て中国語を学ぶため上海に住んでいたときに見た、年末の年越し派遣村の映像で、初めて「貧困」というものが日本にあるというのを知って。それで、ちゃんと知ろうって思ったのが、きっかけと言えばきっかけですかね。本を取り寄せて読んだり。だんだん日本に帰ってくる度に、それまで全く気になったこともなければ、そこに存在していたのも気がつかなかった路上にいる人たちが、目に飛び込んでくるようになった。それで、ちゃんと知りたいなって思って、そのままずるずるずると12年、支援活動に携わるというかたちになっています。

ここはやっぱり、“主流”とは言えないじゃないですか。生活に困窮してしまったり、路上生活を送っていたりする人っていうのは、日本の社会から「規格から外れた」とされてしまった人たちでもあるわけですよね。そういう人たちの人生だとか、人となりだとか、いろんなことを知るのが、またこれが尽きぬ楽しさ、尽きぬ興味深さ、味わい深さがあって。全然飽きることがないなって。

彼らの生活のお手伝いだとか、居場所作りとか、そんなことをやっているわけですが、よくよく考えてみたら、私の居場所になっていたんじゃないかって。彼らを支援しているように見えて、実は彼らに支えられてもいる。その彼らに許されてもいる自分。未熟な人間である自分を、許してくれる人たち。何回ミスをしても、お互いにミスを重ねながら、一緒に時を過ごしてくれる、生きてくれる人たちがいるっていう、そういう場所を、私が求めていたんだなと思うくらいに、ここは楽なんですね。彼らに特別な作り笑いをする必要もないし。無理をする必要もないし。自分のままで生きることを許される環境はここだったってすごく感じているし、一緒に生きられることがとても楽しいですね、毎日。大変なことも沢山あるんですけども、それはまあお互い様だなって感じています。

「元当事者の人たちと共に働くカフェ」

私はいま、色々あって路上生活を経験したり、フルで働くのは難しいかなって人たちの就労の場であり、地域の人たちやさまざまな背景を持つ人たちが交差する居場所でもある「カフェ潮の路」のコーディネーターをしていて、そこでご飯も作っています。安全で安心で、栄養満点の旬の食材を前に献立を考えるのは楽しいです。みんな、気持ちいいほどキレイに食べてくれるんですよね。晴れ晴れしい気持ちになります。大好評なのは、ご自身も支援に走り回り、活動をずっと応援してくれている枝元なほみさんのレシピ。今日作った参鶏湯は、大阪でシングルマザーの支援をしている方から教わりました。食を通じて、お客様と時間を重ねる場でもあります。その日のランチの感想を言い合ったり、健康を気遣ったり、冗談言ったり、からかわれたり…みんなで笑っているうちに一日が過ぎていきます。

苦しかった あのころの自分に伝えたいこと

「びっくりするよ!」って(笑)。「相当びっくりするよ」って言ってあげたいですね。あなたが「これが全てだ」って思っていることが、いかに軽く崩されるかっていうことにあなた自身相当びっくりするよって。平凡ではないし、平凡なものは、つまらなくもなかったし。平凡はとても幸せなことだったり、愛おしいものだったり。平凡をだめなもの、つまんないものって思っていたところからして「そういうとこやぞ」って思いますよね。あなたが全てだと思っていることは、すごく小さい世界で起きていることで。時に耐えられなくなったり、これがずっと続くぐらいならって思ったりするかもしれないけど、予想外のことは、生きていると結構たくさん起こる。いいことばかりではないんですよ。とんでもなく悲惨なことも起きるし、悩みも歳をとればとるほど重いものもやってくる。

ただその中で、自分が出会うと思わなかったような人たちと出会えたり、気の合う友だちができたり、あるいは本当に憎らしい人ができたり、色々する中で、あなた自身結構力をつけていく。その日々を歩く力をつけていったり、鈍感力を身につけたり。見る目を養ったりしていく。パワーアップしていくから。「絶対に乗り越えられない」と思っていたものを、意外に乗り越えていきましたよって。

あなたは「30過ぎたら死ぬ」とか思っていたけど、いい歳した、それから23年以上生きたあなたは、すごく満足しながら、毎日毎日の変化を楽しみながら、あなたが「どうしてああいう人たちはそれでも生きているんだろう」って思っていた人たちと、毎日を歩んでいますよ、っていうのを伝えたら、どんな反応するでしょうね?「え?何それ?!」って。

今のあなたの世界の中では想像もつかないことが、人生では起きる可能性がある。起きない可能性もあるけれども。それは、生きてみないと分からない。あのとき、うっかり死んじゃわなくて良かったなぁって思いますね。あの地獄が永遠に続くんだと思ったら本当に、とても生きる希望なんて湧きませんけれども。そこから逃げることで、私の世界はもう全然変わったわけですから。

小林 美穂子

1968年生まれ。生活に困窮する人や住まいのない人への支援活動を行う団体「つくろい東京ファンド」のスタッフ。支援とつながった人たちの居場所兼就労の場「カフェ潮の路」のコーディネーターを務める。共著「コロナ禍の東京を駆ける」など、執筆活動も行う。

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