中川 翔子

〈生きるのが苦しいと感じたとき〉

「『死にたい』が心の口癖になっていった中学時代」

振り返ってみたときに、なんだろうな、やっぱり思春期以降っていうのは「もう消えたい」「もうやだ」「どうせ私なんて」っていうのが心の口癖になりがちになっていっちゃったところがあるかもしれないですね。そういう思春期の心の衝動ってどうしようもないし、コントロールできないし。そういうときにガンッて落ちるほうにいきやすくなっちゃったっていうのがあって。
本当にはっきり思ったのって中学生のときだったと思うんですけど、頭が真っ白になっちゃって。そういうときって、「もう知らない、もういい」ってガッとなっちゃうんですよね。
すごく心が敏感にもなってるし、ふっと断ち切りたくなっちゃうというか。あの頭が真っ白になっちゃう感じっていうのは、ちょっと、もう嫌ですね。電車で通学中、見ちゃうんですよね、ホームとか。踏みとどまるために「ああ、でも、残された家族にすごく迷惑がかかるんだ」とかって数秒後に考えるけど、その瞬間って、ガッて真っ白になっちゃう。

きっかけはやっぱり、学校の中での衝突だったりとか、いじめ的なことの中で靴を隠されてっていうすごく、「ザ・いじめ」みたいなこと。そういう中に自分が入るなんて認めたくないし、そうなりたくなかったし、恥ずかしいし、情けないし。そんなこと親にも周りにも見られたくないのに、見られてる。知られてる。言いたくないのに。泣いたら負けなのに。そういうときに絶対的な大人である先生が味方じゃない。もうこんな場所にいたくない。こんな人生、どうせ私は人に嫌われる人生なんだ、みたいな。
どんどん心のとげが増えていって、転がり坂みたいに。負のスパイラルみたいになっていって、「ああ、やっぱりね」みたいな感じに。世の中とか自分とか周りの人、信用できなくなっていって。胸の真ん中がガンッとなって、そこからどんどん、ささやかなことで「もう死にたい、もう消えたい」みたいに、心の口癖になっていっちゃったんですよね。

〈それでもいま生きている理由〉

「18歳 『死のう』と思ったそのとき」

18歳のときに本当に死のうってなっちゃったことがあって。もういい、もう死ぬって。なんだろうな。若干心に淡い期待を抱いたりとかするときもあったりするけど、結果的に悪いこととか不運とか理不尽なことって、続いたりとかしちゃうんですよね。周りの人から見たら「そんなことないよ」っていうことかもしれないけど、自分の中では「ほらやっぱりね」みたいになっていっちゃう時期ってどうしてもあったりして。そういうときに、「もういい、もう死のう」って。

そういうときに、ふっと猫が通りかかって、「なでてからにしようかな」って思ってなでたら毛があったかくて。他のこと考えられないけど、「おもしろいな、毛の1本1本で何故かこういう模様になってるんだな。何でだろうな」とか、気がそれてくる。少しずつ。でも、気まぐれだから、ずっとだっこされてないで行っちゃうし、自由だな…。はぁ、なんかちょっと、今日は1回やめようかな。そんなふうになっていたので、流れが変わりますよね。

タリンっていう猫だったんですけど。おばあちゃんが寝てると、顔におしっこかけてるみたいな脳天気な子だったんですけど(笑)。そのまま誰も来なかったら、いっちゃうかもしれないけど、猫はすごく純真で無邪気に来てくれて。なんですかね、不思議ですよね。そのぬくもりが、ものすごく尊く感じて。死にたいけど本当は死にたくないんだろうし、でも、死にたいし、消えたいしって分かんなくなってるときに、自分のことも人間のことも、もう嫌いってなってるときに、ちょっと違うんでしょうね、動物って。

言葉でフォローするって難しいですよね。「大丈夫だよ」なんて言葉をかけても、大丈夫じゃないし。「頑張れ」は絶対だめだし。何て言ってもらいたいかっていうのは自分の立場でも難しいですよね。ほっといてほしいし。でも、ほっとかれるとほっとかれたで「必要ないんだ」って思っちゃうかもしれないし、距離感ってすごく難しいから。
関係ない好きなことで一緒に笑い合えて、それで少し癒えるときもあれば、ほんとにやばいときって話が上滑りしちゃったりとかして。もういい、もうやだって決め込んじゃっているときもあるし。だから、言葉とかじゃなく癒やしてくれる生き物の力は大きいなって思いますね、犬とか猫とか。あのとき猫が通りかからなかったら、その後のうれしいこととかに出会ってない人生で、あのときで終わってたのかもしれない。

「20代になっても 死にたいときはあった」

20代までは、まだ10代の心の傷も残ったまま、がむしゃらに何とかするしかなくて、人も信用できない、みたいな感じだったんですけど。20代の終わりに、もう1回死にたい衝動も来たし。それこそ何をやっても誤解されるとか、ネットに救われたこともあったのに、ネットに殺されるって。「こんなに憎まれるなら、こんなに誰にも必要とされないなら、やってきた意味がなかった。はい、さようなら。」みたいになっちゃったんですよね。
そんな中で、せめて目の前にあることだけ頑張ろう、と思っていたら、今度お尻を骨折しちゃったんですよね…。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂ってガチであるなって。もういい、もうやめる。やめて、そのあと死ぬって。久しぶりだな、この感覚。やっぱり私は人に嫌われるし、死んだほうがいいんだ、みたいに。また来ちゃったんですよね。もっと重い形で。

そうなったときに、やはり猫が、いつもは一緒に寝ない子がそばに来て一晩中ごろごろ言ってくれていて。泣きながらありがとうって言って。検索したらネットに、ごろごろ鳴らす音が癒やしの効果があるってことと、骨折の治癒を早める効果があるって書いてあったんですよ。分かってやってくれてたとしたら、本当に助けるためになのかなって。めったに泣かないけど、泣いてる日は来てくれることが何度もありましたね。「やっぱり猫なんだ、助けてくれるのは。人じゃなくて」って、そのときは思いました。

30代になってから、圧倒的に生きててよかったって思う瞬間のほうが増えたから、分からないな、人生って。この先もそうだと思うんですけど、でも、やっぱり根っこは変わらないですよね。この先どうしよう、人に言えないけど、もう私、詰んでるんじゃないかな、消えたいな、そういう発想になってしまいがちなのって、本当の部分ではやめられなかったりする。
でも、いっぱい消えたい、死にたいって思ってたことがある分、ちょっとしたことで、例えば猫だったり、ネットで何かと出会ったり、こういうときはチョコを食べようとか、寝ちゃおうとか、散歩しようとか。死にたいからチャンネルを変える方法みたいなのは増えてきた。

〈しんどいときに実践しているセルフケア〉

「コロナ禍 死にたい気持ちがきたとき」

最近はお散歩ですね、それが。夜のお散歩。特にコロナ禍以降、お仕事全部なくなったときの絶望っていうのがまた新しかったので、やめよう、やめてしまおうって逃げようとしたこともあったけど、全てなくすほうがよっぽど怖くて。家で好きなことができる時間に10代の頃から救われてきたけど、それでもさらに隙間ができちゃう世界になってしまった。

だからお散歩をしたときに、歩きだしてからしばらくは、スマホをいじらない時間で、自分に向き合っちゃったときに、この先どうしよう、何で私はこうなんだ、とか落ち込むタイムが来るんですけど、だんだんこう上がってくるんですよね。この建物、70年代後半っぽいフォルムをしている、って古い建物に興奮したり、このお家、めちゃくちゃ植木植えまくって育ちまくっちゃってるな、とか。風のにおい、季節で星が変わる感じとか、すごい面白いなって。ふっと顔も分からない誰かの家の柔軟剤の香りがしてきて、私だけじゃない、みんな苦労してるんだろうな、ってふっと思って、死なないで、もう少し頑張ってみようかな、っていうふうになりますね、最近ね。
スマホをいじってない時間、面白いって久しぶりに思ったから、コロナ禍でちょっとチャンネルの変え方がまた変わったかもしれないですね。

「絵を描くと整う」

絵を描く作業って、何かを模写したり、好きなキャラを描いたりするのが好きなんですけど、それをやってるときって、ちょうどいい整い方するんですよね。どうしてこうなってるんだろう。どうしてこういうカーブを描いてるんだろう。どうしてこんなかわいいんだろう。この色は何の色だろう。落ち込んでるときとか、本とか読むのも頭に入ってこない。でも、絵を描くって写経に近いというか、ちょうど整う、みたいな。なんも考えないで済むところがあるので。
ちょっとお高めの色鉛筆を買ってみたときに、それがよかったです。無になれて。ペンとか、化粧品とかもそうなんですけど、新しい文房具買うと、確実に気分が明るくなるっていうのは確定してることだと思ってるので、たまにそれはやりますね。色鉛筆って重ねていく面白さがあって、デジタルだと後戻りできて簡単だから、それも楽しいけど、久々にアナログで色鉛筆で描いてたときに無心になれて、落ち込みが1回どっか行きましたね。それは方法として私に合ってたかもしれない。
最近はそれを動画投稿サイトで載せると、子どもたちが私の描いた絵を塗り絵してくれたり、そういうふうに波及していったときに、あ、私なんかの絵をそういうふうに、新しい楽しみ方をしてくれたんだ。生きててよかったって。

だから、自分なりのスイッチングっていうのは、ストックとして見つけていきたいですね。絵描けないぐらい落ち込むみたいなときもあるはずだから。シンプルに湯船につかるのもいいですしね。

「ネットで弱音を吐いたとき」

ネットに殺されるぞって思ったときもあったけど、ネットのおかげで救われたり、生き延びたり、出会えたりもたくさんあったから。この1年、SNSの言葉で直接会えてないのにずっとつながり続けられていて、「おはよう」って言うと、「おはよう」って言ってくれる人がいっぱいいるのがうれしかった。「あ、いていいんだ。」って思えるときですかね。
書かないぞってルールにしてたけど、この1年はたまに落ち込んだことも書いたんですよ。「35歳の女性らしくするべき」「大人じゃない」みたいに言われちゃったことを書いて。すぐ消そうと思ったけど、びっくりするぐらい、いつも書かない人たちがいろんな方法で、「中川さんはこういうとこがあって、こういうとこもありますよね」とか。えっ、そんなに見てくれてたんだ。誰かを褒めたりするってエネルギーいるのに、みんなそんなふうに言ってくれて。
保存しちゃいました。弱音吐いたときの、みんなの総出で助けてくれた感じが。いつも甘えるわけにはいかないけど、めちゃくちゃうれしかったですね。結果的にネットに救われましたね、それは。そこまでしてもらえるなんて思わないで書いちゃったから、たまに弱音吐くってありなのかもって、この1年で思いましたね。

〈死にたい気持ちに対処するための考え方〉

「『死にたい』からチャンネルを変え続ける」

根っこはすぐ変えられないけど、少しずつでもいいから自信を持てる瞬間を見つけていけたらいいのになって思う時間を増やしてますかね。それもなんか勇気がいったし、そんなこと思うのすら、私なんかがおこがましい、ぐらいに思って。誰に対してなのか分かんないですけど。期待するとひどい目に合うみたいな、そういうふうに思う癖がついちゃったんですよね、思春期で。思春期引きずりすぎやん!って思いますね、そろそろ。

急に前向きになんて、たぶん、それは無理だと思うんですけど、「一旦やめよう」ってなったときに、何かきれいなものが目に入るかもしれないし、ぱっと食べたものがおいしかったりするかもしれないし。気をそらすっていうことをし続けるんですよね、たぶん。
死にたいっていうところからチャンネルを変え続ける。少しずつ。また追いかけてくるけど。そういうときに、ちょっとした何かがそらしてくれるってことは全然あるなって思いますね。

大人になっていくと、それをちゃんと意図的にできるようになってくるんですよね。切り替えよう、切り替えようっていうことをできるようになっていくっていうか。仕事って休んだりできないし、逃げられないし、仕事なくしたくないし、ってなると、対処できるようになってくるけど、それでも襲いかかってくるものっていうものはあるから。
やばい、1回ちょっとこうしよう、1回ちょっと漫画読もう、1回お風呂入ろう、寝ちゃえ。しんどいから旅に行っちゃおう。そういうことができるようになるので、学生のときよりも選択肢が広がるから。

「自分なんて」みたいな衝動が来る夜も絶対あるけど、ものすごくおいしいものに出会えるかもしれないし、「生きててよかった」って、今じゃなくて明日来るかもしれない。1回自分にめちゃくちゃご褒美になる何かをあげてからにしてみてほしい、向き合うのは。
でも、その人その人で、言葉の受け止め方とか出来事の大きさとかって全然違うから、一概には言えないんですよね、本当に。私みたいに細かく落ち込みやすい人も、ドーンってなる人もいるし。対処法がわからなくてダッてなっちゃう場合もあるのかもしれないし、うかつなことは全然言えないなっていうのはあるけど。
まずその衝動の前に1回寝る。1回チョコを食べる。1回ちょっと外の空気を吸ってみる。1回湯船につかる。何でもいいので、チャンネルを微妙に、1ミリでいいからずらしてみて、その間に違う瞬間を1回挟んでみるっていうこと。ほんのりでもいいからしてみてほしい。いつの間にかひらひらって、避けていく場合もあるから。
自分でも想 像できないぐらいささいなことでいい気がしますね。猫を飼うのはすごくお勧めですけどね。

中川 翔子

女優・タレント・歌手・声優・イラストレーターなど、多方面で活躍。子どもから大人まで幅広いファンに支持されている。近年は、自身の体験を踏まえて「いじめ・ひきこもり」のテーマと向き合い、多数の番組に出演。

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