神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件から3カ月。
10月26日(水)のハートネットTVでは、事件直後に追悼集会を呼びかけた小児科医で脳性まひ当事者でもある熊谷晋一郎さんをスタジオに迎え、「障害者の暮らし」について、考えます。
熊谷さんは今回の事件を受けて、障害者が施設から地域へと生活の場を移すようになってきた時代の流れが逆行するような、「時計の針が逆戻りするような感覚」を味わったと発言しました。しかし、追悼集会では、「今も11万人が入所施設にいる現実を見てほしい」と批判を受け、時計の針が逆戻りするどころか1度も進まなかった多くの人々がいる現実を、突きつけられたと言います。
みなさんはどう思いますか?
「障害者が施設で暮らすこと」「地域で暮らすこと」について、体験談やご意見をお寄せ下さい。
「施設しか現実的な選択肢がない」
「地域で暮らすためのサポート体制がない」
「施設を出たくても家族に反対される」
「施設にいるから社会から障害者の存在が見えなくなっている」
「施設の楽しさ、大切さにも目を向けて欲しい」
「地域に開かれた施設で生き生きと暮らしている」 ・・・など
寄せられたご意見をもとに、番組で考えていきます。
当事者や家族の方からの声をお待ちしています。
※こちらのカキコミ板は、2016年10月の放送時に募集したものです。現在は閲覧のみとなっています。
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ヤマケンボイス 分かち合いたい―「津久井やまゆり園」を訪ねて
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投稿日時:2016年09月28日 18時27分
20代の中・軽度知的障害者児施設の職員です。
障害者が地域で生活していくには現在の社会ではかなりの困難を極めます。もちろん、社会性を身につけ、就労や作業所へ通い収入を得られる障害者はどんどん社会へ出るべきと思います。そんななかでも交通機関や商業施設で不便を感じたり、嫌な思いを障害者はいます。さらに、強度の行動障害や重度の自閉症・知的障害、合併する身体障害が伴ってしまえば、地域で生きることは不可能だと考えます。
地域で暮らすということはその地域に住む人の障害理解が必要です。理解できない、知らないものは「怖い」と感じるもので、「障害者は何をするかわからない怖い存在」というのが現在の多くの人の認識だと思います。
障害児は特別支援学校に通いその時点で健常児とは別の「施設」に入るという選択肢しかありません。普通の学校に特別支援学級を増設することで選択肢を増やすことができます。さらに、健常児の小・中学生にもっと障害を持った子と関わる機会が少しでも増えれば、「わからない障害者(怖い)」から「なんとなく知っている難しい人(でも怖くない)」に変わると思います。もちろん障害特性を尊重し、障害程度に合わせて設備や支援力の整った特別支援学校は必要です。
子供のうちに学んだ社会経験は大人になっても忘れません。通常級と支援級の共存する学校を増やすことで、障害児は社会経験を積むことができ、健常児は障害理解が進むと思います。障害理解のある健常者を増やさなければ、障害者が地域で生きていくことはほぼ不可能だと思います。
学校設備を整え、通常学校か支援学校かの選択をより増やすことで、施設しかなかった選択肢を地域で暮らすという選択肢を増やすことができると思っています。
投稿日時:2016年10月23日 01時27分
障害者の教育と健常者の教育を同時に行うことで、相互理解ができるとのお考え、よくわかりました。
でもそれが実現したらどうでしょう。
例えば発達障害だと。
授業中に脱走。
パニックになって先生を殴る。
急に叫んだり、いきなり「そこは僕の道だからどけて」なんて言われて。
その特性を健常児が理解できるでしょうか。
理想はわかります。
わかるのですが、子供は素直です。
大人のように、本音と建前では生きていません。
大人なら社会で働く上で「理解しないと仕事にならない」と割り切れるかもしれませんが。
子供が理解して対応できるのか、疑問です。
私は早くから「できない」を理解し、それなりに打ち解けていましたが。
多くの健常児は、発達障害の子をイジメていました。
その子は「できない」ことがストレスになり、抜毛症を発症していました。
車椅子の子でさえ「あいつ偉そうだしなんかやだ」みたいに言われていました。
「車椅子に乗ってるだけで、神様みたいに言われてる」
「そんな環境で精神がマトモに育つとは思えない」
それが健常児の答えです。
よく障害者を理解しろと耳にしますが、理解できない人も居ていいと思います。
障害者に出会って、学ぼうと思える人が、学んだら良いだけです。
私の通所している作業所の理事長なんか、全く理解できてないから職員さんに毎回叱られています。
それでも、会ったら嬉しそうにしてくれるし、全員に年賀状をくれます。
障害について理解していなくても、理解できていないことを障害者側が理解していれば、それでも良いのです。
投稿日時:2016年10月25日 21時42分
RACiKAさん/
失礼します。
知的障害者は健常者が思う困難を困難だと思うものなのでしょうか。僕は街中やスーパー、交通機関で知的障害者を見かけることがあります。突飛な行動や奇声は(良い意味)で無視、見て見ぬふりをとこころがけてます。そして、個人的に感じるのは、社会には良い人ぶる人が多いということです。障害者施設職員にもそれはあてはまります。心が弱い職員ほど過剰な程障害者に良い人ぶる。強くて優しい職員は突き放すこともできる。残酷で正直ですが、子どもや知的障害者は良い人ぶるだけの人のそばには近づきません。学校教育には限界があるだろうし、学校程閉ざされた社会(会社)は滅多にないでしょう。
投稿日時:2016年10月25日 07時45分
今の障害者の現実は格差が大きいです。
障害者権利条約を始めとして、差別解消法や
障害者虐待防止法が出来ています。
でも多くの障害者は親元や、施設で生活しています。
40歳以上の障害者は親も高齢になって、
将来が不安だと思っています。
親は介護が要ればいいと思っていますので、
施設に入れた方が良いと思うのでしょう。
施設職員が虐待をしても施設を続けて欲しいと言っているのです。
家に戻れば自分達の生活が出来なくなるから施設に入れておきたいのでしょう。年に4回戻るだけで精一杯なのでしょう。
それで親は障害の子供を愛して言ってます。
本当に愛しているのなら施設に入れないで何とか家で一緒に暮らそうと考えるでしょう。今、在宅でもヘルパーが入れるようになっています。
それを知らないのは親の責任です。
障害者施設殺害事件は障害者の親にも責任があると思います。
投稿日時:2016年10月22日 19時26分
施設と地域を分けて考えるのはやめてほしいと考えています。地域でのインクルーシブな交流に力を入れてる必要があります。
とりわけ、障害者は孤立しがちです。純粋でかけがえのない人たちの存在を知ってほしいです。差別や偏見を助長することは、決して、あってはなりません。
今すぐ孤立防止への対策を考えなければなりません。高齢者や貧困層だけの問題ではありません。
「弱者切り捨て」とよく聞きますが、障害者は弱者ではありません。ともに生きる1人の人間です。今回、このような事件が起きて悲しいです。19人の方の命が奪われたのは残念で仕方がありません。
差別や偏見が孤立を生んでいる他ありません。
1人ひとりの立場を尊重して生きやすい社会でなければなりません。地域交流の機会をもっと増やすべきです。「障害者だから…」といって突き放すことはあまりにもひどい行為です。
同じ人間として平等に接する姿勢が必要です。
投稿日時:2016年10月22日 17時47分
ラメさん/30代/
真の平等とはどんな風にお考えなのでしょうか。
私は健常者にこう言っています。
「障害者を叱って下さい。障害者を嫌いになって下さい。それでも障害者と付き合ってみて下さい。真の理解はそこから始まります。」
人間同士平等であるなら、嫌われて当たり前。
障害者として差別をされないなら、「障害」を盾に社会に向かわない。
これができる障害者が非常に少ないです。
障害があるからと、自分を美化したり、自分は悲劇のヒーローやヒロインだと思っている障害者は、結構多いです。
障害なんて笑ってやる〜と昼間は言っていても、毎晩浴びるように酒を飲んでいる方も知っています。
障害者と健常者が真に平等ならば、障害者が障害者という概念を捨てなければなりません。
喧嘩するほど仲がいい、なんて言葉を、健常者と障害者が笑って言い合う社会が、未来の私達だと思います。
投稿日時:2016年10月25日 22時02分
娘は、重度の知的障害と身体障害を併せ持ち重症心身障害者です。娘が暮らしていく上では、体調を見ながら、どんな事を感じ、何を望んでいるのか、想像力、洞察力、感性などが求められ、安心して安定した暮らしが継続されることが大切です。自分の暮らしをプログラムすることが難しい人たちの暮らしの有り様についても、共有していただくことを切望します。人権意識を持った専門性の高い人材と、感性や想像力を磨くことのできる労働環境が欠かせません。安心した暮らしが安定して、継続されるためには一定の集団が構成される体制がどうしても必要になります。家族を自らつくることが難しい人たちが、支援を受けながら心通う新しい家族をつくる、そのための充実した施策をのぞみます。12万人の方が施設で暮らしていると言われています。この施設の改善改革に政治と行政はしっかり向き合っていただきたい。そこを放置したまま地域移行を強調することには納得できません。施設か地域かという投げかけではなく、施設も地域もどちらも大切に考えていただきたいと思います。兎に角、圧倒的に社会資源が足りません。一歩違えば命が危うい状況が私の周りに存在しています。顔さえ浮かびます。
投稿日時:2016年10月22日 17時40分
私が住む北海道伊達市は、障碍者が地域で暮らすか施設で暮らすかを比較的選べて支援体制も万全とまではいかないが、他の街よりは住みやすいと思います。そんな自分も地域に暮らす精神障碍者です。今は一般オープンで働きながらアパートで暮らしています。
障害の程度にもよりますが、自分で選択して納得した生き方をする権利があると思います。支援体制さえ、しっかりしていたら病院や施設から一般社会で生きれる方が増えるのでは…。
投稿日時:2016年10月22日 15時11分
僕は、「あの優しかった場所」がまだ自分の居場所である事を信じて、そこに戻るような気持ちを、地域で生きるなら忘れてはいけないと思っています。
しかし、何らかの「心に括り付けた荷物」を、施設に下ろしたりする人も、いらっしゃるのが現実かなと思っています。
でもやっぱり今回の事件から、ここにしか咲かない一つの「花」が、小さくても「実」が生らぬまま、「蕾」のまま散ったり枯れたりするような、そんな感覚を覚えます。
失礼しました。
投稿日時:2016年10月22日 11時28分
3度目の投稿になります。
そもそも、『津久井やまゆり園』で容疑者である元職員が【優生思想】に傾倒して、重度障害者の利用者をターゲットに行われた46名の殺傷事件は、以前から根深くあり全国的に水面下で行われてきた差別排他主義が表面化された重大な事案です。
容疑者は未だに謝罪はなく、自分が行ったことを正義だと主張し続けております。
容疑者に限らず、全国的にいる当事者にとっては、接する人が不快感を感じる差別的言動を意識・無意識に問わず、当事者を苦しめ、絶望し、自ら命を絶たれる方も少なくありません。
また、路上生活者に対して、背景や事情を考慮せずに日本では本人が社会福祉事務所に相談・申請しなければ生活保護受給を受けられないという受け身の姿勢も問題です。
日本国憲法で国民に対して、【人権・生存権】を認めているにも関わらず、「障害者や健常者に問わず、現実的には本当に生死に直面している社会的弱者に追い込まれてる方へ社会福祉制度が行き届かない対応・体制」は“理不尽であり矛盾”しています。
人間は生まれた時から、どんな状態や環境にあっても、その時から【人権・生存権】が認められ、状況に合わせて、臨機応変に対応することが国民を守る国家の使命であり、手を差し伸べることを官民問わず、最低限の前提に成立していなければなりません。
同時に【優生思想】が正しいと考えてる人に問いたいのは、「優秀な知能や学力を持つ人が必ずしも人間として優秀で健全ではないのを理解しているか?」ということです。
それに人間は数字化されたIQや評価、能力による目に見えるものでは、その人の人間性は分からないということです。
少なくとも、「人間は生きているだけで奇跡的な存在で唯一無二で何物にもかけが得ない存在」です。
一人一人、先入観や社会の基準・情報に左右されず、自分自身で考え、行動していただきたいと願います。
投稿日時:2016年10月21日 00時26分
穂乃果推しさん/北海道/40代/独身(うつ病・生活保護受給者)
ラメさん、はじめまして。コメントありがとうございます。
自分と他人は違っていて当たり前ですが、どんな人にも自分と同じく尊く重い生命があり、生きています。
社会に溢れる当事者に対する排他的風潮と先入観が、無意識にも【差別】と【優生思想】へと繋がっていることを自覚して、自分自身で考え、この問題に向き合ってほしいですね。
それが今回の事件で亡くなられた方々の生命をムダにせず、教訓として活かされ、供養になるかと考えてます。
投稿日時:2016年10月24日 16時20分
ラメさん/30代/
全くその通りです。
私が障害者の方に初めて接したのは高校一年生の時でした。
友人と笑い転げながら通学していた時「今俺の腕を見て笑っただろう!」と、いきなり怒鳴られました。
その方の腕を見ると、肘から先が欠損していました。
私は気が動転しながら「違います」と答えましたが、とても怖かったのを覚えています。
また、NHKの番組で、素晴らしい詩を紹介していて、思わず見入っていたのですが。
それが脳性麻痺の女性が書いたと紹介されていて、ビックリしました。
言葉も途切れ途切れにしか話せない彼女が、美しい心や高い教養を持っていることに、とても驚きました。
障害者の中身は見た目ではわかりません。
私が精神障害者であるとは誰もわからないようです。
作業所で働いていても、職員さんに間違われます。
友人と歩いていても、支援員さんに間違われます。
職員さんも、出来た方も居れば、悪いお手本の方もいらっしゃいます。
しかし、人間はお互い作用しあい、支え合って、初めて成長できるんだなと感じます。
どんな人間からも、一つくらいは学ぶ所があるものです。
人に優劣はありません。
皆平等に心を持っています。
その心を大切に思うことが、人の尊厳を大切にすることだと思います。
投稿日時:2016年10月23日 20時26分
まず害という漢字をやめませんか。碍という文字は漢字の簡略化ということで常用じゃなくなったらしいのですが意味が全く違う害という漢字のせいで障碍を持った人が悪いイメージを持たれているような気がします。今回の事件の犯人は実は精神疾患を持つ障碍者であったなんて失笑ものです。それに今の世の中は健常者だって生きにくい世の中です。健常者なんてこの世にいるのか疑いたくなっても来ます。何が言いたいのかまとまりなくてすいません。でもこんな風に思ったことを言えることは資本主義のいいところなのかもしれません。私はもっと障碍を持った人たちの話を聞きたいです。もっともっと聞いて、読んで、理解を深めて、これからの社会がどうなっていけばよいのか考えていきたいです。
投稿日時:2016年10月20日 11時17分
のぶ太さん/福島県/50代/親
コメントありがとうございました。本当にそうですよね。碍という漢字には妨げるという意味があって以前は使われてたと知ったので書いてしまいました。
障害を持った人のことをもっと知ることが差別をなくすと思ってます。言葉のイメージも大事なのかなという発想でした。自分のいとこが知的障がいでずっと施設ぐらしでした。詳しくは誰も教えてくれないし、突っ込んできけない空気のため彼が死んでしまってからなにか彼のためにできなかったのかなと。これからの余生を自分のことばかりじゃなくて考えていきたいです。貴重なご意見ありがとうございました。
投稿日時:2016年10月25日 14時21分
ラメさん/30代/
名前を変えて、何か変わるのでしょうか。
かつて「精神分裂病」という名前が「統合失調症」と変わりました。
解離性同一性障害と区別するためでした。
病識は広まりましたが、差別意識は根強く残っています。
最近「自閉症スペクトラム」という名前ができました。
これは発達障害を研究した結果、学術的に考え方が変わったので、名前が変わりました。
現在少しずつ浸透していますが、「アスのほうがわかりやすいよ」と、アスペルガー症候群の友人がこぼしていました。
「障害者」が「障がい者」とか「障とく者」(変換候補がありませんでした)に名前が変わっても、障害者を取り巻く社会的な仕組みは何も変わりません。
名前が変わったら、寝たきりが歩けますか。
名前が変わったら、社会に出れますか。
名前が変わったら、差別が無くなりますか。
何も変わりません。
言葉狩りをしている方は、自分が変わろうとしていないんだなと、私は感じます。
自分が変わらないと、社会は変わらないのです。
一緒に変わりましょう。
社会を変えましょう。
そのために、あなたの力が必要なのです。
私は障害者です。
私も変わりたいです。
だからどうか、一緒に変わりましょう。
投稿日時:2016年10月23日 20時49分
RACiKAさん/
精神障害者です。「がい」「害」「碍」、当事者の僕からいわせてもらえると、そんなことはとっても小さなことです。害からがいへ変更すれば印刷屋さんは仕事が増えるでしょうし、テレビ・メディアの影響ほど怖いものはありません。しょうがいしゃの書き方くらい個人で決めればいいことだと思ってくれたらうれしいです。
失礼します。
投稿日時:2016年10月23日 11時08分
事件に関してのニュースは減りましたが事件当時テレビのコメンテーターが「障害者を大事に」とかコメントしていましたが個人的にはそれが薄っぺらいヒューマニズムかざしていい人ぶっていると思っていました。
世間はみんな「障害者に優しい社会を」と言っていますが「結局優性思想は多少あるんでしょ」と思う自分がいる、それが現実。
特に精神疾患があると尚更です、「あなた方我々障害者に何してきた」と・・・
詳細は分からないですが浦安市の通り魔事件も加害者が事件を実行するまでに社会は何してきたの?と・・・
コメンテーターはやっぱりとんちんかんなコメントですし・・・
ボブ・ディランじゃありませんが「その答えは風の中」なのでしょうか?
投稿日時:2016年10月19日 22時52分
はたろうさん/20代/統合失調症
勝手ながら、お気持ちがわかるような気がいたします。
何か他の事を言って欲しいという訳ではございません。
でも口当たりのいい言葉より、けなされてもその方が問題が目に見えるだけましといいますか、そんな気がしてしまうものです。
優性思想のようなものは私のなかにもあります。生活していて、これはなかなか消えるものではありません。
それがわかっているから、その軽々しさがなんだか腹立たしく感じることがあります。
問題を毒も出さずにきれいにまとめて終わらせるのは正しいとは思うのです。
ただ、それはそれでは解決しない問題だと言うことを忘れさせようとしているように感じてしまいます。
投稿日時:2016年10月22日 10時10分
私は、31歳男性で、躁鬱病・解離性障害・ADHD・脊髄空洞症(難病)を患っている障害者です。
この事件が起こって非常に悲しい気持ちになりました。
なぜなら、確かに今回の事件の起こした人物の
「世界経済の活性化」という基本的な方針に、
現実世界の思想もあまり変わりがないからです。
昨今では障害者の理解が進んでいるとか、
障害者の雇用が増えてきている、などのことが、
まことしやかにテレビで取り上げられていますが、
その根本にある発想は今回の事件の犯人と同程度の
「世界経済の発展につながる」ということです。
例えばですが大体の人はこう考えています。
「障害者を働かせていることで、社会的貢献を果たし、
世界経済の活性化に貢献している」
「障害者も頑張れる社会にすることで、周りの人のモチベーションがあがり、世界経済の活性化につながる」
「障害者の方へも配慮する働き方をすることによって、
生産性を向上させ、世界経済の活性化につながる」
私の見聞きしたような障害者の雇用に携わっているような方の考えというのは上記の3つに分類されますが、
はっきり言いますと、あまり今回の犯人と基本的な考えは変わっておりません。
むしろ、世界経済の活性化につながる効率的な障害者の排除方法が見つかれば、それをやってしまいかねない国であると思います。
私自身、今の社会で歓迎されているとは思えない現状がありますし、
むしろ、さまざまなバッシングは強くなってまいりました。
それも、今の日本の失われた10年20年を放置した結果の
脆弱な社会の問題であると思っております。
私は、もうそろっと、
「効率ばかりを追い求める生き方」などや
「力のある人間だけが生き残り次の世の中を作る」
といったことに疑問がでても良さそうな気がいたします。
投稿日時:2016年10月19日 19時07分
じゅんこさん/東京都/40代/
あたしもそう思います。あたし自身、精神障害者ですし…カキコミ板でも福祉に関する不満や病気に関する不満が圧倒的でした。今もその不満は変わらないです。
あたし、就労支援をきっかけに思ったことなんだけど、知的障害や身体障害で利用する人、昔から(今で例えるとB型と言えますけどね…)当たり前にやっても、何か違うな…って思うことがよくあります。
障害者手帳の目的は体調が悪いものによることと、生活面に影響を与えることを表すもの。知的は知識や頭脳指数に関係あるし、身体は体の一部や機能を失うことを表すものでしょう?精神は体調に変化があるから「更新期間」があるのに、知的と身体は「更新期間」がない。これ、おかしくない?といつも疑問に思っています。特に大人にとってはね。
ただ、障害者になると、最初はパニックどころかわからないことだらけになります。精神の場合だと、一般の人だと「そんなの気合いで直るでしょ?」とか「落ち着けば直る」など変に思いがち。
今は、名前変えたりして工夫して当たり前のように感じるが、まだわからない一般な大人(特に昭和初期から中期の人)にとっては全然わかっていないとあたしはそう思います。
精神の方でまだ自分が病気なんだってことを知らない人、いるかもしれないとあたしはそう感じます。
投稿日時:2016年10月20日 13時32分
ラメさん/30代/