ハートネットメニューへ移動 メインコンテンツへ移動

脳出血・リハビリを経て半身を生きる 塩見三省さん

記事公開日:2024年02月09日

連続テレビ小説「あまちゃん」をはじめ、ドラマや映画、舞台で存在感のある演技で観る者を魅了する俳優の塩見三省さんは、2014年3月、脳出血で病院に搬送されました。命は取り留めたものの、左半身に麻痺が残り、リハビリに取り組むことになりました。それからまもなく10年。再起に向けた日々の中で何を考え、どう生きてきたのか?その葛藤と思索についてうかがいます。聞き手は、6年間にわたり母とパーキンソン病の妹のダブル介護を経験したイラストレーターの田村セツコさんです。

突然の脳出血と、リハビリと向き合うまでの日々

俳優の塩見三省さんが脳出血に見舞われたのは2014年3月19日。3年ぶりにまとまった休みを過ごしているさなかのことでした。

画像

塩見三省さん

確かに私はその日に死んでいてもおかしくなかった。
一瞬にして何もできない身体になった。
(『歌うように伝えたい 人生を中断した私の再生と希望』著 塩見三省より)

自宅で倒れ、病院に緊急搬送された塩見さん。生死の境をさまようことになりました。

どれくらい時間が経ったのか、はっきりと覚えているのは管を何本もつながれた身体で猛烈な、焼けるような喉の渇きがあったことだった。
これが初めての身体性としての「生」の感覚だった。

救急病院にいた10日間で体重は一気に10キロあまり落ちた。
その10キロの筋肉の塊が私の命の代わりに捧げられたのであろう。

一命はとりとめたものの、左半身に麻痺が残りました。
10日後、塩見さんは回復期専門の病院に移り、本格的なリハビリに取り組むことになりました。

画像(当時の塩見さん)

転院して数日経っても、突然自分の身に起こったことが信じられず、悔しくて自分を恨み、リハビリも一向に進まない。

転院して半月ほど過ぎた頃、脳出血で倒れる前に撮影したドラマの放送が始まりました。

アップで映し出されている私の顔はなぜかよそよそしく、自分のようではなく思えた。
このテレビの中の私は本当に私なのか?それとも私の影なのか?

生き生きとしている故に悲しく思えて、ただただ、病室の片隅のベッドの上で嗚咽が止まらず泣いていた。
私はこの身体がもう二度と目の前のテレビの中にいる自分に戻らないことを、この半身不随の状態でこれから生きていくということを受け入れなくてはならない。

塩見:救急期(急性期)で命を助けていただいた病院からリハビリ専門病院に移ったんですけど、そこには廊下に大きな鏡があって、初めて自分の姿を、車いすに座った姿を見たんです。健康な時の自分の体をイメージしていたもので、見たときのショックは計り知れないものがありました。そのとき、隣にいた付き添いの家族に「この人は誰なんだろう」って聞いた覚えがあります。そうすると、彼女はじっと下をうつむいていたので、このとき初めて「自分に悲劇というものが襲ってきたんだな」と感じました。それまでは、病気になったけど時間がたてば治ると、ある種の病人の感覚でいたんですけど、これからはこの体で生きていかなければいけないんだと思って、ちょっとブルっとしたことを10年前のことですが覚えています。

画像

塩見三省さんと田村セツコさん

当初はリハビリと向き合う気持ちにはなれなかったと話す塩見さん。その時間も自分にとっては大切だったと当時を振り返ります。

塩見:ただただ、うろたえていました。泣いて、嘆いて、悲しんで、みっともないくらいにその嘆きに身を寄せていたと思います。今、考えますと、自分が危機にあたった時に、反射的な勘で、「この嘆き、悲しみは今、この直面している時に乗り越えなければ駄目だ」と思ったんですよね。きっと、このことを中途半端にしていくと、何日後か何年後か何十年後かに、この感覚が後遺症としてフラッシュバックして残るんじゃないかという思いがあって、思い切って自分の精神的な悲しみみたいなものを出し切るというか・・・。身体の歩きのリハビリは、病院のリハビリ療法士の人たちが助けてくれますから。でも、精神的なリハビリは自分一人でしかできないと思って、身体的なリハビリみたいなものをあとに回して、ただひたすら自分の気持ちを確認していました。まあ、痩せ我慢なんでしょうけど、半身不随ぐらいのことで、これからの人生を諦めるわけにはいかないという気持ちが徐々に自分の中に芽生えてきたっていうことはあります。

塩見さんが本格的にリハビリと向き合うきっかけとなったのは、ある仕事のオファーでした。

塩見:4月頃だったんですけど、ある民放局のプロデューサーから、10月からの連続ドラマのオファーがきたんです。その時、私が倒れていることを知っている人は家族しかいませんでした。だから、私の現状をその人に伝えたら「いい」と。「私たちはあと半年あるし、待っている」ということで。「えっ?」と思って、その言葉にすがるようにいきなり立ち上がって、歩行訓練というか、身体的なリハビリにがむしゃらで取り組むようになりました。結果的には、半年で撮影できるような体にはならなくて、そのオファーに応えることができなかったんですけれど、倒れてから、社会から置き去りにされていった感覚があったので、オファーというか、ヘルプみたいなものが身に染みてありがたくて。私のリカバリーという意味では、リカバリーしていく第一歩の出来事、ありがたい出来事だったのだと思っております。

画像(田村セツコさん)

田村:本当に感動しました。予測のつかない状態に陥った時のお気持ちがよく分かりました。まずは戸惑って、それから起き上がっていく過程。(プロデューサーから)言っていただいた言葉も素敵ですし、オファーがあったということは何よりの希望だと思いました。

忘れられない戦友との出会い

ようやくリハビリと向き合い始めていたこの頃、塩見さんには、忘れられない仲間たちとの出会いがありました。

私の病室から3室挟んだ部屋にはFさんがいた。
まだ大学生くらいの娘さんだった。

夜に時々、彼女の部屋から叫ぶような声が聞こえることもあった。
「つらかろうな…」

私は彼女の病室前を通る度に自分の酷い後遺症も忘れて、静かに眠っている顔を思い、少しでも回復してくれと祈った。

入院から4ヶ月ぐらい経った頃、私はやっと車椅子から解放され院内を自由に、ヨタヨタしながらも杖をついて歩けるようになっていた。
4階でエレベーターを降りたところに広い空間があり、窓際に立つと、遠くに富士山が綺麗に見えた。
いつか杖なしで歩けるようになり、Fさんの車椅子を押せるぐらいになったら、ご両親と私でここへ彼女を連れてきて、富士山を見せてあげたいと思ったのだった。

塩見:いろんな方がいらっしゃいました。一人ひとり(の症状)が脳を疾患した部位によるんです。だからサラリーマンの方は仕事に復帰するということの先に、朝夕の通勤ラッシュを克服しないといけない。これはちょっと大変なことだったと思います。主婦の方は、家族のために台所に立って手の作業をしたり。でも、私はただただ自分の精神的なものを克服しようと殻にこもって、全然交わらないでいたんですが、徐々に病院のリハビリのやり方とは違った形で、入院患者の仲間たちが「塩見さん、こういうやり方でリハビリすればいいんじゃないか」というような形で接触してくださってきた。そうこうしているうちに、徐々に自分の凍りついた気持ちが解けるようになっていって、人の話を聞いて、自分のことだけではなくて人のことを少し、少なくともその病室の仲間たち、先ほどのFさんのことを思ったり、そういう自分に徐々に変わっていけたのだと思います。本当に彼らとは二度と会わない出会いなんですけど、ある種の戦友だったような気もします。ありがたかったです。

画像

塩見三省さん

当時出会った人たちの中には、現在も交流が続いている人もいます。その一人がFさんです。再会のきっかけは塩見さんが数年前に著した本(「歌うように伝えたい 人生を中断した私の再生と希望」)でした。でした。

塩見:そのお嬢さんのお母さんは、介護をなさっているんです。入院していた時から7、8年たってからこのエッセイを書いたら、そのお母様がどこかでお読みになって、この本に書かれている家族は私たちのことじゃないかと出版社にお手紙をくださったんです。彼女たちの7年間の過ごし方みたいなものが手紙に書いてあって、自分の胸にぐっときて。拙いものではあったけれど、こういうものを書いて良かったと。俳優とは別に人に伝えられるというか、表現には色んな可能性があるんだと、そのお手紙をいただいたことによって感じたというか。今でもそのお母さまとは手紙のやりとりをしたりしていますが、俳優というものから少し解放されて、いろんな表現の場を探ってみたい。この番組もそうなんですけど、人に伝えることで、少しでもお役に立てればと思っています。

画像

塩見三省さんと田村セツコさん

田村:俳優でいらっしゃって、それから病気を持たれて、そのあと文章のほうにいかれて。その表現というものの幅がビューンと広がったっていうのが素晴らしいですね。『歌うように伝えたい』っていうタイトルもすごく素敵ですね。

塩見:ありがとうございます。

田村:(本の副題が)『人生を中断した私の再生と希望』っていう。それからこの絵がね、何か生命が一本道を旅しているような。

画像(本の表紙)

塩見:うちの家内が今から30年前ぐらいに、この絵を描かれた作家さんの個展に行って、これが欲しいって。だから、ずっと私のリビングにはこの絵を飾っていたんです。それで倒れて、退院して、二人でリハビリをして、何かの拍子でこのエッセイを書いてみようとなって書き出した時に、田村さんがおっしゃったように、これからの一本道を歩いていくっていう・・・。この本をこの表紙でやりたいと思って、作家のささめやゆきさんに連絡して、喜んで承諾していただいた。自分が初めて出す本はこうなんだろうなっていう感じはありました。

病を得た体だからこそ

5か月に及んだ入院生活を終え、自宅でリハビリに取り組んでいた塩見さん。そこへドラマ出演の話が舞い込みます。

それは、東日本大震災から5年目を迎えた被災地が舞台のドラマ。病に倒れたものの、再び海に出たいとリハビリに励む漁師の役です。話の筋には直接関係のない、ワンシーン、ワンショットだけの出演。

2015年暮れ、真冬の大船渡。早朝、塩見さんは1年半ぶりに撮影現場に立ちました。

共演者:船さ乗りたいんだべ? もう漁師辞めんのが?

塩見さん:辞めてたまるか!また海さ出てもう一度、もう一度、漁師やるからさ。

共演者:頑張れ!

塩見さん:頑張れ!

共演者:頑張れ!
(ドラマのセリフより)

私はこの100メートルほどのこの港の堤防の上を懸命に歩いた!
被災した陸側と反対側には、果てしなく広がる海が見える。
この、誰のものでもない大自然は何も変わっていない。
私は思わず、台詞にはないが「頑張れー、頑張れー!」と変わらないその海に向かって叫んでいた。

その時私は、不意に吞み込まれた自分の現実を少し受け入れられたのかもしれない。
同じように苦しまれた人たちがまた立ち上がろうとするこの土地に力をもらった。

塩見:倒れてから2年目ですけど、こういうお話をいただいて、共演した女優さんもスタッフの人たちも「塩見さんが出るんだったら」と言って、忙しい中をワンカット、ワンシーンなんですけど来てくれました。カットがかかったらスタッフの人も共演した女優さんも目を真っ赤にして抱きついてくれて、やって良かったなっていう気持ちがいっぱいでした。それで夜明けの港のほうを見ると、跡形もなかった大船渡の港の中に人影があって、ブルドーザーが入って、大船渡の港そのものが、復興の第一歩みたいな時でして、その光景も今も覚えています。だから、俳優として復活したというよりも、2年間一生懸命、死にものぐるいでやってきたリハビリのその終点、一つの自分の区切りというか、これからまた新しいリハビリなり社会に入っていくんだっていうことを含めて、忘れられないというか、一つの区切りでした。これも一つのリカバリーへの大事な一歩であったと思います。

画像

塩見三省さんと田村セツコさん

その後、俳優の仕事を徐々に再開した塩見さん。ラジオドラマの脚本を書くなど、活動の場を広げています。病に倒れてからまもなく10年。左半身の自由を失った体に対しても受け入れられるようになったと話します。

塩見:まず、社会から置き去りにしないで、私に対して熱くて、フラットでいつもと変わらないように付き合ってくださった人たち、そして家族には感謝します。それで、この体と共にこれから生きていくんだという、そのことが私自身の人生なんだ。これがなかったら、塩見は塩見の人生ではないとまで言い切れる自分になりました。このぎくしゃくした体が自分の「鎧」というか、これがあってこその私の人生なんだ。これからも一緒に行こうぜという感じなんです。この体があるから私は私であるということだと思います。自分にとって生きるってことは魅力的である、素晴らしいものである。その感覚が自分に備わったことはすごく力強いし、ここまで来たんだということが、自分でも生きていて良かったと思いました。

田村:塩見さんの貴重な体験。10年間のことは、(塩見さんの本の)この表紙みたいに、命の一本道を背嚢を背負って一人で一生懸命歩いていらっしゃる。読者や私たちもみんな同じだってことがよく分かりました。

画像

田村セツコさん

塩見:ありがとうございます。自分の体を第一にするというか、生きていくことが仕事だっていうのがいちばんです。自分の命は自分だけのものではないということは骨身に染みましたから、家族のためにも、あんまり気張らずに皆さんと一緒にやっていきたいと思います。

画像

塩見三省さん

2019年3月、塩見さんは4年間通った都内の病院のリハビリ外来を卒業することになりました。
その最終日、共にリハビリに励んだ仲間たちのもとを訪ねました。

ここは普通の場所ではない。ここにいる人たちの失意と希望が強い思いとなって放射されている。
思うように動けない苛立ちと昨日より進歩したと喜ぶまわりの家族たち……。
そこに「レディー、ガガ!」の声がリハビリフロアに響いた。
車椅子から必死に立ちあがろうとする若い彼にいつも付き添っておられるお母さんが掛け声をかけているのである。
もちろん「レディー、ゴウ!」の意味だ。
この母と子の奮闘は四年間見てきた。
そして今、私の前を通る彼はリハビリ療法士さんに抱えられながら力強く歩いている。
「レディー、ガガ!」
この壮絶な状態で、こんなユーモアのある言葉を発して子供を励ます母親がいるのだ……。
私はこの果てしのないリハビリをやりながら、声を掛け合った仲間たちのこれからの幸運を祈り、これからも突き当たるに違いない壁を前にした時、少し笑い、「レディー、ガガ!」と心に叫びたい。

※この記事はハートネットTV 2023年12月18日放送「私のリカバリー “半身”を生きる 塩見三省」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

あわせて読みたい

新着記事