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“宗教”とどう向き合うか ~宗教2世の苦しみを理解するために~
専門家インタビュー

記事公開日:2023年02月20日

宗教2世に必要な支援のあり方とは何か。それを考える上で重要なのは、そもそも“宗教”とどう向き合い、扱っていくかという問題です。宗教と社会の相関関係を考える宗教社会学の立場からは北海道大学大学院の櫻井義秀教授に、キリスト教神学の立場からは同志社大学神学部・小原克博教授にお話を伺いました。

「サポートを求めていいんだよ」 まずは知ってもらうことから

まず、お話を伺ったのは宗教がその社会に与える影響と、対して社会の側が宗教に与える影響、両面から研究する宗教社会学が専門の北海道大学大学院文学研究院・櫻井義秀教授。

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北海道大学大学院文学研究院・櫻井義秀教授

――昨年12月、福祉や教育の専門家が集まる研修会に招かれ、宗教2世の支援のあり方について講演をされましたね。これまでもこうした機会はあったのでしょうか。

櫻井:初めてのことでした。これまで、宗教2世の支援が大事だということには、みなさん気づいておられるんだけども、しかし自分たちが介入していいのかどうか、躊躇もあったと思います。政教分離という原則があって、行政や公教育が、宗教の問題には立ち入らないという不文律が非常に強いがために、子どもたちが虐待を受けていても、これが宗教的な問題である場合、親子間・家族の問題として自分たちは介入できないとしてきた。
しかし、厚生労働省でも、文部科学省でも、宗教的な問題があればノータッチではなく、関わりながら解決していってほしいという通達が出ていますので、積極的に対応していいんじゃないかなと思います。

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去年12月、北海道スクールカウンセリング研究協議会が主催する研修会にて

――現行の制度、仕組みの中でもできる支援、具体的な支援というのはあるのでしょうか?

櫻井:現行の仕組みの中では、相談の受付自体はできます。児童相談所に向けては、近所の人だって通報できるし、学校の先生に対しても相談できる。しかし一旦は相談を受けるのだけれども、これはご自身で解決してもらうしかないと打ち切ってしまうわけですよね。しかし当事者は解決するための知識も、どこに支援を求めたらいいのかも分からないわけです。
まずは当事者に「サポートを求めていいんだよ」と知ってもらうことが大事です。宗教2世の人たちは、宗教団体の中だけで暮らしているので、その外では、誰も助けてくれないのではないか、非常に怖い世界なんじゃないかなどという思いがあるわけです。でも実際、様々な人と接して助けてもらう経験をしていくと、世間はそんなに悪いところじゃないと理解してもらえるんじゃないのかなと思うんですよね。具体的に必要なのは、スクールカウンセラーやソーシャルワーカーなどが、就労支援や住宅支援、生活保護など様々な制度を紹介して適切につないでいくことです。

画像(もみじ)

宗教2世問題は決して他人事ではない

――宗教2世の皆さんは、どんなことを求めているのでしょうか。

櫻井:ある集団が問題を抱えているということと、そこに関わっている自分自身の人間性というものは分けて扱ってほしいという思いがあると思います。
当事者の中に「カルト2世」ではなく「宗教2世」という言い方をしてほしいという人がいます。その理由は、自分たちの問題を普遍化して解決してほしい、ラベリング・差別をされたくないという主張なんだと思います。銃撃事件以降しばしば「カルト」という表現が聞かれますが、社会問題性の強い集団を「カルト」という形でラベリングしてるんですよね。そうではなくて本来は、何が社会的に問題なのかを明確に言っていかねばいけないはずです。それをせずに、ただ「これはカルト、これはカルトでない」というのは単なるラベリングで、何も問題を指摘していないですね。だから宗教2世問題というのは、幅広く見ていかないといけないんじゃないでしょうか。
特定の教団の宗教2世問題に関しては、個別の事例に対する具体的な措置になると思います。例えば児童虐待があるのであれば児童相談所が介入する、困窮世帯の問題があるのであれば教育現場による進路指導、就労支援の窓口の紹介などです。

画像(公園のブランコ)

――宗教2世をめぐる問題を、他人事ではなく、自分事として考えていくためには何が必要でしょうか。

櫻井:日本人はよく「私は無宗教です」などと言いますが、結婚式や葬式など、生涯を通じて宗教的な儀礼に一切関わらずに生活していくという人はほとんどいないのではないでしょうか。宗教は個人の選択であると同時に、文化として生活の中に自然と継承しているという面もあるわけです。
また、個人単位だけでなく、日本にある多くの宗教団体を見てみても、彼らはしばしば「私たちは宗教で、あなた方はカルトだから私たちはこの問題には関係無い」と距離を取ろうとする。しかし実際はグレーゾーンでつながっています。問題のある集団の特徴として、非常に権威主義的であったり家族の問題に介入していったりという点が挙げられますが、それで言えば、例えば国だってそういう性格を持っている場合もあります。問題のある集団と宗教の間にもグレーゾーンがあるし、一般的な社会組織と問題のある集団の間にもグレーゾーンがある。宗教2世の問題について考えることは、私たちが所属している集団について考えることとも地続きであり、決して他人事ではないんです。

画像(バラ)

「信教の自由」と宗教2世

キリスト教神学が専門の同志社大学神学部・小原克博教授は、宗教2世の問題を考える上で、宗教を通して世界の動向と人間精神の内面を洞察する神学者の立場から、日本国憲法第20条が保障する「信教の自由」をあらためて問い直す必要性があると指摘します。

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同志社大学神学部・小原克博教授

小原:私自身、今回の一連の事件を通じて、憲法20条の読み方が変わりました。第一項に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とあり、第二項には「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」と書かれています。これを今まで私たちは、大人を前提にして解釈していたと思います。けれども、今回宗教2世の問題が出てくる中で、「何人も」の対象として子どもも視野に入れねばならないと気づくことになりました。

――昨年12月には旧統一教会の被害者救済法が成立しましたが、“子ども”を守るという視点から、これをどうご覧になっていますか。

小原:最初の一歩としては十分意味があると思います。関心の対象のひとつは高額な献金ですよね。生活の基本を損なわないための規制は重要ですので、そういう点では、極めて意味があると思いますね。ただ、これは最初の一歩で、いま宗教2世たちが求めているのは自分たちの居場所なんだと思います。これまでは周囲が、宗教に対して十分な理解がなかったり、身構えてしまったり、あるいはそもそも話を聞いてくれませんでした。そうなると、家の中だけではなくて、家の外に出たとしても居場所がないと感じるわけです。ですから、時間はかかりますが、そういった点でも改善していく必要があると思っています。

今回新しい法律ができたからといって、今後、問題のある宗教団体が生まれないわけではありません。人間の心がそういうものを生み出していくからです。
ですから、そういうものが生まれるということを想定した上で、仮に新しい宗教が一般的な社会的通念からよくないことをしたとしても、そこで生じている問題を早く察知したり、その犠牲者を助けることができるような仕組みができていけば、今宗教2世が抱えているような問題は、少しずつ軽減されていくのではないか。
法によって経済的な問題を解決するだけではなくて、子どもたち一人一人が抱えている悩みを外に出しても、きちんと偏見なく受け止めてくれるような人や社会を作っていくことが大事ではないかなと思います。

画像(大学で講義中の小原克博教授)

――しかし、具体的に子どもを守るためには、より強い規制のできる法律が必要だという議論もあります。

小原:オウム真理教が話題になった1980年代、90年代、世界各地で、カルト的な宗教団体の問題がありました。そこでフランスでは2001年に、いわゆる「反セクト法」が議会を通過しました。その内容は、宗教はもちろん、それ以外にも広く、精神を不安定にさせるなど、「このような要件を持っていれば、その団体は『セクト』とみなしますよ」という10項目を設けて、非常に悪質な場合には、活動停止することができるぐらいの強い権限を持った法でした。
銃撃事件以降、日本においても、特に悪質な団体に対して解散を命じるような手段を求める人も増えてきたと思います。確かに問題の悪質性を鑑みると、そういった考え方が出てくるのも十分理解はできます。ただ前提として言えるのは、旧統一教会を始め宗教団体の実情について、日本社会が本当に向き合おうとしてきたのはごく最近のことだということです。信教の自由との兼ね合いで非常に繊細な問題をはらんでいるにもかかわらず、銃撃事件後にほんの数ヶ月ぐらいで得た知識や理解しかない中での議論は拙速になりがちで、もう少し慎重さが必要だと思います。
フランスでも、実際にセクト法の運用が始まったのですが、2005年には修正されています。理由の1つは、それまで出されていた「こういう団体が危ないですよ」というブラックリストのようなものが、結果として偏見を助長する危険性があるということです。またリストに挙げたところで問題が解決するわけではないことも分かってきて、リスト化をやめたんです。実際、施行後、その法によって活動を停止された団体はひとつもありません。つまり議論そのものには意味があったと思うのですが、それが効果的に運用されて、フランスにあった問題を一網打尽に解決したというわけではないんです。

――なぜ、セクト法は運用が難しかったのでしょうか。

小原:人間の心のあり方は、簡単に線引きできるようなものではありません。人の内面にまで立ち入って、「この人の心の状態がこうだからこの団体は悪質だ」というふうには簡単に言えないので、フランスでも、その人の信仰や教義の内容には踏み込みません。
そうではなくて、結果責任を具体的に問うべきです。今回の旧統一教会の問題でも、解決の方法としては「民事上の裁判事例がたくさんあった」「苦情の件数がこれほどにまで上っている」など、具体的な事例を俎上に上げて、より客観性がある事柄に基づいて判断すべきだと思いますね。

――フランスと日本とでは、宗教に対する向き合い方が異なるのでしょうか。

小原:信教の自由というのは、民主的な社会がどのようなものなのかを考える上で、とても重要です。西洋の場合には、それを何世紀にもわたって議論し、自分たちの権利として獲得し、法にしてきたわけです。フランスの反セクト法も長い議論の果てに生まれたもので、そこには国民的な合意形成があります。
ところが日本の場合、少なくとも戦争が終わるまで、明治、大正、昭和期の政府は、宗教団体に対して監視と弾圧の手を緩めませんでした。国家に忠誠を尽くすものに対しては活動を許すが、少しでも国家に敵対するものに対しては容赦しないという形で、信教の自由は条件付きのものでした。ですから、そういう国や社会が、戦争が終わったからといって、急に信教の自由の大切さを理解できるわけがありません。我々は、今なおそれを理解できていないのではないかという立場に立って、そのことの意味を謙虚に考えていくべきでしょう。

画像(研究室での小原克博教授)

“宗教リテラシー”が低い日本社会

――宗教2世の当事者への取材を続けていると、「宗教に対する社会の無理解や偏見が、誰にも相談できない状況を生んでいる」という声が聞かれます。

小原:憲法20条の第三項には、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とあります。戦前の日本は、国家主導で宗教教育をしました。つまり、天皇の神的な権威を国民全体に行き渡らせるために、万世一系の天皇神話を初等教育から学ばせました。そして、国民は天皇のために神国日本の一員として当然の犠牲を払うべきだとされ、戦争の時代へと向かっていったわけです。
ですから、結果として宗教教育が日本の戦争の時代を下支えしたという反省のもとで、戦後は公教育からは宗教教育を一切排除することになった。国が宗教教育に関わってはいけないというのは、戦前に対する強い反省なんです。この点はしっかりと理解すべきだと思います。
とはいえ、宗教教育がほぼなされなくなった結果、戦後世代は、自分の家が帰属している宗教についてすら、もはや知識を持たない、そのようなところまでレベルが下がってきています。広く宗教一般についての理解や関心は期待すべくもありません。そして人間は、理解できないものに対して簡単に偏見を持つんですよ。あるいは恐れを持つ。知らないからきっと怖いものに違いない、と。
戦後日本の場合には、もともとそういう“宗教リテラシー”が低い上に、宗教に関わる事件を目の当たりにする中で、偏見や恐れを抱く傾向が一層強くなりました。その代表的なものが1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件です。その後、2001年には、アメリカで同時多発テロ事件が起きました。イスラームの全体像を見ずに「あ、この宗教は怖い」という風になってしまいました。

画像(地面の落ち葉)

――宗教2世の人たちが安心して社会で暮らせるようになるためには、“宗教”について幅広く理解する必要があるということでしょうか。

小原:そうですね。宗教2世の人たちは、置かれた状況から脱したいと感じたり、自分たちが昔いた宗教団体についての実態を理解したりしてほしいとは思っている。しかし、宗教とか信仰そのものを否定しているわけではないと思うんですよ。特殊な宗教のあり方が自分たちを苦しめてきたことに対して異議申し立てをしているのであって、宗教自体を否定したいわけではない。
ですから、彼ら、彼女たちの苦しさを適切に受け止めるためには、宗教というものの全体像をきちんと見るための知識が必要だと思います。宗教は、絶対的に良いとか、絶対的に悪いというものではありません。人間がその両面を持っているように、宗教にも、それが良い形で現れる場合もあれば、悪い形で現れる場合もある。
人間が持つ闇の世界や暗い部分を宗教が示していることは、歴史を見れば明らかです。そこから学ぶこともできますし、反対に、ガンジーやキング牧師、マザー・テレサの活動など、宗教でなければできなかったような大きな跳躍や、社会の変化もたくさんある。ですから、そういう両面の事例をしっかりと学ぶことによって宗教の全体像を知るべきだと思うんですよね。そうすれば宗教というものが、間違った方向に大きく振れるようになった時に、その中にいる人だけでなく、外にいる人もその変化に気づいて、場合によっては、宗教と社会の関係を修復することもできるのではないでしょうか。

画像(もみじ)

――宗教への偏見がない社会を作っていくためには、どうすればよいでしょうか。

小原:多くの国民の宗教に対する基礎知識を底上げし、“宗教リテラシー”を高めていくためには、やはり学校教育が大切です。公教育の中で、ある特定の宗教を優遇しないような形で、宗教を信条としながら生きる人の生き方・考え方を実際知るのが一番いいと思います。お坊さんや神社の神主さんからこんな話聞いた、のような。それは現行のカリキュラムの中でも、総合的な学習や社会科など工夫はできるとは思います。知識も大事ですが、人との出会いは生きたリテラシーにつながります。
「相手が大事にしているものを私も大事にできます」という、この基本関係ができれば、もうリテラシーとしては十分です。ですから、それは決してハードルの高いものではないと思うんです。

“生き方を選べなかった”子どもたちのために

小原:宗教2世の人たちが抱える問題は、家庭ごとに多様だと思います。しかし、ひとつ言えることは“選択できない”ことなんですよね。親を選ぶことができない。その延長で宗教を選ぶことができないということが、今回の問題の根っこにあると思います。
実際に私たちも普通に生活している中で、自分で選べるものもあれば、選べないものもある。それに折り合いをつけながら生きているわけです。ところが、子どもにそれをさせることはできません。つまり、親も選べないし、宗教も選べない。そういう弱い立場にいる子どもは、社会が守ってあげないといけないんです。
これは一般的に言えることなのですが、しかし、これまでは、宗教は例外扱いされてきました。虐待に近いものがあっても、それが宗教にからんでいるならば、公的な窓口では門前払いされてきた事例が多かった。しかし子どもが、子どもの身ひとつではとても耐えきれないような困難を抱えている時には、家庭の外から手を差し伸べなければならない。ですから、宗教2世の問題というのは、特殊な人たち、特殊な環境の問題というだけではなく、自分で選べない環境の中にいる人たちに対して、その声に耳を傾けて、必要であれば手を差し伸べて救い出せるような社会にしていけるのか、ということです。それを私たちは普遍的に問われているのではないかと思います。

執筆者:辻佐絵子(NHKディレクター)

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