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「全盲の娘の友達が、母の私に教えてくれたこと」向井由美さん 第57回NHK障害福祉賞・優秀

記事公開日:2023年02月27日

全盲のまなちゃんは、毎朝、とても楽しそうに通園・通学してきました。周囲の子どもたちはまなちゃんを特別扱いせず、工夫しながら一緒に遊びます。ときに、まなちゃんが先生となってみんなに鉄棒を教えることもあります。
母親の向井由美さんは、娘が生まれたときにはこのような未来は想像できなかったと言います。いじめや、つらいことばかりなのではないか、かわいそうな存在なのではないか。しかし、日々大活躍する娘に、そんな思い込みをどんどん覆されていきます。
「見えない」ことの意味を理解し始めたまなちゃんに、向井さんは娘が壁に当たるかもしれないと考えています。しかしそれは、誰もが成長の中で体験することのひとつに過ぎないのではないか。子どもたちが見せてくれた、障害への偏見や差別のない世界の実現を向井さんは願っています。


「全盲の娘の友達が、母の私に教えてくれたこと」 向井由美


「まなちゃん、一緒に学校、行こう」

 朝七時四十五分、近所のお友達五人の元気な声に誘われて、娘が学校へと出かけて行く。行ってらっしゃい、娘の後ろ姿を見送っていると、みんなで何やら楽しそうに話をしている。そこには全盲児との接し方などという何か特別なものがあるわけではない。
 振り返ると、これまで娘や娘のお友達を通じてさまざまなことに気づかせてもらった。

 二〇一四年四月十七日、高槻市の個人病院で娘は全盲児として生まれてきた。病名は世界でも極めて珍しい先天性小眼球症、角膜異形成であった。発生原因は不明、治療方法は特になかった。
 目の見えない人生をこれから娘が歩む。そのときの私には絶望しかなかった。目が見えなくて楽しいことなんかあるのだろうか? そもそもお友達はできるのだろうか? 見えないことで意地悪や差別など、これから辛(つら)いことがたくさんあるのだろう。きっと学校も自由に選ぶことはできないに違いない。選択肢のない娘の未来を悲観した。体の障害をもった上に心まで傷つきながら生きてほしくない、娘を必ず守ってみせると覚悟を決めた。

 娘が二歳の時、保育園に入園させた。本当は娘の発達を少しでも助けられるよう傍(そば)にいたかったのだが、仕事のオファーを断りきれなくなっている状況もあった。何より乳幼児期くらい障害のない子どもたちと接してほしいという思いも、入園の大きな理由であった。縦割り保育を行う保育園のため、いろいろな学年の子どもと接することができるということにも期待していた。
 義務教育になると、おそらく地域の普通校に入学させてもらえず、盲学校(視覚特別支援学校)へ行かねばならないだろう。今しかできないことを少しでも体験させたいという思いもあった。保育園の先生には、「どうか娘にとって、楽しく過ごせる場所にしてやってほしい」と頭を下げて思いを伝えた。

 保育園のお迎えの時間、私はいつも心配ばかりしていた。嫌な言葉を誰かに言われて傷ついてはいないか? 誰かに足を踏みつけられてケガをしているのではないか? 仲間に入れずずっと一人ぼっちで過ごしているかもしれない。考えだしたら不安は尽きない。しかしながら、私の心配をよそに娘は毎日とてもご機嫌で楽しそうだった。週末にも保育園に行きたがっている様子であった。
 ある日、いつものようにお迎えにいくと、二つ上の年長さんのA子ちゃんが声をかけてきた。
 「まなちゃんのママ? しっぽ鬼、知ってる? お尻にしっぽをつけて、鬼から逃げる鬼ごっこのゲーム。まなちゃんは今日、鬼をしたんだよ。A子、まなちゃんに捕まえられちゃったの」
 と今日の遊びを説明してくれた。

 私は、全盲児が鬼ごっこ? それも鬼になって捕まえた? どうやって? と不思議で仕方がなかった。

 A子ちゃんの話が全く想像できなくて、A子ちゃんは空想を言っているのかと思った。傍にいた保育士が詳しい話をしてくれた。
 「おしりにつけるしっぽの中に鈴をつけたんですよ。これ、年長さんたちのアイデアですよ。保育士はみんな、まなちゃんと手を繋(つな)いで一緒に走ればいいよねとしか考えていなかったのですが、年長さんたちが『まなちゃん、音なら分かるんじゃない?』と私たちに提案をしてくれました。びっくりしました」
 と教えてくれた。
 目の見える子たちと全盲児が一緒に同じ時間を遊ぶ。涙がでるほど嬉(うれ)しかった。娘の毎日のご機嫌な理由も、ちょっぴり分かったような気がした。見えない子は仲間に入れないではなく、見えない子とどうしたら一緒に遊べるだろう? と考えて行動してくれた子どもの発想力にはとても驚かされた。
 保育園にいれてよかったな、これもいい思い出になるだろうな。

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 保育参観の時、同じクラスのB子ちゃんのお母さんが、
 「まなちゃん、いつも娘と遊んでくれてありがとう」
 と声を掛けてくれた。嬉しい挨拶に
 「むしろこちらこそ、ご迷惑おかけしてすみません」
 と返すと、その様子を見ていたB子ちゃんがいきなり、
 「まなちゃんのママ、なんで謝ってるの?」
 と質問をしてきた。

 言われてみたら、私は一体、誰に何を謝っているのだろうか? 「仲良くしてくれてありがとう」の気持ちは感謝なのに。
 私は心のどこかで、「全盲児なのに」遊んでくれてありがとうと娘を可哀(かわい)そうな存在として捉えているのではないだろうかと思った。子どもたちは「全盲児のまなちゃん」と遊んでいるのではなく、「まなちゃん」と遊んでいる。そのまなちゃんが見えないだけという認識をしているだけなのかもしれない。

 娘は目が見えなくて可哀そうなのではなく、目が見えないという特性があるだけなのだ。偏見のない子どもたちはそんなことを教えてくれたのかも知れない。

 娘が成長するにつれ、小学校をどうするのか? 考える時期がきた。盲学校しか選択肢がないと思っていたが、保育園で子ども同士が普通に接する姿を見て、地域の小学校でも通えるのではないか期待するようになっていた。一方で、本当に学べるのか? 危ないのではないか? という不安な気持ちが時折よぎり、迷ったりもした。
 そんな時にヘレンケラーの言葉と出会う。

 「安全とは思いこみにすぎない場合が多いのです。現実には安全というものは存在せず、子どもたちも、誰一人として安全とは言えません。危険を避けるのも、危険に身をさらすのと同じくらい危険なのです。人生は危険に満ちた冒険か、もしくは無か、そのどちらかを選ぶ以外にはありません」

 この言葉を読んで、「娘をこれ以上傷つけさせない、守ってあげなければいけない」と考えていたこと自体、私の思い込みではないかと思った。
 小学校に併設されている幼稚園の存在を知り、思い切って転園しようと思った。

 三年間保育園で過ごした三月三十一日の最終日。同じクラスのお友達が数名玄関まで
 「まなちゃん、バイバイ」
 と見送りに来てくれた。そして一人の女の子が
 「まなちゃん、保育園やめちゃうの? 悲しい」
 と泣いてくれた。こちらこそいろんなことを教えてもらってありがとうという気持ちでいっぱいだった。

 無事に幼稚園年中クラスに娘は転園をした。みんな初めて見る娘の目を見てびっくりしていた様子であった。娘もまた初めての幼稚園という環境に少し戸惑っている様子ではあったが、三日も通えばもう慣れたといった様子だった。子どもの環境適応力の高さは目を見張るものがある。
 数日後、幼稚園の先生から呼び止められた。何事かと思っていたら、
 「今日のまなちゃん、まなちゃん先生になっていましたよ」
 と教えてくれた。

 まなちゃん先生? 目の見えない娘が誰かに何かを教えることがあるのか? と不思議に思った。

 聞けば、娘は得意な鉄棒で連続十回転逆上がりに成功したようだ。それを見ていたお友達から「すごい」と尊敬のまなざしで見られたようだ。クラスの中に、何人か逆上がりができなくて悩んでいるお友達がおり、「どうやったらできるの?」と聞かれた娘がつたない言葉で教えたようで、「まなちゃん先生」になっていたとのことだった。
 見えない全盲児から、見える子どもたちが鉄棒のやり方を学ぶ。
 娘は常に誰かに助けられるだけの存在だと思っていた自分が、この時はすごく恥ずかしかった。娘だって誰かを助ける存在になれるのだ。

 幼稚園では、娘は人の名前と声を覚えようと
 「お名前は何ですか?」
 と必ず名前を聞いている。そして
 「高槻市に住んでいます。まなといいます」
 と自己紹介をしてコミュニケーションをとろうとしていた。ある時、
 「まなちゃんのおかげで、挨拶すら恥ずかしくてできなかった息子が自己紹介をしっかりできるようになった」
 と幼稚園のお母さんが嬉しそうに教えてくれた。

 娘にとっては生きていくために必要な行動が、誰かの行動の一歩目に繋がるのかもしれない。娘を通じて出会った方からの、娘と接したことで変われましたという報告は、純粋に嬉しかった。

 娘がいたおかげで、幼稚園のお母さんたちから「実は私の子どもに障害が見つかって」や「育てにくい部分があるのだけど、どうしたらいいと思う?」といった、たくさんの「実は」な相談を私はされた。話を聞いていく中でつくづく、多くの人が人に言わないだけで自分の子どもが周りと違うことに悩んでいることを知った。娘が生まれなければ気づくことすらなかったに違いない。

 いろんな人と出会える地域の小学校にやっぱり行かせたいと思った。思い切って娘に盲学校と地域の学校、どちらがいいか聞いてみた。
 娘は、悲しそうな顔で、
 「クラスのC子ちゃんやD子ちゃんと同じ小学校に行くと思っていたのに、通えないの?」
 と聞き返してきた。
 もう迷いはなかった。

 幼稚園の卒園式の日。
 娘は誰の補助を借りることなく、一人で歩いて卒園証書を受け取った。娘が立つ位置にはすべて、足で触れば分かるマットが敷かれていた。
 「地域の学校へ行くための第一歩として、誰の助けも借りないまま歩いてほしい」と幼稚園の先生の素敵な計らいだった。

 小学校入学前の春休み、
 「まなちゃん、私たちと一緒に学校に行こう」
 近所に住む子どもたちから通学の誘いを受けた。二歳年上のしっかり者の女の子二人が
 「私たちに任せて」
 と申し出てくれた。地域の学校に近所のお友達と通う。当たり前のことができる人生を娘が送れていることを、七年前に想像できただろうか?

 「お手伝いしようか?」という申し出ではなく、「一緒に行こう」というお誘いに、ひそかに涙が止まらなかった。

 現在、娘は小学二年生だ。国語と算数だけ支援級で学び、他の授業はみんなと一緒に受けている。みんなと同じように給食当番を行い、掃除当番もこなしている。以前、娘の補助に入った先生が勝手に「まなちゃんは見えないから」と決めた役割に対して、みんなから「ずるい」と言われたようだ。ホウキで集めたごみをちりとりに入れて捨てる動きはさすがにできなかったが、雑巾がけや、窓ふき、机運びなどできることはたくさんあった。
 先生からは
 「見えないからと決めつけてしまってごめんなさい」
 と言われた。

 学校の敷地内に学童保育があるので、お迎えに行くと、
 「まなちゃんと一緒になわとびしたよ」
 とか
 「まなちゃん今日、お茶こぼして、びっくりしていたで」
 など、お友達が報告をしてくれる。

 「見えない人はこうだ」というような決めつけの概念は、子どもたちには存在しない。

 娘は最近、「目が見えない」ことの意味を少しずつ理解してきている。なぜ人と同じようにできないのか? なぜみんな黒板の文字が読めるのか? なぜがいっぱいで溢(あふ)れている。きっとこの先、必ず見えないことが原因で挫折することや、希望が絶たれそうになることが出てくると思う。でもそれは、娘だけでなく、誰でもが平等にぶち当たる壁なのだ。「実は」な相談をしてくれたお母さんたちを含め、一人一人皆違った壁があるだけなのだ。
 壁にぶつかった時に、見えないことを理由に諦めないでほしいと親心に思う。なぜなら、私は、子どもたちを通じて目が見える・見えないという障害そのものが障害なのではなく、障害とは大人によって思い込まれ、作り出されたものであることを教わってきたからだ。

 子どもの世界には偏見も差別も存在しない。少なくともそう信じるに足る子どもたちを、私は目の当たりにしてきた。そんな社会が大人でも作られたらと切に願うばかりである。


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