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福祉の知識をイチから! ヘルパー(2)介護の人手不足と人材育成

記事公開日:2022年10月03日

障害のある人や高齢者の自宅を訪ね、家事の手伝いから、医療的ケア、外出先での移動の支援まで、生活に必要なサポートをするヘルパーの人たち。シリーズの(2)では、ヘルパーのみなさんが仕事を通して体験した“あるある”を座談会で披露!ヘルパー制度が現在の形になるまでの歴史や、若手ヘルパーの育成など人材不足の解消に向けた取り組みも紹介します。

ヘルパー“あるある”座談会

今回、ヘルパーの仕事ならではの“あるある”体験を伺うため、座談会を開催しました。学生からベテラン、元ヘルパーまで幅広いメンバーが集まりました。

山田康子さん(派遣事業所代表・ヘルパー歴24年)
伊藤颯希さん(大学院生・ヘルパー歴2年)
遠藤彩さん(ヘルパー歴10年)
向山夏奈さん(大学院時代から2年間経験)

画像(座談会に参加した4人)

最初のトークテーマは、「介助を通して価値観が変わった」です。

向山:私、大学3、4年生のときに、就職活動が死ぬほどつらかったんですよ。スーツを着るのも、知らない大人から評価されるのも嫌で・・・。そのとき、私の利用者さんから「あなたがいれば、介助者が一緒にいれば、私の障害って軽くなる。満員電車も介助者がいれば一緒に乗れるから」って言われたんです。(その言葉に)とても感動して、誰かが一緒に介助をすれば、社会のバリアはなくせるし、自分自身が社会のルールに縛られていたなって思ったんですよね。当事者の人たちみたいに社会の形が自分に合わなくても、意志さえあれば好きに生きていくことはできるというメッセージをもらって、そこから生きるのが楽になりました。

山田:利用者さんたちは、昨日まで元気だったけど、夜、何か事故があって亡くなってしまうこともあり得るので、そういう方と身近に接していると、価値観がすごく変わりました。五体満足で階段を使えるのに、どうしてエレベーターの前に並んでるんだろうとか。そういうことに、すごく目が行くようになりました。

向山:あるあるですね。

山田:私は介護は「人間学」だなって。福祉でもなく、哲学でもなく、「人間を学ぶ仕事」。そういう思いで仕事ができるようになったのは、自分が(ヘルパーの仕事に)ハマっている理由の一つなのかなという気はしています。

画像(座談会の様子)

ここでヘルパー歴2年の大学院生・伊藤さんから相談が持ちかけられました。伊藤さんは筋肉が衰えていく難病ALSの男性を、2年前から介助しています。

伊藤:皆さんが気持ちのコントロールをどうされているのか気になっています。利用者さんが喜んでいるときはいいけど、落ち込んでいたり、悲しいんでいるときに自分も悲しくなっちゃったり・・・。

画像

座談会に参加した伊藤さん

アドバイスしたのはヘルパー歴24年のベテラン、山田さん。伊藤さんと同じくALSの患者を介助しています。

山田:命を預かっている仕事であるという点を頭のどこかに置いて、客観的に自分を見るようなイメージを持って仕事に臨まれると、少しコントロールがしやすくなるんじゃないかな。

向山:私は、空気を一緒につくることも介助だからと教わっていて、たとえば飲み会に介助で参加したときとかに、一緒に楽しい雰囲気を出したりしていたんです。一緒に楽しめるって、すごいいいことじゃないですか。だから、それ(利用者と同じ気持ちになること)は伊藤さんの長所かなと思います。

遠藤:僕もそう思います。ただ、仕事で介助者と利用者という関係でもあって、友だちとか家族ではないわけで・・・。どちらかに偏ってしまうのが怖いことで、バランスをうまく自分の中で取れるといいんじゃないかなと思います。

伊藤:ありがとうございます。私は近づきすぎてしまうところが結構あるので、そこのバランスを保っていくのは、一つ、意識しておくだけでも違うのかなと思います。

ふだんはヘルパー、でも実は…


座談会に参加してくれたヘルパーの遠藤彩さん。実は、休日はパンクバンドで演奏活動をしています。齋藤さんによると、ヘルパーには意外とバンドマンが多いのだとか。そのほか芸術活動や、お笑い芸人をしている人も!

画像(遠藤彩さん)

日本のヘルパー制度の歴史

今は地域で暮らす障害者はめずらしくありません。しかし、現在のように障害者がヘルパーを利用して地域で暮らせるようになるまでには、長きにわたる闘いの歴史がありました。

1960年代、高度経済成長を迎えた日本。当時、障害者の生活の場は親元か、障害者施設がほとんどでした。そうした中、施設に入所した人々が声を上げはじめます。

東京にある「府中療育センター」では、起床やトイレの時間、持ち物や食事も規制され、外出も許可制。女性の入浴介助を男性職員が行っていました。

1972年。生活環境の改善を求めて、入所者たちが都庁の前で座り込みを始めます。この抗議運動は、およそ2年間におよびました。そうした中、入所者の中から地域で暮らしたいと施設を出て、自立生活を始める人が現れはじめます。

画像(抗議運動の様子)

1974年、東京都は、障害者がヘルパーを公的に利用できる制度を開始。その名も、「重度脳性麻痺者介護人派遣事業」です。地域で暮らし始めた人々が、行政と交渉し、勝ち取った制度です。これが、現在の重度訪問介護の前身となりました。

画像(重度脳性麻痺者介護人派遣事業)

しかし、ヘルパーを利用できるのは月にわずか4回のみ。重い障害がある人や、24時間介助が必要な人たちには不十分な制度でした。そのため、障害者はチラシを配ったり、つてを頼ったりしながら、自力でボランティアのヘルパーを確保するしかなかったのです。

地域で暮らす権利を求めて、障害者の運動は全国に広がっていきました。その代表的なものが、「川崎バス闘争」です。当事者団体「青い芝の会」は、車いすでバスに乗る権利を求め、激しく闘いました。

画像(川崎バス闘争)

闘争に参加していたひとり、白石清春さん(72)は脳性まひによる障害があります。

「どこでも行きたいところへ行って、やりたいことがやれるような、そういう社会を作りたいと運動していたんです。障害者が社会の中で生きていくには、小さくなって、なるべく迷惑をかけないで、自分の力でなんでもやって生きていくんだよと、親をはじめ周りの人に言われて育ってきたんです。でも、そうじゃなくて、迷惑をかけてもいいんじゃないかって。どんどん迷惑をかけて生きていったほうがいいぞと(青い芝の会の)先輩が言ったんです」(白石さん)

画像

白石清春さん

この頃、アメリカからある情報が飛び込んできました。70年代に、カリフォルニアのバークリーで誕生した「自立生活センター」についてです。

自立生活センターは、障害者自身が運営する組織で、ヘルパーの情報を利用者に提供し、両者をマッチングする仕組みを作り上げていました。

画像(バークリー 自立生活センター)

バークリーの自立生活センターに研修に行った安積遊歩さん(66)は、骨が折れやすい体で20代から親元を離れ自立生活を送ってきました。

「バークリーでよかったのは、『ノンスモーキング、ベジタリアンの介助者希望』とか書いてあるボードがあって、『それは彼らの自己選択と自己決定なのよ』と言われて、『そうか、自分のほうから選んでいいんだ』と思いました」(安積さん)

画像(安積遊歩さん)

1986年、バークリーの仕組みをヒントに、日本で最初の自立生活センターが設立されました。ボランティアではなく仕事としてヘルパーの人材を登録し、国の補助金も使って派遣する仕組みが作り上げられたのです。

画像(1986年 日本で最初の自立生活センター設立)

これは障害者自身が勝ち取った成果だと、立命館大学大学院教授の立岩真也さんは言います。

「障害者自身が組織をつくってサービスとして提供する仕掛け、アイデアはバークリーからもらったけれど、政府の補助金も使って組織を回すというのは、日本でつくられてきた仕組み。ハイブリッドというか組み合わせてやってきたので、まあまあのところまできたかなと思います」(立岩さん)

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立命館大学大学院教授 立岩真也さん

ヘルパー派遣事業所代表で自身もヘルパー歴20年の齋藤信弥さんも、今の障害者福祉は歴史を作り上げてきた人たちのおかげだと話します。

「今までの歴史を作ってきた人たち、当事者の方たちがいるから私たちがいる。そして、障害者福祉もあって、今の社会もある。これまでの当事者の運動は本当に尊敬できるものだと思っています。今のいちばんの課題は人手不足です。特に若い人が不足していて、私たちの事業所でも、大半が40代以上です。20代が1名。実際、依頼が来ても、新しい利用者のところには行けない状態です。うちの事業所だけではサポートできず、他の事業所と連携することもあります。これを考えていかなければいけないと思っています」(齋藤さん)

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齋藤信弥さん

介護はずっと続くからこそ、担い手を育てたい

どんな制度も、担う人がいなければ成り立ちません。未来の介護のために、どうやってヘルパーを育てていくか。そんな思いで、若い人材を育てる活動をしているのが吉田真一さん(48)です。

「2040年くらいになると、今より高齢者の数が増え、障害者の数も増えます。その頃に介護を供給する人、担い手になるのは若い世代ですから」(吉田さん)

画像(吉田真一さん)

吉田さんがヘルパーの派遣会社を立ち上げたのは8年前。今年も4人の新入社員が加わりました。

ヘルパーの高齢化が問題となっている介護業界にあって、吉田さんの事業所では社員の平均年齢は26歳。人の移り変わりが激しい業界で、吉田さんは社員16人の心をガッチリつかんでいます。

社員:最初に働こうと思っていた施設は「20代、30代の人はほぼいません、これから採用します」という感じで、最初から同世代の人がいないのは難しいなと思って、ここで働くことにしました。

社員:(同世代がいると)話しやすいし、何かあったときに相談しやすい。

画像(吉田さんの事業所の社員)

なぜ吉田さんの元には若者たちが集まるのか。まず力を入れてきたのは、若者と介護現場に接点をつくることです。

たとえば、会社のホームページ。明るく、さわやかなテイストで若者の目を集めました。

画像(吉田さんの事業所のホームページ)

さらにSNSも活用して社員の誕生日会の様子を投稿するなど、広告のためではなく、会社や介護現場のリアルな日常を発信しています。

「介護をやったことがないのに、『きつそうだから』『給料が低いから』と敬遠されるのはもったいないと思っています。今は(働く)チャンスを作るのがSNSの狙いになっています」(吉田さん)

興味を持ってくれた若者たちに用意したのは、訪問介護の体験プログラム。吉田さん自らが利用者役になります。

吉田:(僕の体を)横にするのにをチャレンジしてもらっていいですか?

大学生の参加者:上半身と下半身、どちらを先に横にするのがいいんですか?

画像(吉田さんの事業所で体験する体験者)

教えるのは、介助のテクニックだけではありません。

「『映像で見ました』『(そばで)立って見てました』じゃなくて、触ったときの体の重さだったり、『すごい』という感動だったり、現場の肌触りみたいなものを持ち帰ってもらうと、そこから次のステップが生まれる。人と人とが接することで生まれる安心感や信頼感に少しでも興味を持ってもらえたらと考えています」(吉田さん)

さらに入社後のフォローも徹底しています。「孤立しがち」といわれるヘルパーの仕事。そこで、現場での悩みを新人が抱え込まないよう、先輩がサポートするのです。

利用者との関係性や技術が身につくまで、先輩と新人、2人1組で最低3か月、現場に出ます。

画像(研修の様子)

「施設だと、何かあったときに頼れる先輩や看護師さんがいる環境ですが、訪問介護は何かあったときにすぐ頼れる人がそばにいない状況なので、研修が3か月というのはありがたかったですね」(社員)

さらに、少しでも疲れを減らせるよう、移動用の電動自転車を社員に1台ずつ用意。こうした細やかなサポートが、人材の定着率の高さにもつながっているようです。

「介護をつないでいかなければいけないので。介護はきょうで終わりでもないし、5年後に終わりでもないし、私が死んだら終わりでもない。担う人を少しずつでも、育てていかなきゃいけない。育った人もまた誰かを育てて、そうやってつないでいけたらと思っています」(吉田さん)

画像(吉田さん)

吉田さんの活動に、齋藤さんも共感します。

「育成と人間の関係性、その両立を仕組みにしているところがすごい。僕らもすぐにやろうと思います(笑)。ヘルパーの仕事は大変なイメージがものすごく強いけれど、実はとっても楽しくて、うれしくて、誇らしい仕事だと思うんです。もし少しでも興味がある人がいたら、ぜひ仲間になってほしいと思っています」(齋藤さん)

なかなか知られていないけれど、魅力がたくさんあるヘルパーのお仕事。番組では、多くの人に興味を持ってもらえるよう、これからも情報を発信し続けていきます。

福祉の知識をイチから学ぶ“フクチッチ”
ヘルパー(1)仕事の内容と利用者との関係
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※この記事はハートネットTV 2022年5月9日放送「フクチッチ ヘルパー(後編)」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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