福祉の知識がイチから学べる「フクチッチ」。今回のテーマは「手話」です。手話は、日本語とは異なる“言語”。知れば知るほど奥深い世界が広がっています。歴史もひもときながら、様々な角度からその魅力に迫っていきます。
手話は国によって異なります。各国の「ありがとう」の手話を見ていきましょう。
映像提供:sayabow1009_japan
〈手話Q&A〉
Q:日本語では、「ありがとう」のかわりに「サンキュー」と英語を使うことも。手話にもそういう表現はあるの?
A:日本の手話のなかでアメリカ手話の「サンキュー」を使うことはあります。また、アメリカ手話から借用して、日本の手話になったものもあります。たとえば「コミュニケーション」は、アメリカ手話から借用されています。
Q:日本語では、若者言葉で「おいしい」「楽しい」「怖い」などをすべて「やばい」と表現することがあるけれど、手話にも新しい表現はあるの?
A:手話にも新しい言葉はできています。手話は言語なので、自然に使われるものもあれば、使われなくなって自然に消えていくものもあります。年配の人から「最近の若い人の手話は乱れている」と思われることもあるとか・・・。
手話で会話する生活は、どのようなものなのでしょうか? 家族全員がろう者の髙田家の休日をのぞかせてもらいました。
午後3時半。航平くんは、公園でろう学校の友だちと待ち合わせです。航平くんが到着するとみんなが駆け寄り、一斉に手話で挨拶を交わします。
この日の遊びは「だるまさんが転んだ」。ジャンケンをして、鬼を決めます。
声ではなく指で数えて、みんなに見えるように合図します。
💡相手に気づいてほしいときは電気をパチパチする
友だちと遊んだあと、帰宅した航平くんは、すぐに壁のスイッチを何度も押し、玄関の電気を点けたり消したりします。これは、「ただいま」の合図なんだそう。
「聞こえる人の場合は声をかけると思うんだけど、ろう者の場合は電気を使って呼びかけているんです」(航平くん)
夕方は友だちとオンラインゲーム。タブレットのビデオ通話機能を使って、手話で会話しながら楽しみます。
夕飯の準備に取りかかろうとした母親の和香子さんが、手話で姉の彩夏さんに相談をもちかけます。
和香子:今日の夜ごはん、何食べたい?
彩夏:パスタ。
和香子:わかった。じゃあそうするね。
部屋のあちらこちらで、手話を使って会話する髙田家。手話が見えなくなってしまうため、ふすまはすべて撤去。ときには洗面所の鏡の反射を利用して会話することも。
💡会話がはずむと食事がなかなか進まない
午後7時、夜ごはんです。
航平・彩夏:いただきます。
和香子:どう?
航平:おいしい。
和香子:おいしい? よかった。
3人とも、ごはんを口に運ぶ手と、手話をする手が忙しそう。会話がはずむと食事がなかなか進まないのは、“手話あるある”のようです。
一日を通してどの場面でも共通していたのは、手話で会話するときは目を合わせていたこと。目を合わせるのは手話をするときの基本で、母親の和香子さんも大切にしていると話してくれました。
手話を使った会話の特徴について、聞こえない両親を持つ「コーダ」(※)として育った金沢大学教授の武居渡さんにお聞きしました。
※コーダ(CODA:Children of Deaf Adults)
聞こえない、あるいは聞こえにくい親を持つ聞こえる子どものこと
「手話では、表情が大切で、表情が読めないと伝えられないこともあります。とくにコロナ禍においては、ろう学校では口が見える透明マスクをするなどして表情が読めるようにしています。
手話の表情は、たんに痛いときに痛い表情をしたり、悲しいときに悲しい表情をするといった使い方ではありません。表情、体の向き、肩をすぼめたり、頭の動かし方など、そうしたものすべてが文法になります。そのなかでも大切なのが表情で、手話の疑問文は表情で表します。『はい』『いいえ』で答えられるYES・NO疑問文と、WH疑問文と呼ばれる『何?』『どこ?』に答える文では表情が違います」(武居さん)
YES・NO疑問文とWH疑問文の違いを武居さんに実演してもらいました。
たとえば、YES・NO疑問文で「あなたは夜ごはんを食べましたか?」と聞く場合は、眉を上げてあごを引き、最後に目を開きます。
WH疑問文で「あなたは夜ごはんに何を食べましたか?」と聞く場合は、少し眉をひそめて首を振り、目を細めます。
さらに手話の表情にはもうひとつ役割があると武居さんはいいます。
「副詞的な意味を付け加えるのも表情の役割です。たとえば『適当に勉強する』とか『一生懸命に勉強する』というように『○○に+勉強する』と副詞と動詞2つの言葉で表しますよね。手話の場合は、動詞の部分を手で表して、副詞の部分を表情で表します」(武居さん)
「適当に勉強する」を手話で表す場合、嫌そうな表情で副詞の意味を添えます。
「一生懸命に勉強する」を手話で表す場合は、真剣な表情で。
「手では『勉強する』の手話しか表していないので、『勉強する』しか伝わりません。でも表情でどんなふうに勉強しているかが表現されていることが重要です。痛いときに痛いという表情、悲しいときに悲しい表情という意味とは違い、副詞の役割を表情が担っているということです」(武居さん)
“手話”は、手だけではなく、表情や仕草などが全て文法なのです。
手話は、日本ではどのような歴史をたどってきたのでしょうか。ルーツを知るため、京都府立聾学校を訪ねました。
初めて学校で手話が教えられるようになったのは、およそ140年前のこと。当時、ろう者の間で使われていたのは身振り、手振りに近いもので、家族など小さなコミュニティでしか通じませんでした。
五十音を指で示している「唖五十音字形手勢」
そこで、初代校長の古河太四郎が、ろうの子どもたちから聞き取って考案したのが、手話言語の原型となる表現でした。
京都府立聾学校元校長の酒井弘さんは、当時のことをこう説明します。
「障害があるといじめの対象になる。だから親も子どもを家から出さない。つまり教育も受けさせず、廃人教育と言われるぐらい、子どもたちは差別の中にあったわけです。(古河は)手話をたんに使うだけではなくて、(手話を使って学ぶことで)生活を豊かに、人生を豊かにといった夢のある生活にしようと考えたのだと思います」(酒井校長)
古河の取り組みを機に、各地の聾学校で手話が使われ始めます。生徒同士が同じ言語でコミュニケーションする基礎がつくられたのです。
しかし、1933年。普及しつつあった手話を否定する出来事が起こります。当時の文部大臣、鳩山一郎が全国の聾学校で手話法を禁じ、口話法を導入する方針を打ち出したのです。
口話法とは、口の形を真似たりしながら発声する方法のこと。口話法を幼い頃から学んだ西川濱子(当時11才)という少女が話す音声がラジオで伝えられると、口話法への流れが急速に進みました。
「聞いていた人たちが本当にびっくりしたようです。(世間の人は)こういうことができるなら、なぜそれをやらないのかと思うのですね」(ろう教育研究科 坂井美恵子さん)
当時ろう教育の現場で使われていた「教則本」には、「手話語は、(中略)人類の言語としては、最も初歩的で、幼稚なるものである」と書かれています。手話に対する風当たりは、ますます強くなっていきました。
60年代には、NHKでも口話法を伝える番組が放送開始。聞こえない子どもがいる家庭では、口話法を厳しく教育する風潮が浸透していきます。しかし、聞こえない子どもにとって、正しい発声を身につけるのは難しいことでした。
都内に住む田苗俊一さん・法子さん夫妻が、口話教育を受けた当時のことを話してくれました。
「私は先輩たちが使う手話を見て、自然と手話を身につけていきました。ただ、友だちと手話でおしゃべりをしているところを先生に見つかると、とても怖い顔で怒られ、手を叩かれ、時には竹の定規で手を叩かれたこともありました」(俊一さん)
「家に帰っても母とマンツーマンで繰り返し口話の練習をしたことは、いちばん嫌でしたね。いつもつらくて泣いていました。そんな私を見て、母も一緒に泣いてしまい、私を抱きしめて、『ごめんね。つらいよね。でも、あなたのため、将来のためなんだよ』と謝っていたのを今でも鮮明に覚えています。今思えば、あの時代はそういうものだったと思います」(法子さん)
田苗俊一さん・法子さん夫妻
当時の口話教育について、武居さんは次のように説明します。
「当時は補聴器も今のようにしっかりとしたものがなかったので、(当事者が)自分には聞こえない声を直されたのは、かなり大変だったと思います。口話法が悪いわけではありません。当時の最大の問題は、口話法以外の方法をすべて否定してしまったことです。口話も手話も選べるようになっていくのが大切だと思いますし、音声で話せる子どもも、手話をどこかで覚えてほしいなと私は思います」(武居さん)
2022年5月。京都である映画の撮影が行われていました。ろう者や難聴者、聞こえる人が一緒になって制作しています。
主人公は大正から昭和にかけて大阪市の聾学校の校長を務め、「手話の父」と呼ばれた高橋潔です。
写真提供:大阪府立中央聴覚支援学校
当時は、手話が禁止された時代。そんななか、高橋の学校では全国で唯一、口話法だけでなく手話による教育も続けていました。
手話やろう者の生き方を尊重する高橋の思いは、やがて時代を動かします。
1947年、高橋の意思を継いだ同僚や後輩たちがろう者の権利獲得を求めて立ち上がり、そのうねりは全国に広がっていきました。
そして90年代、手話は一気に世間の関心を集めます。聞こえない男性と聞こえる女性が、手話を交えたコミュニケーションで愛を深めていくドラマが大ヒットし、日本中で手話ブームが巻き起こったのです。
その後、2006年には国連で「障害者権利条約」が採択され、手話が言語として認知されます。
2011年には障害者基本法が改正され、日本の法律上、初めて手話が“言語”として認められました。
筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター教授の大杉豊さんは手話の変遷をこうとらえています。
大杉さん:以前は、ろう者が社会参加する上で日本語力や口話が必要で、社会的な壁が多くあったと思います。しかし、今は自分の言葉である手話で、自分を変えなくても広く社会に参加することができ、活躍の場も広がりました。
今や大学でも、英語や中国語など外国語と並んで手話の授業が開かれています。東京外国語大学で9年前に始まった手話の授業は、常に大人気。講師を務める小薗江聡さんはいいます。
小薗江さん:ろう者には手話言語があります。ただ、社会には知られていないので、手話を知ってもらうきっかけとなってほしい。次世代の若いろう者が社会に出て、手話を学習した聴者(聞こえる人)と出会い、違和感なくありのままで社会の一部になれると良いと思います。
手話を学びたいと考えている人に、武居さんはエールを送ります。
「手話をぜひ学んでください。実は聞こえる人たちが手話を学べる場はどんどん増えています。たとえば、地域の手話講座のようなものもありますし、手話サークルもあります。
ただ、私が問題だと思っているのは、手話は、聞こえない人みんなが使えるわけではないことです。たとえば小さい頃、一般の学校に通っていて、聞こえる人たちと一緒に学んでいた場合は手話に出会う機会がなかった。その人たちが大きくなってから手話を学びたいと思ったとき、聞こえない人のほうが手話を学べる場が少ないのです。ですから、聞こえない人たちがどの年齢になっても手話を学べる場所も、これからは作っていく必要があると思っています」(武居さん)
ここまで、知られざる歴史をひもときながら手話の魅力を見てきました。フクチッチ手話編(2)では、手話ニュースの現場や手話通訳の仕事を紹介します。
福祉の知識をイチから学ぶ“フクチッチ”
手話(1)知られざる歴史とその魅力 ←今回の記事
手話(2)手話ニュース・手話通訳の仕事
※この記事はハートネットTV 2022年6月27日放送「フクチッチ 手話(前編)」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。