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戦争が聴こえる 盲学校の生徒たちが経験した戦争

記事公開日:2022年08月15日

2020年の冬、岐阜盲学校の図書室から「永久保存」と書かれた缶ケースに入っていたカセットテープが見つかりました。録音されていたのは、終戦から25年後に、盲学校の教員が卒業生などから聞き取った戦争体験の肉声です。そこには、校長が先頭に立って、敵機の来襲を味方に知らせる「聴音兵」の育成を目指していたことが記録されていました。戦争の役に立つかどうかで人の価値が判断され、障害のある人は「穀潰し」などと罵られた時代。戦争協力へと駆り立てられた生徒たちの声に耳を澄まします。

見つかった戦争体験者の肉声

岐阜県立岐阜盲学校では、小学部から高等部まで、26人の全盲や弱視の生徒が学んでいます。2020年の冬、この学校の図書室でカセットテープが見つかりました。

画像(カセットテープが入った缶)

録音されていたのは、戦時中の盲学校の関係者たちによる肉声です。終戦から25年が過ぎた昭和45年に、当時の盲学校の教師が卒業生たちから戦争体験を聞き取ったものでした。

校庭毎朝出て、戦争当時だからね。全校生徒を運動場に並べといてね。全校生徒といっても、120から130名だったんだけどね。大塚先生が「一つ」って言うと、生徒みんな「我らは常に感恩報謝の念をあつくし、もって君国に奉ずべし」と。
(カセットテープの音声より)

見つけたのは、図書室の司書を務める小澤純子さんです。

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図書室司書 小澤純子さん

「柿サブレーというお菓子の缶に、『卒業生思い出 録音資料』と書いて、赤の字で『永久保存』と大きく、丸囲みで目立つように書いています。私の中では(戦時中は)だいぶ昔のイメージがあったので、まさか戦時中の経験者の声を今の時代に聞けるとは夢にも思っていませんでした」(小澤さん)

明らかになる“聴音兵”という任務

見つかったテープの中では、『聴音兵』という言葉が繰り返し語られていました。聴音兵とは、敵機の来襲をいち早く味方に伝える兵士のことです。

視覚に障害のある人と戦争について研究している、京都府立盲学校に勤める岸博実さんが、点字新聞に掲載されていた聴音兵の記事を示します。

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岸博実さん

「実は、戦時中の点字毎日新聞の裏表紙の、ちょっと大きな文字で初めて知ったんです。調べてみると、(任務を)目ではなく耳で行っていたことが分かります。この文章には、『研ぎ澄まされた我らの耳、晴眼者に勝るとも劣らぬ聴覚、十万盲人はこの有力なる武器で本土を狙う敵を一機も皇国の空にいれてはならない』とあります」(岸さん)

戦時中、岐阜盲学校の生徒たちが繰り返し聴いていたものがあります。その名も、『敵機爆音集』。戦闘機の名前と高度が録音されたレコードです。このレコードを教材に、プロペラの音によって敵機の種類や高度を判断する訓練が行われていました。

画像(教材に使われたレコード)

岸さんは17年前、視覚に障害がありながら防空監視の任務にあたっていた人に話を聞いています。当時90歳の近江谷勤さんに話を聞いたときの音源を聞かせてくれました。

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近江谷勤さん

近江谷:私が(任務に)あたっておったときには、1回は15機くらい、編隊で来たことは、はっきり記憶しております。爆音の方向と大きさで、敵機の数とか方向とかいうのは、だいたい判断できましたんで。

岸:近江谷さんは小さいときから耳がよかったんですか?

近江谷:いや~、そういうことはありません。特別、聴覚が鋭かったわけではないと思いますけど。

役に立ちたいという願い

なぜ、視覚に障害のある人が空の監視に狩りだされたのでしょうか。調べてみると、昭和17年に、岐阜盲学校が陸軍大臣・東条英機に宛てて「盲人を聴音兵にしてほしい」という嘆願書を出していたことが分かりました。

普通の人より三秒前に機襲を感知した事実もあり、同校でも県病院耳鼻科で全校生徒の聴力試験を施行したところ、数名の優良者を発見している。
(嘆願書より)

嘆願書を出したのは、岐阜盲学校の校長を務めた小坂井桂次郎です。
小坂井校長も視覚に障害がありました。

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当時の校長、小坂井桂次郎

当時の生徒だった肥塚弘子さん(88)に、小坂井校長の音声テープを聴いてもらいました。

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肥塚弘子さん

「懐かしくて涙が出ます。小坂井先生はいつも一緒で優しかったですよ。物分かりのいい先生で、親しくお話できましたね。(嘆願書を出したことは)理解しますよ、感謝しますよ。盲人は邪魔にされて、社会で認められないものだから。小坂井先生が盲人でも役に立つことを強調してくださったんですから、すごく立派なことだと思いますよ」(肥塚さん)

小坂井校長の訴えは、その後、全国の盲学校に通う子どもたちに大きな影響を及ぼします。東京の八王子盲学校に通っていた渡辺勇喜三さん(87)は、9歳だった当時、新聞記事で聴音兵のことを知りました。

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渡辺勇喜三さん

「聴音兵だというんで、それならばできるかなと思いますよね。僕の先輩だと思いますが、点字紙の細い紙に『私たちも戦争に勝つために何かをしたいからやらせてください』というようなことが書いてあった。僕の兄たちもみんな工場労働者として働かされていましたよ。そういう中で、何か役に立ちたいって感じはありましたけどね」(渡辺さん)

役に立ちたいという思いをかきたてたのが、徴兵制度の存在です。検査に合格できなければ、戦争の役に立たない人間だとみなされると、渡辺さんは不安を募らせていたといいます。

「いちばんひどい言葉は穀物をただ食い漁るという『穀潰し』。非常に嫌な言葉ですよ。お風呂屋さんなんかに行くと『ああいうのはね、穀潰しなんだ』と、小さい声で言ってるんですよ。4年生、5年生でもそういう言葉の意味が分かりますから、『穀潰しとはなんだ!』と思いました」(渡辺さん)

美談として語られた戦争協力

その後、岐阜盲学校は、さらなる戦争協力への道を探っていきます。授業で学んでいたマッサージの技術を役立てることです。県内各地をめぐり、軍事工場などで働く人たちの身体をもみほぐして歩き、マッサージした人の数は1年間で4千人近くにも上りました。

やがて、国も視覚に障害のある人の動員に乗り出し、新たに「海軍技療手」という職種を設けて全国に募集を呼びかけました。

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集められた海軍技療手

海軍技療手とは、戦地や航空隊の基地などで兵士のマッサージを行う仕事で、盲学校の卒業生たちが次々と手を挙げました。

近藤昭二さん(95)は、実際に海軍技療手として働いた経験があります。昭和19年4月、近藤さんは盲学校で磨いた技術を国のために役立てたいと志願し、福岡の築城航空隊に配属されました。

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近藤昭二さん

「私らの仕事は、飛行機乗りの疲れをとるための治療。(航空隊が)往復6時間、飛行機に乗る。疲れるよ。(片道)3時間も行って、向こうでやり合ってまた戻ってくる。その疲れのために、マッサージが必要になった。私の先輩は南方まで行っとるよ。玉砕もしとる。私らと同じ(歳の)やつも行って、玉砕もしてんねん。朝晩60年間、戦友の供養もしてる。かわいそうやわ、戦争で亡くなって。ただ無駄死にしただけやで」(近藤さん)

当時の新聞には「盲人でさえ・・・」「目が悪くても・・・」という言葉が踊っています。戦争に協力した視覚に障害のある人たちの働きは、かっこうの美談として報じられたのです。何とか役に立ちたいという切実な願いは、結果的に戦意高揚に利用されていきました。

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戦時中、視覚障害者の戦争協力について書かれた記事

「障害のある人を一方でのけ者にしながら、その力をとことんまで吸いつくす、利用するという欲望というか、社会的な構造が当時、でき上がっていた。それは決して平等とか、対等と位置づけられるものではない。差別の上に成り立つ論理というか、施策だった気がしてならないわけです」(岸さん)

近藤さんは、終戦後すぐに治療院を開業しました。戦争中に若い特攻隊員たちをマッサージした近藤さんは、95歳になった今でも近所の人たちを治療して頼りにされています。

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治療をする近藤さん

盲学校が体験した戦争を語り継ぎたい

昭和19年、国は「子どもたちの安全を確保する」という名目の元、学童疎開を始めます。しかし当初、盲学校はその対象に選ばれませんでした。岐阜盲学校の生徒たちは、迫りつつあった空襲に自力で備えます。そのことは音声にも残されていました。

学校の狭い庭に防空壕掘りね。みんな生徒がやったんやね。実際あんな防空壕に入っとったら、みんな死んじゃったと思うんだけどね。
(藤井成幸さんの肉声)

この音声を残した藤井成幸さん(享年82歳)の妹・篠田美紗子さんと息子の藤井智幸さんは、カセットテープが入っている缶を見ると思わず声を上げました。

画像(藤井成幸さんと篠田美紗子さん)

「この“思”っていう字の書き様からして、多分、父が書いたんじゃないかな。昔、柿サブレーの缶は僕も見たことあります」(藤井さん)

「私も、しーちゃん兄さんの字のような気がするんだけど。しーちゃん兄さんの文字やね、こういう字、こういう大胆な書きっぷりは」(篠田さん)

昭和20年7月9日、およそ130機のB-29が岐阜市の上空に現れ、空襲で校舎は全焼。3人の生徒が命を落としました。

「父からすると、盲学校のいろんな人々の残したものを永久保存しておきたいということだと思いますね。ここに盲学校の歴史というか、足跡が残っている。だから永久保存(と書いたの)だと思います」(藤井さん)

今を生きる若者がテープを聴いて

終戦から77年、岐阜盲学校の今の生徒たちに、テープを聞いてもらいました。永野陽希さんと、飯沼建太さん、2人とも現在19歳です。

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左:永野陽希さん、右:飯沼建太さん

「今だと戦争は怖いとか、もう絶対やるべきじゃないと思うんですけど、いざ戦争になったとすると、自分が役に立てているかがすごい気になる。何もしないとなると、罪悪感でどうにかなってしまいそう」(飯沼建太さん)

「中学2年生のときに急に目が悪くなって、転校したのが半年後なんですが、その間、授業ではみんなと差が出るし、理解度にも明らかに差があった。でも、クラスを盛り上げようとか、イベントがあったら積極的にできる仕事を探そうという経験は確かにありました。見えている人ができて、僕らにできないことはたくさんあっても、できることは積極的にやろうという気持ちはよく分かります」(永野陽希さん)

「人の役に立ちたい」という気持ちは誰しも持ちがちな気持ちだと思います。その気持ちが、もし戦争につかわれてしまうのであれば・・・。今なお、「生産性」で人を図る言葉が溢れてしまう現代を生きるからこそ、過去の遠い話だった戦争の存在を近くに感じざるを得ませんでした。カセットテープに吹き込まれた声は、私たちが戦争の渦に巻き込まれてしまわないようにするための、メッセージだと思います。

※この記事はハートネットTV 2022年7月12日(火曜)放送「戦争が聴こえる」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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