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ウクライナ・戦禍を生きるろう者たち 取り残される“聞こえない人たち”と避難民への支援

記事公開日:2022年07月04日

2022年2月24日に始まった、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻。現地のろう者たちを取材すると、聞こえないことで情報から取り残され、苦境に立たされている実態が明らかになってきました。戦時下のイランで生まれ育ち、その後日本に移住した経歴を持つ俳優・タレントのサヘル・ローズさんとともに、私たちにできる支援のあり方を考えます。
※情報は、2022年5月末時点のものです。

爆撃が聞こえない ろう者の不安・恐怖

ウクライナにおよそ3万5,000人いると言われているろう者や聴覚に障害がある人たち。戦時下でどのような状況に置かれているのでしょうか。

首都キーウに住んでいたろう者、マルガリータ・ゲツコさんは当初、軍事侵攻が始まったことをすぐには信じられなかったといいます。

マルガリータさん:朝起きて、スマホで最初に知りました。聞こえない人たちは、そういう情報を見つけるとまずは知り合いに確認します。私も知り合いに確認し、本当の出来事だと知りました。これからどうしたらいいのか、誰かが私たちを避難させてくれるのか、情報がなくすごく不安でした。

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マルガリータさん

2月26日、首都陥落を目指すロシア軍は、キーウ市内を攻撃。しかしマルガリータさんには、爆撃の音が聞こえません。

マルガリータさん:家の中にいるときは、(爆撃を)窓や壁の振動で確認していました。屋外だと人の動きです。人が逃げ始めたり、鳥が飛び始めたりすると、爆発が起きたと気づきます。夜は光によって爆撃が起きるのを感じていました。耳が聞こえないぶん、『この瞬間がいちばん怖い』というのはなく、ずっと怖いままでした。

ロシアと国境を接する東部の街・ハルキウは、とくに激しい攻撃にさらされました。この街で暮らしていたオレナ・ビラさんの娘のポリーナさんは、聞こえる子ども「コーダ(CODA:Children of Deaf Adults)」です。攻撃が始まったことに最初に気づくのは、いつもポリーナさんでした。

「私には聞こえませんが、娘は『爆発の音が遠くで鳴ったり近くで鳴ったりしている』と言っていました。外に出たとき、地面が揺れているのを感じて、爆撃だとわかりました」(オレナさん)

母親には聞こえない「戦争の音」が、わが子の心を追いつめていきました。

オレナさん:友だちから『戦争が起きたから私たちはもう死ぬしかない』といった、怖い内容のメールが娘に届いたりしていました。爆撃の音がするたびにおびえる娘を落ち着かせるのはとても大変でした。爆撃の音が大きくなってからはイヤホンで音楽を聴かせたりして、聞こえないようにしていました。

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西部の街リビウに避難したオレナさんと娘ポリーナさん

ついにオレナさんは、ハルキウを離れる決意をします。現在は、パートナーが暮らす、西部の街リビウに避難しています。

オレナさん:ハルキウが安全になっても、多分もう戻らないと思います。パートナーが一緒にいるし、ハルキウではまだミサイルが落ちたりしています。娘には、もう二度と爆撃の音を聞かせたくない。だからもう戻らないと思います。

一方、家族とともに住み慣れた街にとどまる選択をした人もいます。ウクライナ中央部に住むオレグ・エーマコフさんは、戦禍を生きるろう者たちの現状を、SNSで発信してきました。

オレグさん:こんにちは。いま、サイレンにより地下シェルターに避難してきました。上空では戦闘機がたくさん飛んでいます。ミサイルも飛んでいます。恐ろしい。(2月下旬・シェルターにて)

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シェルターにいるオレグさん 2月下旬

オレグさんは、難聴の妻と、2人の子どもたちともに、恐怖と隣り合わせの日々を過ごしています。そして仲間たちと、高齢で避難できずにいるろう者たちに食糧を届ける活動を続けています。

オレグさん:イギリスに行くことも考えましたが、『このままこの街にとどまって、お互いに助け合って生きていくのがいいんじゃないか』と思い直しました。(この街に)逃げてくるろう者たちもたくさんいるので、その人たちを支えるためにも、みんなでここにとどまって、お互いに助け合いながら生きていく。それがいいだろうと思っています。

軍事侵攻が続くウクライナで苦しんでいる人たちの状況。サヘル・ローズさんは、強い衝撃を受けました。

「言葉を失いました。戦禍の中で生きる人々の中にろう者がいることを、どこかで無意識に忘れていました。
以前、サポートのために難民キャンプに行ったときに、シリアから逃れてきた一家とお会いしたことがあります。外でお茶をしながらお話していたのですが、家の中で一人だけ、出てこない方がいて、『姉はろう者なのであまり外には出したくないんです』と家族が話していました。避難先でも、ろう者である生きづらさが何重にも重なってしまう状況を目の当たりにして、すごく考えさせられました。
ろう者の方々は情報を幾重にも確認していかないと、自分たちが置かれている状況がわかりません。彼らを可能な限り早く避難させなければいけないのに、孤独を感じさせてしまっている状況にあるのは、社会全体で焦点を当てていかなければならない問題だと思います」(サヘルさん)

画像(サヘルさん)

「女の子の表情、(爆撃前の)写真と、避難した後の表情が全く異なっていました。子どもは子どもらしく生きられるのが一番いいじゃないですか。ですが、急に爆撃があって、爆撃の意味、戦争の意味すらまだ理解できていない。
そこで親を守らきゃいけないと、子どもが自分に課す苦しみは誰にも吐き出せないわけです。一番苦しい状況を誰にも言えずに抱えたまま大人になってしまう。こういう子どもたちに心のケアをしてあげないと、大人になっても、この傷ついた心は修復できないので。この精神状態を考えたときに、どういった思いで親を支えていくんだろうなって思いますね」(サヘルさん)

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オレナさんと娘ポリーナさん

ウクライナとロシア ろう者たちの思い

ウクライナとロシアは、もともと歴史的にも文化的にも深いつながりのある国同士です。ウクライナ手話とロシア手話には共通点も多いと言います。

そのため、両国のろう者同士のコミュニケーションが取りやすく、交流も盛んに行われてきました。しかし、今回の軍事侵攻により、その関係に大きな異変が起きています。

ウクライナろう協会・会長のイリーナ・チェプチーナさんに、ウクライナとロシアのろう者がこれまでどんな関係を築いてきたのか、話を伺いました。

イリーナさん:戦争の前は、ウクライナとロシアのトップの人たちは対立していても、ろう協会同士は仲が良かったのです。いちばん重要なのは『ろう者』としてのアイデンティティです。私たちは『ろう文化』も歴史も共通しています。根っこの部分が共通しているのです。

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イリーナさん

ろう者同士の国際結婚も多く、イリーナさんの夫・ユーリさんもロシア人のろう者です。しかし今は、両国のろう協会同士は距離を取っているとイリーナさんは話します。

旧ソビエトがナチス・ドイツに勝利した5月9日の戦勝記念日。この日、ウラジオストクに暮らすロシア人のろう者、アレクサンダー・ビリムさんに話を聞きました。

アレクサンダーさん:ロシア人にとっては、旗を揚げたり、花を飾ったり、テレビを見たりして、気分が高揚する日なのです。たとえば、かつて戦争で戦い、手を失って勲章をもらった年配の方たちなどに敬意を表します。かつてヒトラーを打ち負かしたことを誇りに思っているのです。

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アレクサンダーさん

今年、家族でパレードを見に行ったアレクサンダーさんですが、今回の軍事侵攻に対しては複雑な思いを抱いています。

アレクサンダーさん:たとえばSNSなどで、コミュニケーションが非常にうまくいかなくなっています。悪口を言い合ったりしている投稿がたくさんアップされています。ロシアの場合は、『ウクライナはネオナチだから良くない』という見方があり、お互いの考え方がずれていがみ合っています。フェイクニュースを流して、お互いの認識が食い違っていると感じています。ろう者であってもなくても、ロシア人であってもなくても、みんな、同じ人間です。フェイクニュースや、国のトップの人たちの圧力でいがみ合うのではなく、お互いに理解し合い、交流できるのが望みです。

「戦争が壊した建物や街は建て直すことができるかもしれないけど、人々の心や人間関係は元に戻すことができません。そう思うと、戦争がもたらす破壊にとても憤りを感じます。人はつながり合うことで生きられるわけで、一人ひとりが孤立してしまうと、人は心を失ってしまいます。アレクサンダーさんがおっしゃったように、私たちは何人ということではなくて、人は人、地球人、人間なんだということを改めて突きつけられました」(サヘルさん)

「見捨てることはできない」 避難民への支援

軍事侵攻がはじまっておよそ3か月。ヨーロッパをはじめ国外へ避難したウクライナのろう者も大勢います。しかし、長引く避難生活のなか、新しい環境に馴染めずに戦禍のウクライナへ戻る人も出てきています。
具体的な避難民支援の方法について、ドイツのろう者によるボランティア団体に話を聞くと、ろう学校の寄宿舎を改装して宿泊場所を提供したり、行政手続きに同行して通訳によるサポートをしたり、地域の聞こえる人たちとの交流の場を設けたりしているといいます。2015年にシリア内戦で避難してきたろう者を支援した経験を生かし、なるべく早く自立できるよう、「支援しすぎないこと」が大切だと話します。
こうしたなか、日本でも戦禍のろう者たちを支援しようという動きが始まっています。

支援に立ち上がったのは、群馬県みどり市にある、ろう者たちのグループ「ウクライナろう者避難民支援チーム」です。戦禍を逃れたウクライナの人々を、日本に受け入れようと奔走してきました。

チームを率いる吹野昌幸さんは、軍事侵攻が始まってから、ウクライナのろう者の友人2人と連絡を取り始めました。

画像(吹野昌幸さん)

2014年10月、海外のろう者たちと交流する中で、ウクライナから来日したウォロディミル・ボジコさんとオレクサンダー・シドルチュックさんと出会いました。

画像(ウォロディミルさんとオレクサンダーさん)

5月上旬、吹野さんたちは、ウォロディミルさんから送られてきたビデオメッセージを見ながら、支援の方法について話し合いました。

ウォロディミルさん:ここはイタリアの避難所です。ウクライナの避難民たちが過ごしています。イタリアの支援者に支えられて、8日間かけてここにたどり着きました。ウクライナにとどまるのか、それとも国外に脱出するのかすごく悩みました。国境の検問所でパスポートをチェックするとき、『ろう者でも戦うべきだ』と言われました。しかし『コミュニケーションを取るのが大変なんだ』と訴えると出国を許してくれました。先のことはまったく考えられません。家も仕事もろうの友だちも、ロシアの侵攻によって突然奪われてしまいました。これ以上お話することはありません。これは政府間の問題だからです。私はろう者たちを愛しています。

画像(避難所にいるウォロディミルさん)

吹野さんたちは、窮地に追い込まれた友人たちを救うため、行政とも連携し、2か月かけて受け入れの準備を進めてきました。

そして5月19日。ウォロディミルさんたちが日本に到着しました。

吹野さん:日本へようこそ。会えてうれしいです。長時間の旅、本当にお疲れ様でした。

ウォロディミルさん:ありがとう。会えてうれしいです。8年ぶりだね。

画像(来日したウォロディミルさん、オレクサンダーさん)

ウォロディミルさん:これまでは戦争の記憶でいっぱいでした。日本で、そういう記憶を忘れたいです。戦争が終わったら、またウクライナに戻りたいです。

吹野さん:見捨てることはできないと思い、8年ぶりに会うことができましたが、本当に長い時間でした。私は戦争を経験していません。しかし、ろう者の歴史を研究しているなかで、年配のろう者に話を聞く機会があり、戦争は本当に恐ろしかったという話を聞きました。それが実際、今起きていることに本当に衝撃を受けました。だから 絶対に日本に連れてこなければと思いました。

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吹野さん

日本に到着後、ウォロディミルさんたちには笑顔が少しずつ戻ってきていると話す吹野さん。ウクライナと日本の手話は異なるため、国際手話によるコミュニケーションをはかるなど支援が進んでいる一方で、軍事侵攻によってもたらされた心の傷へのケアも必要だと感じています。

吹野さん:実際に会って笑顔が見られてうれしかったのですが、深く話してみると まだまだ(心の)傷も残っていて、簡単なことではないと思いました。ただ日本に来た以上は、時間をかけてケアしていきたいと思っています。幸い、ウクライナのろう者のみなさんは日本が大好きで、日本の文化にも馴染んでいるところです。なにかあったときのためには日本手話を教えたい。落ち着いたら、日本のいろんなところに連れて行って、いろんなことを覚えてもらいたいですし、私たち支援チームの力を合わせて、全力でサポートしていきたいです。

吹野さんたちの手によって始まった、ウクライナから避難するろう者への支援。サヘルさんは、異国で生活を始めることになったウォロディミルさんたちに思いを寄せながら、戦禍のろう者たちへの幅広い支援の必要性を感じています。

画像(サヘルさん)

「私たちが怖いと思う、その何倍もの恐怖と不安と向き合っていかなければいけないというのがまずある上に、日本に慣れるまで、聞こえないことが大きな壁になってしまうかもしれません。ですが、手話を通して聞こえてくるウォロディミルさんたちの言葉に心の耳を傾けることが、今まで私たちの知らなかったことを知るきかっけになるのではないでしょうか。彼らがどういうことを伝えたいのか、これからも社会全体で見ていかなければいけない。この世界にともに生きる人として、不平等はあってはいけないと思います」(サヘルさん)

※この記事はハートネットTV 2022年5月31日放送「戦禍のウクライナ・ろう者たちのいま」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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