日本では1994年、東京で初めてプライドパレードが開催され、2019年には25周年を祝う東京レインボープライドが盛大に開催されました。一方、地方の街でもたくさんのプライドパレードが開催されてきました。東京よりもさらに困難があるなか、みなさんとても苦労しながら開催してこられました。長年、全国のプライドイベントを取材してきたゲイライターの後藤純一が、地方でのプライドイベントの始まりや広がり、様々なドラマをお伝えし、全国のLGBTQコミュニティへのエンパワーメントにつなげていきたいと思います。
LGBTQライター 後藤純一
ゲイのための総合情報サイト「g-lad Xcode(グラァド)」、LGBTQ+アライ向けオンラインマガジン「PRIDE JAPAN」を運営しています。共著書「職場のLGBT読本」など
2013年のレインボーマーチ札幌ファイナル
札幌では1990年代、鈴木賢さん(現・明治大学教授)をはじめ3人の北大院生ともう1人の年輩のゲイの方が北海道セクシュアル・マイノリティ協会(HSA)札幌ミーティングという当事者団体を立ち上げ、東京の2年後、1996年からプライドパレードが開催されるようになりました。東京よりもずっとカミングアウトが難しい地方の街での開催は、とても勇気が要ることだったと想像します。私は1997年に初めて(ドラァグクイーンとして)参加しましたが、6月の小雨の降る寒い日で、ゴールの中島公園でルチアーノさんというドラァグクイーンの巨大なスカートをかけ布団のようにして暖をとったのを憶えています(いい思い出です)
1999年、4tトラックに音響機材を積んでDJが海外で定番となっているクラブミュージックを流し、ドラァグクイーンやダンサーが乗って参加者を盛り上げるというグローバルスタンダードなDJフロートが初めて登場しました(注:フロートとは、数百人の隊列を先導する車のことです。この隊列全体をフロートと呼ぶことも多いです)。「パレードってなんだか参加しづらい」というイメージを持っていたゲイバーの方たちも、これを見て楽しさを実感し、認識を改め、自らフロートを出すようになったというエピソードが知られています。
レインボーカラーの風船を一斉に空に放つ「バルーンリリース」を初めて行なったのも札幌のパレードでした。2009年には「さっぽろテレビ塔」のイルミネーションがレインボーカラーに輝くという素敵な演出も始まりました(街のシンボルをレインボーにライトアップという取組みもまた、札幌が初めてだったのです)。パレード後のアフターパーティの盛り上がりも評判を呼び、毎年、東京をはじめ全国からたくさんの当事者の方たちが、旅行を兼ねて札幌を訪れるようになりました。札幌でクラブイベントを主催しているケンタさんという方がパレードの運営にも携わり、ドラァグクイーンの方たちにパレードの意味をレクチャーするなどしていたことも成功の秘訣だったと思います(なかなかないことです)
2003年、上田文雄市長が来場して「札幌はみなさんを歓迎します」「パレードするみなさんの勇気に感動しました」「マイノリティにこそ人権が大事です」「家族の方々、自分たちの子どもが性的少数者であることを決して恥じることはありません」「パレードに参加する勇気がないという方も、この札幌においでください。みんなで一緒に歩きましょう」とスピーチ、参加者のみなさんがスタンディングオベーションしました(泣いていた方も多数)。日本の自治体の首長として初の快挙、LGBTQ史に残る歴史的な瞬間でした。その後も上田市長は毎年会場に来てスピーチし(所用で来られない時もメッセージを送り)、市長職を退いた現在は「結婚の自由をすべての人に」訴訟の弁護団の一員を務めていらっしゃいます。本当に素晴らしいアライの方です。
2013年のレインボーマーチ札幌ファイナル
また、『ハートをつなごう』にも出演していましたが、2006年にゲイの息子を自死で亡くしたお母様・西沢和子さんが、パレードの日に「レインボーファミリー」という親の会のブースでおにぎりを握ってくれて、集会で「みんな私のかわいい息子です」と語って参加者のみなさんを号泣させました。西沢さんは今でも「レインボーファミリー」のイベントに参加し、おにぎりを握り続けています。「全国からマーチに来る仲間が集い、楽しめる場所にしたい」という息子さんの思いを継いでいるのです。(なお、札幌で用いられているレインボーフラッグは、6色のレインボー+白になっています。この白は「亡くなった仲間への追悼」と「苦しみと戦う仲間たちとの共存のしるし」という意味が込められているそうで、この旗をデザインしたのが、ほかならぬ西沢さんの息子・裕敬さんでした)
ほかにも、(1990年代当時としては本当に稀有なことでしたが)HIV陽性者の方がパレード後の集会でスピーチする場面もありました。
レインボーマーチ札幌は、ドラァグクイーンやGOGO BOYがたくさん活躍するクラブパーティ的な楽しさが味わえるパレードであるとともに、数々の感動をプレゼントしてくれた、心から素晴らしいと思えるプライドイベントでした。
東京でパレードが開催されなかった年も、レインボーマーチ札幌が「パレードの灯」を絶やさずにいてくれました。11回目からは若い方たちに世代交代して開催されるようになりましたが、2013年、日本最多となる第16回のレインボーマーチをファイナルとして、輝かしい歴史に幕を閉じました。(その後、2017年にさらに若い方たちがパレードを始め、現在はさっぽろレインボープライドとして開催されるようになっています。今年はシルバーウィークに2日間開催されます)
2010年のKOBEふれんどりーマーチ
東京では、2000年に砂川秀樹さんが東京レズビアン&ゲイパレードを立ち上げましたが、スタッフの方たちの消耗が激しく、2001年、2002年と毎年実行委員長以下スタッフの多くが交代し、2003年、2004年にはついにパレードが開催されなくなりました。それくらい、一からパレードを立ち上げ、開催するのは本当に苦労の多い難事業でした。その大変さを克服し、しかもはるかにメディア上での注目度を上げるような画期的なやりかたを、神戸のコミュニティの方たちが「発明」しました(文字通り、発明だったと思います)
2006年5月に初開催された神戸LGBTIQプライドマーチは、地元の神戸まつりの「おまつりパレード」という市のメインストリートで行なわれるパレードに、団体の一つとして参加するものでした。この方法だと、フロートを1つ用意すればよく、会場使用料やテントなどの費用も発生しませんので(フロートの費用は参加者の寄付でまかないます)、主催者の負担も大幅に減ります。しかも、このパレードの模様は、地元のテレビ局で中継され、何十万人もの市民のみなさんが注目しているため、プライドパレードの目的の一つである可視化という点でも、たいへん優れたやり方でした。
実は、初回の2006年は、「なんで"おかま"が歩くんだ」という苦情が神戸市に100件も寄せられたそうです。しかし、窓口である市国際交流課の方が苦情に対応してくれたんだそうです(それがなかったら、もしかしたら参加が難しくなってしまっていたかもしれません。市の方たちに感謝申し上げます)。初めはたった15人だった参加者も、翌年以降は100人単位まで増えました。地元だけでなく、全国から参加者が集うようになったのです。
2010年のKOBEふれんどりーマーチ
私は2010年5月16日に、「KOBEふれんどりーマーチ」と名称が変わった神戸のパレードに参加しました。出発の数時間前に「こうべまちづくり会館」多目的ホールに参加者のみなさんが集まってきて、真っ白い旗に思い思いのメッセージを書き、交流し、15時半頃、会場に向かって出発しました。ドラァグクイーンやコスプレをした男の子たちが商店街や中華街を歩いて行くと、通りすがりの人たちが怪訝そうな顔でじろじろ見たり、笑顔で手を振ったり。すでにパレードは始まっていたのです。16時過ぎ、会場付近に到着。「おまつりパレード」に参加するいろんなグループが待機していました。ドラァグクイーンの方などは写真をバシバシ撮られていました。今回のテーマカラーであるオレンジに彩られた2tトラックが合流し、17時頃、いよいよパレードがスタート。BGMはレディ・ガガの「BAD ROMANCE」。いやがおうでもテンションが上がります。市内最大の目抜き通り「フラワーロード」は8車線くらいある大通りで、沿道の観客の多さにも圧倒され、テレビの生中継用カメラにも撮られ、これまでのパレードとは違う、ショーアップしなきゃ!とドキドキするような大舞台でした。20分ほどゆっくりと行進し、フラワーロードを曲がると、ふつうの幅の道になり、沿道の人たちの顔がよく見えるようになりました。おじいちゃんおばあちゃんからお子さんまで…すべての人が笑顔で見ているわけではありませんが、誰かしら手を振ってくれる人がいて、ずっと追いかけて来て盛り上がっている人たちもいました。約40分のパレードを終え、みんなでフロートの前で記念写真を撮り、晴れ晴れした気持ちで解散しました。集合場所に戻った後も「楽しかったですね」と余韻を楽しんだり、「おつかれさまでした」と苦労をねぎらったりしました。
今は神戸ではパレードは開催されていないのですが、この「神戸方式」は、2007年・2008年のクィアレインボーパレード福岡(博多どんたくに参加)、2012年・2013年の沖縄市レインボーパレード(沖縄国際カーニバルに参加)、2017年~のみえレインボーパレードin津まつり(津まつりに参加)というように、全国に波及していきました。
2018年の青森レインボーパレード
青森レインボーパレードは、東京でレズビアンのアクティヴィストとして活動しつつ、「にじいろ扁平足」という青森の性的マイノリティ団体の活動にも携わっていた宇佐美翔子さんが、お母様が亡くなった関係で青森に帰ることになり、2014年4月、パートナーの岡田実穂(おかっち)さんといっしょに青森駅前で「Osora ni Niji wo Kake Mashita(通称そらにじ)」というコミュニティカフェをオープンしたところから始まります(私も実家の家族をそらにじに連れて行ったことがあります)。翔子さんたちはお店のオープンとともに、青森レインボーパレードと銘打って青森駅前を3人で歩きました。そして同年6月には、おそらく公には日本で初めて、青森市役所に婚姻届を提出し、地元の新聞に大きく掲載され、社会に一石を投じるとともに、歴史に名を残しました。
翔子さんは2017年の東京レインボープライドで「故郷を帰れる街にしたい」というプラカードを掲げ、大きな反響を呼びました。これは、私自身が青森出身なので、自分事としても言えるのですが、男尊女卑的な古い体質で、結婚圧力が強く、カミングアウトもできず、不本意ながら異性との結婚を余儀なくされたり、シェルターではないけども唯一ホッとできる、自分らしくいられる場所であるはずのゲイバーすら地元になかったりする…そんな故郷の街を出て、都会を目指す人はとても多いです。本当は生まれ故郷の街を愛している、でも、とてもじゃないけどLGBTQが生きていける街じゃないから、帰りたくても帰れない、なんとか故郷の街が「帰れる街」になってほしい…そういうメッセージでした。彼女たちは自分たちだけでなく、「故郷を帰れる街にしたい」と感じている仲間たちのために、どんな逆風があるかもわからない青森で活動を始め、当事者の拠り所としてカフェを開き、お店で講演会やイベントなども行ないながら、毎年パレードを継続し、参加者も24人、45人、100人と、倍々で増えていったのです。
大勢の方が集まってくれたのを見て、胸を詰まらせるおかっちさん。左の女性が翔子さんです
私は2018年に初めて、第5回の青森レインボーパレードに参加しました。6月24日13時半、青森市の駅前広場でパレードの集会が始まり、マイクを握ったおかっちさんは「こんなにたくさんの人たちが…」と第一声から胸を詰まらせ、お礼を述べていました。東京や北陸、東海、関西から駆けつけた方たちなど、合わせて171名もの方たちが集まってくれたのです。LGBTQの団体の方、海外の団体の方、地元のゲイバーの方などもご挨拶していました。
歩きはじめる頃にはすっかり晴れて、絶好のパレード日和になっていました。14時、スピーカーを積んだ特設の「フロート」に先導されて、ゴキゲンな音楽とともにパレードがスタートしました。「りんご追分」リミックス版にメッセージを乗せたかなり本格的なオープニング音源からスタートし、クイーン、レディー・ガガ、マドンナ、GOSSIP(オープンリー・レズビアンのベス・ディットーがボーカルです)など、クィア・アーティストやみんなが大好きなアーティストの音楽で盛り上がりました。
ニコニコして優しい雰囲気のおまわりさんの交通指導のもと、プラカードやのぼりなどを持ったパレードの一行は、堂々と市内随一の目抜き通りを歩き、晴れやかに、ピースフルに、カラフルに行進しました。
翔子さんたちは、メッセージを読み上げながら歩きます。
「この青森の街にも、セクシュアルマイノリティの人たちがいます」
「この街で生きることを苦しいと思っている人もいます。だけど、この街でパレードを歩く仲間たちがいます。きっとだれかに、ひとりじゃないって伝わるよね」
「このパレードを歩いてくれているみんなが、日々、闘っているということを知っています。その闘っている姿を、今日、空の下、笑顔に変えて共に歩きます」
翔子さんはそのなかで、がんの治療をしていることを打ち明けました。「病院で同性のパートナーがいるということをなかなか理解してもらえませんでした。同性のパートナーにも手術や治療の方針を聞く権利を。同性のパートナーにも緊急連絡先として連絡がいくような仕組みを」というメッセージを聞いて、目頭を熱くする参加者の方もいました。
ときどき、県庁の建物や、マンションの一室や、お店の中から手を振ってくれる方たちもいました。駅前のお寿司屋さんなんて、お店を放って外に出て応援してくれました(見たことがあるチラシを手に持っていたので、話を聞くと、なんと、二丁目のイベントに出演しているダンサーさんのご家族でした)。沿道の人たちのフレンドリーさには、ちょっと驚きました。
新町通りという青森市随一の目抜き通りを歩いたということも、感慨深かったです。
歩き終えて、公園に戻ってきて、みんなで記念写真を撮って、解散となりました。
青森がこんなにもオープンな街になっていたなんて…。生きている間に果たしてそんな日が来るだろうか?と思っていただけに、その感慨は、筆舌に尽くしがたいものがありました。
「早くこんな町から出たい、都会に出て幸せになりたい!」と心で叫んでいた昔の自分に、こう伝えたいです。「大丈夫。いつか青森が「帰れる街」になるよ」
※青森県は北日本で初めて県として「パートナーシップ宣誓制度」を導入しましたが、その成立を見ることなく、2021年9月30日に宇佐美翔子さんが亡くなりました。地方のLGBTQコミュニティに多大な勇気を与えてきたレジェンドに心から敬意を表します。
2019年のピンクドット沖縄。出演者のみなさんが「酒合わせの儀」を行なっています
2013年、那覇市でピンクドット沖縄というプライドイベントが開催されるようになりました。元東京プライド代表で当時「レインボーアライアンス沖縄」「GRADi」を主宰していた活動家の砂川秀樹さんが、パレードができないシンガポールで行なわれていたピンクドットという野外フェスにヒントを得て立ち上げたものです。沖縄は世間が狭く、当事者の方がカミングアウトするのはとても難しいため、カミングアウトと重なる面のあるパレードを行なうのは現実的ではない、それでもプライドイベントを開催することには意義があるということで、パレードの代わりにピンクドットを始めました。ピンクドットは、性的マイノリティの生きづらさの解消や権利擁護に賛同する人に、ピンクのものを身につけて集まることを呼びかけるもので、当事者か否かに関わらず参加しやすいと考えたのです。那覇市ぶんかテンブス館前広場という市の中心地が会場で、那覇市が共催しているところも特筆に値します(それまで自治体が後援することはあっても、共催した例はなく、ピンクドット沖縄が初めてだと思います)
2016年の第4回ピンクドット沖縄では、「那覇市パートナーシップ登録制度」の第1号のゲイカップルが城間幹子市長の立会いのもと、結婚式を挙げ、感動を与えました(友人代表でMAXのLINAさんも登場し、やはりお二人の友人である中島美嘉さんがサプライズで歌ってくれるという、伝説的なイベントになりました)
その後、砂川秀樹さんがお仕事の都合で地元を離れることになり、開催するのが難しいという話になった時に、それはもったいない、この素晴らしいイベントをぜひ続けたいと、ピンクドット沖縄開催のたびに巨大なレインボーフラッグを掲げてくれたホテルの代表取締役総支配人である高倉直久さん、同性結婚式なども手がけるLGBTQフレンドリーなホテルの総支配人である荒井達也さんというアライの方々が立ち上がり、開催を継続することになりました。
私はその、アライの方が中心になって開催した2017年9月23日の第5回ピンクドット沖縄に初めて参加しました。過去最多の3000名超が来場し、MAXのみなさんがライブを披露し、山咲トオルさんや地元のタレントさんが登場し、ブルボンヌさんをはじめドラァグクィーンも大活躍し、老若男女どなたでも楽しめるような素晴らしいイベントでした。
翌年も同様に、9月にテンブス館前広場で開催され、ガレッジセールのゴリさんやMONGOL800のキヨサクさんらがビデオメッセージを寄せてくれたり、東ちづるさん、中沢初絵さん(山咲トオルさんのお姉さん)が出演してくれたりして、盛り上がりを見せました。企業協賛が100社を超えたのもすごいことです(東京に次ぐ多さです)
2019年には関連企画として日本初のLGBTチャーター便が羽田から那覇まで運航され、大きな話題を呼びました。台湾での同性婚実現に貢献した活動家の呂欣潔(ジェニファー・ルー)さんらが登壇した同性婚シンポジウムが行なわれたり、沖縄が世界に誇るスター・高良結香さんがライブを披露するなどして、たいへん充実したイベントとなりました。
2020年には、コロナ禍の影響でオンライン開催となったのですが、砂川秀樹さんや日本で初めてプライドパレードを開催した南定四郎さんが登壇して「政策決定の場におけるLGBTQ」というパネルディスカッションが行なわれたり(沖縄県が検討を進めていた「性の多様性宣言」について、まずは議会の承認がいらない宣言を出しましょうと要望したことが明かされました)、「結婚の自由をすべての人に」を応援する姿勢も明確にして、とても力強くLGBTQ支援を打ち出す、意義深いイベントになりました。
2021年は12月に琉球新報ホールでコロナ対策をしながら開催され、沖縄出身のゲイの方のカミングアウトについてのドキュメンタリー映画を上映したり、沖縄ゆかりのミュージシャンの方のライブを鑑賞するというかたちのイベントとなりました。
2019年のピンクドット沖縄。フィナーレはピンクのバルーンリリースでした
ピンクドット沖縄は、街中をパレードする代わりに集会というかたちをとったことで、同性結婚式を催したり、LGBTQの生きやすさや権利擁護について話し合うシンポジウムが開かれたりして、意義深いプライドイベントとなってきました。
那覇市も共にこれを開催し、企業もたくさん協賛し、地元メディアにもたくさん取り上げられ、確実に世間に認知され、沖縄の社会に好い影響を与えてきたと思います。2017年以降、アライの方たちが中心となって開催するようになってからも、LGBTQ支援、権利擁護というプライドイベントのコアにある趣旨は全くブレることがなく、高倉さんなどは当事者にも負けないくらいの熱心な活動家となっていて、本当に素晴らしいです。
そんなピンクドット沖縄が今年、第10回という記念すべき回を迎えるにあたり、11月20日に初めてパレードを行なう予定です。(上記のように沖縄市では地元のお祭りに参加するかたちでパレードが行なわれたことはありますが)那覇市での初のプライドパレードの成功を、心から願っています。