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“台風かあちゃん”の遠距離介護 柴田理恵さん

記事公開日:2022年06月13日

個性派俳優としてバラエティやドラマでも大活躍している柴田理恵さん。忙しい合間を縫いながら、地元富山県で一人暮らしを続ける母・須美子さんの遠距離介護をしています。“台風かあちゃん”の生き様に寄り添うことで、柴田さんが見つけたこだわりとは? 遠距離介護を続けるためのコツとは? ハチャメチャだけど、どこかおかしい、母と娘の物語。聞き手は、脳動脈りゅうの手術をした経験のあるDJでサウンドクリエーターのDJ KOOさんです。

“台風かあちゃん”の厳しさと優しさ

劇団「ワハハ本舗」の看板俳優として数多くの舞台に立つ傍ら、バラエティやドラマでも活躍する俳優の柴田理恵さん。

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柴田理恵さん

柴田さんが2021年に出版した絵本『おかあさんありがとう』では、柴田さんの母・須美子さん(92歳)の破天荒な子育てエピソードがユニークに描かれています。

きらいなものは むりやり くちをあけて
たべさせました。こぼすのもだめ。
『こぼすと りえの あしもとで
にわとりを飼うぞ』と いわれました。
(『おかあさんありがとう』作・柴田理恵 絵・塚本やすし/ニコモ)

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中野アナウンサーと柴田さんが2021年に出版した絵本『おかあさんありがとう』

須美子さんの剛腕っぷりは、柴田さんの別の著書では「台風みたい」と記されています。

弱気なところは、少なくとも私はまったく見たことがありません。
いつも強くて、逞しくて、元気いっぱいの、「台風」みたいなお母さん(略)
(『台風かあちゃん』柴田理恵)

柴田:顔そっくりなんですよ。昔ね、大学生になって東京へ出てくるときには、寂しい時とか自分がダメな時とかあるでしょう。そういう時には鏡を見て、声もそっくりなんで、「理恵しっかりしられ!あんたはこんなことで負けるような子どもではない!」って自分で自分を励ましたんです。

KOO:お母様がそのまま憑依した感じですね。

柴田:そうするとお母さんにそう言われているような気がして「よし!頑張ろう」って。(笑)

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柴田理恵さんと母・須美子さん

柴田:2016年に父が亡くなって、2017年からは一人で暮らしています。骨折したり、転んだり、病気になったりと入退院を繰り返しながらですが、母は「必ず一人で暮らしたい」という思いを抱いて頑張っています。

90歳を超えてもなお、一人暮らしを希望する須美子さん。その芯の強さは、柴田さんの絵本にもこう描かれています。

そのころの せんせいたちは
せんそうにまけた日本を はやく
たちなおらせなくてはと ねっしんできびしかった。
わたしの おかあさんも そんなせんせいでした。
(『おかあさんありがとう』作・柴田理恵 絵・塚本やすし/ニコモ )

富山県八尾町で生まれ育ち、戦後すぐに17歳から小学校教員として働きはじめた須美子さん。優しい一面を見せるときもありました。

遠足のとき、家庭の事情でお弁当を持って来られない生徒のために、お弁当を作り、こっそりと渡していたのです。のちに、その生徒から「お前の母ちゃん、いい先生だったんだぞ」と、そのことを聞かされた柴田さんは、彼と二人で泣いてしまったと言います。

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母・須美子さんの教師時代

厳しさも優しさも、台風のように豪快な母を見て、柴田さんは育ちました。

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柴田理恵さんとDJ KOOさん

KOO:お母様、素敵ですね。潔いというか、躊躇しないストレートな愛情をそのままぶつけていくんですね。

柴田:当時はまだ戦後間もないですから、学校の先生も男社会だったんですよね。男の先生だけで飲み会に行って、そこでいろいろなことが決まることを母が気付いたらしいんですよ。それで、とにかく飲み会には全部付き合う、麻雀にも付き合う。そこで学校の話をして「先生、そういうんだったらこっちにしてください」みたいに、頑張って“戦ってきた人”だなと私は思いますね。そのぶん私は寂しかったのですが、今となっては良い思い出です。

“遠距離介護”を選択した理由

須美子さんは54歳のとき、38年間勤めた教員を退職します。その直後から、地元の小学校で子どもたちに茶道を教えるなど、常に生きがいや目標を持ち、日々を送っていました。

しかし2017年秋、須美子さんは突然発熱。急遽、病院を受診します。意識は朦朧となり、診察後、そのまま入院することに。検査の結果、腎臓が細菌に感染し炎症を起こす「腎盂炎(じんうえん)」にかかっていました。柴田さんが病院にかけつけると、医師からは終末医療の確認がされました。最悪の事態も覚悟した、といいます。

柴田:今まであんなにしっかりしていた母が、見たこともないくらいにボーッとした顔をしていました。人間って急にこんなことになるんだ、というぐらいに。足腰がしっかりした人だったから、本当に驚きました。お医者さんに呼ばれて、「延命なさいますか」と言われたんですね。そうか、そんな状態なのかと、ちょっと覚悟しました。

以前から、両親には「私たちが年老いても絶対に延命はしてくれるな」と言われていましたので、それを尊重しなきゃいけないなと思い、「胃ろうなどの延命はやめてください」とお願いしました。また、心臓マッサージについてもどうするか聞かれましたが、心臓マッサージは肋骨が折れると知り「やめてください」とお願いしました。母は骨粗鬆症で、ずっと「痛い、痛い」と言っていたので、肋骨が折れるのはかわいそうだと思ったんです。

画像(柴田理恵さん)

1週間後、須美子さんはなんとか回復。しかし、「要介護4」となり、退院するにもリハビリが必要な状態になります。柴田さんは、須美子さんを東京に引き取り、同居することを考えましたが、須美子さんから返ってきたのは意外な言葉でした。

柴田:「あんたなんかよりも友だちが大事」「それに私はやることがいっぱいある」って言うんですよ。「私は生まれ育ったところがいちばん大事だから、一人で暮らしたい!」って。仕事を辞めて介護をなさる方もいらっしゃるじゃないですか。私もそうしないといけないと思っていたんですけど、うちの母は喜ばないんです。私が仕事を辞めてまで自分のために尽くすのは嫌なんです。「仕事は人間のいちばん大事なものだ」と。母は「家に来てくれ」とは一切言いませんでした。私も仕事は続けたいですし、仕方なしというか。

「地元・富山で暮らし続けたい」という母の願いを叶えるため、柴田さんは片道3時間あまりの“遠距離介護”を行う決断をしました。

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DJ KOOさん

KOO:“病人”らしくなってしまうのは嫌なんでしょうね。

柴田:母は「自分の力で生きていきたい」という気持ちが強い人で、人と関わったり、人とおしゃべりしたりするのは大好きな人なのですが、自分の自由な時間も大事にしたいみたいです。

KOO:でも、もし僕が須美子さんと同じ立場になったら、不安でいっぱいだと思います。

柴田:母は「娘と親は別物なんだ」という考え方でした。あんたにはあんたの生き方があるし、私には私の生き方がある。親だから子どもだからといって依存し合うというか、頼り合うのは好きじゃない人なんだと思うんです。それぞれの環境や歴史があって、まったく別のものなんだから、と。お互いは大好きで、仲の良い親子だけど、そこは違うんだよということは、すごくはっきりしている人だと思います。

遠距離介護のための試行錯誤

須美子さんの強い意志によって始まった、柴田さんの“遠距離介護”。周囲のサポート体制はどのように整えていったのでしょうか。

柴田:私が生まれ育った八尾町にはたくさん親戚もおりますし、その中で私のいとこの子どもにあたる人が母の面倒を見てくれています。それからケアマネージャーさん、ヘルパーさん、そういう方たちと連携を取るのがいちばん大事でした。デイサービスに週2回通い、ヘルパーさんに来てもらうのは週2~3回にして、1週間のうち母が一人きりで過ごすのは1日だけとか、その程度にしてもらいました。

KOO:なるほど。

柴田:そうすると、たとえば母のお友だちも、ヘルパーさんが来ない日、デイサービスに行かない日を狙って遊びに来てくれるんです。そうやっていつも誰かが母と関わり合うような感じで、うまいこと態勢を取っていきましたね。

画像(柴田理恵さん)

一方で、須美子さんと柴田さんの考え方の違いから、うまくいかなかったこともありました。

柴田:「この場所はごちゃごちゃしているから」と日用品を整理していたら、母の機嫌がだんだん悪くなって、「それはやめて!」となって・・・。私が思うのとは違う、親の暮らしやすさがあるんだと気付きました。だから、「ここが危ないな」というところだけ万全にしてあげることにしました。温めるのは電子レンジだけ、お湯を沸かすのは電気ポットにしてね、というふうに。

KOO:僕も、歩いて2、30分のところに奥さんの親が一人で住んでいるんです。もう88歳なので、転んだりしたら怖いじゃないですか。だから、毎日、誰かが行って、なるべく物を片付けたりとか、火傷しそうなものはないかと気遣って動かしたりするんですけど、「私、ここに置きたいの」みたいなのはありますね。

柴田:バリアフリーとか、手すりとかベッドとか、そういう方が大事ですね。

KOO:なるほど。

柴田:家の中を少し改造したり、(福祉機器を)レンタルしたり、ベッドを整えたりとか、ケアマネさんたちがきちんとサポートしてくれました。それはありがたかったです。

柴田:ショートステイしているときに、母が着替えをしたがらなかったんです。どうしてだろうと本人に聞いたら、洗濯物はいとこが取りに来て、いとこの奥さんが洗濯してくださるんですが、その奥さんは子育て中で、洗濯物がいっぱいになると思って、遠慮していたようなんですよ。
私たちは、そういうことに気がつかないんですよね。『なんで着替えないの? 清潔がいちばん大事なんだから、他の人に迷惑かかるから』と言ってもだめなんです。だから『私の洗濯の仕方が嫌だから着替えないんだろうか。私、どうやって洗濯したらいいですか?』って、奥さんが心配しているよと伝えたら、母は『そうじゃない!迷惑だと思ったからだ』と。『そんなことないよ。お洗濯もちゃんと出したほうが喜んでくれるよ』と言ったら、ちゃんと出すようになったんです。

画像(柴田理恵さんとDJ KOOさん)

考え方の違いから介護がうまくいかなくなったとき、相手の気持ちをまず理解することが大事だと柴田さんは話します。

柴田:私たちには、『お年寄りはだんだん常識がわからなくなるんじゃないか』みたいな誤解があるんです。でも、お年寄りの言動にはちゃんと“理由”があるんですよ。その理由はとても正しいところもありますから、そこをほぐすためには、介護する側があの手この手で心を開いてあげるといいですね。

また柴田さんは、状況に合わせた臨機応変な介護をするためには、ケアマネージャーとの間のこまやかな連絡も大切だと話します。

柴田:最近、デイサービスを週3回にしたんです。すると、母が電話で「一回増えたら、疲れるのよ」と言うので、「ああそうか。だんだん年を取ってくると、疲れるんだな」と気付きました。そこで、訪問看護師さんに来ていただくと、背中だけマッサージしてくださったり、足だけを温めてくださったりするというのを聞いたので、ケアマネージャーさんにたずねると、「週3回のデイサービスが疲れるならそうしましょう」と手配をしてくださるんです。
あと、富山は雪が降るので、大雪が降る前に「雪の間だけはショートステイの施設に入れてもらってもいいですか」とお願いすると「わかりました」と対応してくださいます。とてもありがたいですね。

画像(柴田理恵さん)

そして、介護をする側もされる側も、前向きな気持ちでいられるために“ご褒美”を用意するのも効果的だといいます。

柴田:私たちだって目の前のご褒美があるから頑張れるんですよ。うちの母はお酒を飲むのが好きなので、「じゃあ酒を飲むためにリハビリ頑張ろう」って言ったら、もう一生懸命に朝晩ちゃんと頑張るし、本当にご褒美は大事ですね!

KOO:僕も同じような経験があります。やっぱり「もう一度DJがしたい」という。でも葛藤というのもあって「今の自分でできるんだろうか」っていう。自分ではなかなか(目標を)ぶら下げられないけれど、家族が「一緒にまたディズニーランド行こうね」と言ってくれたり、娘が「来月の誕生日はどこどこで何かしたいね」って言うと、それに向けて頑張ろうと思いますからね。

柴田:大事ですよね。あと、うちの親は子どもたちにお茶を教えるとか、謡もやっていたんですよ。自分も習いにも行ってたし、教えもしていたし。ちゃんと教えなきゃいけないという思いと、自分も忘れるから自分でも練習したいんですよ。やっぱり、モチベーションというか目標の一つにどんどんなっていきましたよね。

KOO:それはありますね。義理の母は、娘の入学式や卒業式があって、ちょっといいホテルで食事をするときにお誘いするんですよ。そうすると、思いっきりおしゃれをして来てくれるんです。そういう場を作るようにしています。

柴田:そういうのは大事ですね!老人施設みたいなところに入ると、みんな同じ髪型になるじゃないですか。でも、たとえば女性はパーマをかけたりしておしゃれするのってすごく大事だと思うんですよね。お洒落をちゃんとするってやっぱりすごいいいことだし、女性の人はちゃんと化粧するとかね。見違えるように気持ちが楽になりますよ。

KOO:一緒に写真を撮ったりすると、『その写真、(私に)送ってね』みたいにね。

柴田:そうそう!

コロナ禍の介護を支えた地域の絆

ケアマネージャーと連絡を取り合いながら続けていた遠距離介護。柴田さんは仕事の合間を縫っては、須美子さんの様子を見に行きました。しかしコロナ禍になると、帰省できるのはお正月だけになってしまいます。心配したのは、大雪に見舞われる冬。雪かきや雪おろしは、須美子さんには難しい作業です。

そうしたとき遠距離介護を支えてくれたのは、須美子さんの教え子たちでした。

おかあさんが おしえた 子たちは
いまも おかあさんの ことを気にして
うちに よってくれています。
ふゆには 雪おろしも やってくれます。
みんなに すかれて いるんだなぁ と
うれしくおもいます。
(『おかあさんありがとう』作・柴田理恵 絵・塚本やすし/ニコモ )

画像(富山県内、豪雪のようす)

彼らは「(当時の)先生は怖かった」と言いながらも、いまだに須美子さんを訪ねては、相談をしたり、お説教を受けたりしているといいます。

柴田:雪が降ったら、私の同級生たちが「お前のかあちゃんのところに寄って、道をあけてきたぞ」とか、周りの人たちが順ぐりにやってくださったんですよ。私の友だちもお菓子を持って、母に愚痴を聞いてもらったり、「先生、これからどうすればいいと思う?」って相談したりと、ずっと交流してくれていたので、本当にありがたかったですね。

母に学ぶ人生のしまい方

2022年春。柴田さんの遠距離介護は今も続いています。

柴田:今でもしっかりお酒を飲むんですよ。「もしそれ(お酒)飲んでその日、たった一人で夜中に倒れて、死んでも化けて出てこんとってね」と言ったら、「わかったわかった」って言ってますよ(笑)。でも、それで母は本望だと思う。しょうがないじゃない、大好きなんだもん。

KOO:体のために好きなものを我慢するっていうのもね。

柴田:もうそんなことしなくていいですよ。そう思う。

おしょうがつは とやまに かえって
おかあさんと ごちそうをたべて はなしをします。
『おかあさんは きびしかったけど すべて
わたしの身になっているよ。おかあさん ありがとう。』
(『おかあさんありがとう』作・柴田理恵 絵・塚本やすし/ニコモ )

柴田さんにとって、幼い頃は台風のような存在だった母・須美子さん。改めて、どんな存在だと感じているのでしょうか。

画像(柴田理恵さん)

柴田:親というのは本当にありがたいなと。子どもは親の背中を見て、ちゃんと育ちますから、親が良い背中を見せてくれたと私は思っています。生き方を教えてくれて、今は“良い亡くなり方”を教えてくれているんだと思います。人は、親が教えてくれる“どうやって亡くなっていくか”に、きちんと向き合っていかないと、と思いますね。

画像(DJ KOOさん)

KOO:家族の形は人それぞれだと思いますけど、柴田さんとお母様のお話を聞いて、元気をいただきました。家族で、未来をしっかりと見つめ合って過ごしていくのは幸せなことなんだな、と思いました。僕は病気の状態ではありますが、家族の絆のなかに幸せを見つけたような気がします。

2022年4月、柴田さん親子の地元・八尾に、地域の中学校が統合されて新しい中学校が開校しました。校歌の作詞を担当したのは柴田さん。作曲は柴田さんが南こうせつさんに依頼し、南さんの妻の育代さんが作詞を手伝ってくれました。教師だった須美子さんはそのことをとても喜び、開校式で校歌が披露されるのをずっと楽しみにしてきました。

画像(柴田さんが担当した八尾中学校校歌の歌詞)

開校式の当日、須美子さんはあいにく入院中。柴田さんは、開校式の様子を録画した映像を携え、須美子さんを見舞いました。モニター越しに映像を見た須美子さん。校歌を歌う子ども達の歌声は、大きな励みになったようです。

須美子「よかったねー」
柴田「今度はいっしょに八尾中学校行って、見て回らんまいけ!それを目標に頑張りましょう!」
須美子「はい、わかりました。一生懸命に頑張ります」

画像(オンラインで会話をする柴田理恵さんと母・須美子さん)

※この記事はハートネットTV 2022年4月19日放送「私のリハビリ・介護~台風かあちゃんの遠距離介護~ 俳優 柴田理恵さん」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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