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全盲の中学教師 最後の授業で伝えたこと

記事公開日:2022年06月10日

今年3月、埼玉県皆野町の町立皆野中学校で国語教師を務める新井淑則(よしのり)さんが定年を迎えました。新井さんは30代のとき、網膜剥離によって両目を失明。一時は死にたいほどの思いも抱えましたが、教育への情熱と自身の可能性を諦めず、教壇に復帰します。生徒のそばに立って声を聞き、授業の準備に尽力し続ける姿勢は生徒からの信頼を集め、“よしのり先生”と親しく呼ばれています。よしのり先生と、卒業する3年生たちの最後の数か月を見つめます。

目が見えなくても授業はできる

34歳のときに両目の視力を失った皆野中学校の国語教師・新井淑則さん。見えない自分に何ができるのかを考え、自らの体験をさらけ出し、生徒たちと一緒に授業を作ってきました。生徒からは親しみを込めて、「よしのり先生」と呼ばれています。

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国語教師 新井淑則さん

授業は先生が二人一組で行います。授業の冒頭、その日の課題を板書するのは、よしのり先生です。そこには、ゆずれないこだわりがありました。

画像(板書するよしのり先生)

「最初だけは自分で書こうと思ってやってきました。それは全盲(になってから)でもずっとそうですよね。『これをやるんだ』という心構えです」(よしのり先生)

ペアを組む瀧口先生が朗読している間、よしのり先生は一人ひとりの机を周り、生徒の様子を感じ取ります。生徒のそばで授業を進めるのは、全盲になってから始めた独特のスタイルです。

「生徒の見た目とか、仕草とか、態度を気にせず、内面に寄り添っていこうと。心に寄り添っていこうというスタンスですね」(よしのり先生)

画像(生徒に寄り添うよしのり先生)

1か月ぶりに登校してきた生徒に対しても、よしのり先生はあたたかく寄り添います。

よしのり先生:間違えて学校に来ちゃった? あはははは。 暇だったから?

生徒:いや、出してないアレがあったんで、それを出しに来ました。

よしのり先生:偉いじゃん。給食、食べた?

生徒:家で食べてきました。

よしのり先生:カレーだって知らなかったのか?

生徒:そうですね。

よしのり先生:学校いいもんだろ?

生徒:そうすね。

「びっくりしましたね。1か月学校に来てないのでね。私は私なりにああいう形でしか接することができないけど、私なりのスタンスで個々に応じた問いかけですね。たまに来たのに、厳しいことを言っても始まらんですからね」(よしのり先生)

充実した日々を襲った網膜剥離

よしのり先生は23歳で中学校の教師になりました。

画像(教師になった当時のよしのり先生)

「非常にミーハーですが、あの当時、金八先生(のドラマ)がスタートした頃です。金八先生も国語なんですよね。やる気満々でした。別に熱血漢ってわけではないんだけども、希望に燃えてました」(よしのり先生)

そして26歳のとき、同じ中学校の音楽教師だった真弓さんと結婚。2年後に長女が生まれ、公私ともに充実した日々を送っていたある日、体に異変が生じます。

画像(よしのり先生)

「小さい虫がいっぱい目の前を飛んでいて、一生懸命自分で払っていたんだけど、『先生、小さい虫なんか飛んでませんよ』と。それで次の日の朝、右目に暗幕が下りてきて、最初の網膜剥離ですね」(よしのり先生)

すぐに手術を受けましたが、視力は回復しませんでした。3週間後、職場に復帰しますが再発を繰り返し、2年後には右目の視力が完全に失われます。

「当時の校長に学級担任を降ろされて、それが自分の中ではショックでしたよね。『あなたの健康を思って外したことですから』って言われちゃうとね」(よしのり先生)

さらに翌年、31歳のときに養護学校への異動を命じられ、小学3年生の担任になります。いつか必ず中学校に戻ると心に誓いながら仕事に懸命に打ち込み、残された左目を酷使。すると、その左目をまた網膜剥離が襲います。6回に及ぶ手術の甲斐なく失明したのは、34歳のときでした。

「もう死にたいと。生きていてもしょうがない。仕事どうこうの話じゃなくて、見えなければ生きる意味がないと思った。半年間、暗闇の中で家にひきこもっていたわけです」(よしのり先生)

生きる目的をなくしてしまったよしのり先生ですが、妻の真弓さんにうながされて始めたリハビリが大きな転機となります。

点字や歩行訓練を行うなかで、「たとえ全盲であっても中学校の教壇に戻れます」と言葉をかけられました。声をかけたのは普通科高校で教べんをとる現役教師の宮城道雄さんで、自身は重度の弱視です。宮城さんは自分の授業を見に来ないかと、よしのり先生を誘いました。

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宮城道雄さん(左)とよしのり先生(当時)

「かなり工夫をしていたし、努力をされていると感じました。同僚だけではなくて、ボランティアの力も借りていました。1人でできることは限られているから、どうやって他者と同僚と生徒と協力して(授業を)やっていくかということを気付かされました」(よしのり先生)

ありのままを見せて接していく

よしのり先生は周囲のサポートを受け、失明から13年後の2008年、念願だった中学校の教師に戻ることができました。

着任するとすぐに1学年83人の声をICレコーダーに録音して、声で名前を覚えました。生徒たちはよしのり先生が迷わないように、教室の入り口などに点字のシールを貼っていきました。 給食の配膳の際も、食器の位置を時計の針の向きに例えて知らせるクロックポジションを使って、よしのり先生に示します。

「10時の方向にパンがあって、11時の方向に牛乳」
「分かりましたー」

画像(点字のシールを貼る生徒)

「私が中学校に来て、ノーマライゼーションを実現しようなんてひとつも思ってなかったし、『自分が先陣切って』なんて思いはまったくなくて。実際問題、自分の生き様をさらして、努力したところもずるいところも見せて子どもに接していくしかなかったし、手立てがなかったです」(よしのり先生)

生徒たちが学んだ大切なこと

朗読の練習を欠かさないよしのり先生。皆野中の生徒はその声をいつも聞いていました。

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朗読の練習をするよしのり先生

「目が見えないハンデがある分、普通の先生より人一倍準備をしないといけないと思う。自分たちのためにそこまでして国語を教えてくれたので、そういうよしのり先生の姿勢を学んで、将来、自分も努力できる人になります」(男子生徒)

よしのり先生は野球部の練習にも顔を出します。チームの士気を高めるだけでなく、バットを握るとノックを始めました。

画像(野球部の練習でノックをするよしのり先生)

「ノックすると言ったので、本気かなと思ったんですけど。でも実際やってみたら、構えたところに(ボールが)来て。すごいなと」(野球部の部員)

この日、元教師の落合賢一さんがよしのり先生を訪ねてきました。落合さんは失明したよしのり先生が最初に着任した中学校の先輩教師です。よしのり先生の授業の準備を現役時代はもちろん、定年退職後もボランティアで手伝っています。読書感想文の読み上げや朗読のチェックなど、よしのり先生の授業を長年サポートしてきました。

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落合賢一さん

「障害のある教員が存在するだけで意味があると(よしのり先生に)言いました。実際にそうだったんです。(よしのり先生が)来て1週間、2週間で子どもの態度が違うんですよ。子どもはみんな、よしのり先生の役に立ちたいと思ってる。よしのり先生を職員室まで迎えに行きたい。『ここに階段がありますよ』と言いたい。障害のある先生が働く姿を見て、生き方を見て、生徒が重要なものを学んでいる」(落合さん)

実際に、生徒たちはよしのり先生の姿から感じ取ったことがあります。

「『いろいろな立場の人について考えよう』ということを教えてくれました。将来は地元で働きたいと思ってるんですけど、よしのり先生みたいに身体的に不利な状況にある人がいると思うんですね。そのときに、私も協力して心を開いて、思いやりを持って接してあげたいと思います」(女子生徒)

信頼関係を築いた37年間の教師生活

よしのり先生は全国の中学校でただ1人、盲導犬を連れた教師です。リル(9歳メス)は盲導犬としての定年はまだ先ですが、よしのり先生は自分の退職と同時に引退させてあげようと決めています。

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盲導犬のリル

「8年間、1日のうち23時間くらいリルと一緒だった。でも私としては、(退職後は)生きているリルには会わないつもりです。仕事を終わった盲導犬は、新しい家庭に一日も早く馴染んでもらわなきゃいけないので、私は会いません。それが盲導犬を使う者の使命だと思っています」(よしのり先生)

そして3月、定年を迎えるよしのり先生が最後の授業に臨みます。題材に選んだのは、常に自分を奮い立たせてきた宮沢賢治の詩です。

画像(最後の授業を行うよしのり先生)

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
(中略)
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

(「雨ニモマケズ」宮沢賢治)

「私はこの詩を自然に口に出していました。私1人で何ができるのか。私が教師をできるのは、多くの人に出会ったから。その出会った人たちに助けられたから今があるのだと思います」(よしのり先生)

よしのり先生が3年前のエピソードを語り始めました。

「(入学前の)春休み、私に会いにA君(現在のクラスの生徒)がお母さんと一緒に皆野中学校に来たんだ。手が不自由だから、いじめや差別を受けるのが心配だって相談だ。私はなんて答えたと思う? Aが障害ゆえに差別やいじめを受けたら、私の存在価値がまったくないから、『私は教職をかけても、Aを守る』と、お母さんにもA君にも言いました。でも、その心配は無駄だったね。お前たちは差別どころか、自然に受け入れた。お前たちってすごいなと感心しました。なんてハートのいいやつなんだろう、と。お前たちと一緒に卒業したいと思ったのは、1年生のあの時からです」(よしのり先生)

教室にチャイムが鳴り、最後の授業が終わると、生徒たちからよしのり先生にプレゼントが贈られました。卒業生71人のメッセージが録音されたICレコーダーです。

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プレゼントのICレコーダーを聞くよしのり先生

「先生が授業中にみんなのところに回ってきてくれて、たくさん話せたので良かったです。」
「よしのり先生がいなかったら不登校になってたかもしれません。」
「つらいことがあっても、何でも乗り越えられるんだろうなって思いました。」
「よしのり先生と出会って将来の夢も決まりました」
「帰り道、進路の話とか聞いてくれたことを覚えてますか? 楽しかったです。」
(ICレコーダーに録音された生徒たちの声)

こうして、よしのり先生は37年間の教師生活を終えました。

「自分なりによくやったと思うし、よく助けられたと思う。普通、教師と生徒って教える側と教えられる側で、上下関係があるじゃないですか。でも、私の場合はそういう関係もありつつ、助けられる立場でもある。単に上下関係だけじゃなくて、並列だったりして、お互いを思いやり、助け合うことができたと思います」(よしのり先生)

※この記事はハートネットTV 2022年5月10日(火曜)放送「デクノボー魂~全盲の中学教師 最後の授業~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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