46歳で認知症と診断された下坂厚さん。働き盛りの40代。妻と子どもたちと暮すために購入したマイホームのローン返済も残るなか、「人生が終わった」と感じたといいます。やがて症状の進行と向き合いながら、希望を求め続ける日々を写した写真をSNSで発信するようになります。下坂さんに写真にこめた思いを聞きます。
――下坂さんが実名を公表して発信する理由は?
下坂:診断を受けたころは、誰にも知られたくありませんでした。「認知症になったら終わりだ」「認知症にはなりたくない」というイメージとか、認知症そのものが失敗、駄目なんだ、という考えがあったので、自分がそうなってしまったことを人に知られたくない、という思いが強かったと思います。
下坂さんが発信するSNS
――その考えは変わっていくのですか?
下坂:変わっていきましたね。認知症になるまでは、「認知症になったら終わりだ」ぐらいのイメージしかなかったのですが、自分がなって、初めて実際にはそうではないと気づきました。まだまだできることもあるし、夢や希望も捨てずに持ち続けられるって。
自分はそこまでたどり着けましたけれども、まだまだ世間一般の方は「認知症になったら終わりだ」とか、家族が認知症になったら、あまり人に知られたくない、なってはいけないもの、間違ったものみたいな捉え方をされている人が多いと思います。
自分は写真をやっていたので、写真を通じて、認知症の人に見える世界を見ていただいて、「なっても悪くないなあ」ぐらいに感じていただけたらと思い、発信を始めました。
――具体的にはどんな内容を発信しているのですか?
下坂:道に迷ったときは、「今日道に迷った」とか、「バス乗り間違えた」と発信します。けれども、それだけではなくて、「迷ったけど、携帯の地図の機能を見て何とかちゃんと行けました」とか、いろんな工夫をしながら、ちゃんとやれてますよ、と知ってもらいたい。
困り事とかつらいこともあるんですけど、どこか前向きな部分もある。そういうところを見てもらいたいですね。
――そうした困り事というのは自分の弱点であり、隠しておきたいものだと思うのですが、それをあえてさらけ出すのは、勇気や決断が要るのではないでしょうか?
下坂:そうですね。診断を受けたときは、ほんまに絶望しかなかったんです。でも、それがちょっとずつ変わっていった。自分でも受け入れられるようになってきました。
例えば、自分の手帳にものを書いているときに字が出てこない、思っているのと違う字を書いてしまったりとか、計算ができなくなったときって、最初はやっぱりドキッとするんです。
「ウワ、ウワッ……、やっぱりそうなってきたか!」って。それはすごく怖いことではあるんですけども、だんだん受け入れていく。「自分はこういうもんなんだ」って。自分で認めないといけないし、受け入れないといけない。その覚悟みたいなものができてくる。それを写真の表現として多くの人に見てもらいたいと思うようになりました。
自分の症状とか、進行していく段階で自分が今どんな気持ちかとか、を客観的に見ていく作業をしているんですけども、やっぱり時々「怖いな」と思うこともあります。もともと、ものを作っていく作業は好きなので、楽しいんですけど、どっかでちょっと怖いかなっていう部分もあります。
――診断されるまで20年以上、鮮魚店で働いていたそうですね?
下坂:そうですね。魚屋で働いたのは給料が欲しかったからで、最初は包丁を持ったこともなかった。魚の種類も、どれがイワシで、どれがカツオですらも分からない。やっていくうちにだんだん包丁の技術も上達していく。自分で仕入れて、売り方とか切り方を考えて、売っていく。で、それが売上になる。だんだんお店を任されるようになっていく。やっぱり楽しかったんでしょうね。二十数年間やってきたっていうことは。
鮮魚店で働いていた時の下坂さん
――自分自身の人生設計としてどういう目標を持っていましたか?
下坂:ゆくゆくは僕も小さくてもいいから、自分の店を持ちたかったっていうのは、たぶんあったと思うんですよね。商店街なりどっかで。なんか独自のやり方で、こだわりのある八百屋さんとか魚屋さんとかって、たまに成功されているところもあるので、そういうのをやってみたいなとか、うん、思っていたんだと思いますね。
――自分のことなのに「思っていたと思うんですよね」というのは、あいまいな感じになってきているのですか?記憶が。
下坂:そうですね。
――自分のことなのだけど。
下坂:うん。
――そうなんですね。
――そうして働いている時に、自分で 「もの忘れ外来」に行って診察を受けたのは、どんなきっかけがあったのでしょうか?
下坂:仕事でやらなあかんことを忘れてしまう。お客さんの注文だったり、仕込みだったりを忘れるのが多くなってくる。指摘もされるし、一緒に働いている人の名前が出てこない、通勤の場所まで間違えるとかなっていったときに、やっぱりおかしいなと思うんですよね。
――誰かに相談しましたか?
いや、誰も相談できないんで、ネットで調べたら、認知症とかもの忘れとかそういうワードが出てきて。住んでいるところの比較的近いところで「もの忘れ外来」というのがあったので、そこに行こうかなと思ったんですね。
下坂さんと妻の佳子さん
――そして受診し、さらに専門の病院を紹介され、そこで診断されたのですね?
下坂:若年性アルツハイマー型認知症という、うん。目の前が真っ暗になるっていうことはこういうことかっていう。何も分からなくなるとか、自分で何もできなくなるっていう、そういうイメージしかなかったですね。とりあえず仕事を辞めて、どっか施設に入らなあかんのかなぐらいのイメージしかなかったので。
――仕事は辞めてしまうのですね?
下坂:好きな仕事ではあったのですが、魚屋ってすごく忙しいので、ちょっとしたミスが後々響いていく。仕事を遅らせることにもなりかねない。ポジション的にもね、後輩育成とかしていかなあかんところでした。自分ができなくなっていくのを、人に見られたくなかったのです。なので、もうあきらめるしかないかって。
仕事を辞めて、普段は家で引きこもりがちっていうか、誰とも会いたくなかったっていうのはあったんで。
――退職して1か月後、自宅に、認知症と診断された人を支える専門チームの看護師などの訪問を受けたことが転機になったそうですね?
下坂:はい。診断を受けた病院で、「初期集中支援チームというのがあるので、それで支えていきますよ」という声をいただき、看護師さんなどの家庭訪問を受けました。チームの方は、魚屋の仕事をどうやって継続していこうかっていう話をしに来られたんですけれども、僕は「もう辞めました」という話をして。じゃあ、どうしようかって。引きこもりがちでこのままいったら、(症状が)進行するみたいなことで。
で、その時、一緒に来られた理学療法士の方が、僕の今の職場のデイサービスの所長さんとつながりがあって、「そちらでなんかお願いしてみようかな」みたいなことを言われていたと思います。
――「介護」ですね。20年以上鮮魚店の専門家として腕を磨いてきたのとは全く違う仕事ですね?
下坂:最初声かけていただいたときは、全然そっちに行こうとも思わなかったですし、興味もなかった。でも、誘ってもらった以上は一応顔だけ出して、断ろうかなぐらいしか思ってなかったですけども。
たぶん、断るつもりで話聞きに行って。所長さんとお会いして、話を聞いていくうちに、自分が考えていた介護の仕事というか、デイサービスっていうのとは違うんだなというのを感じて。「ここでやったら自分も何か新しいことが、楽しいことができるのかな」っていうふうに思えたのかなと思いますね。で、ちょっと試しにやってみようかなみたいな。
デイサービスで働く下坂さん
――もともと、どういうイメージを持っていたのですか?
下坂:デイサービスって、お年寄りが行くっていうのは分かりますし、たぶん皆さん、車いすか何かで、それこそ自分では何もできない…みたいな、そういうイメージしかなかったんですけども。見学をしたり、話聞いている中で、80代90代でも元気な方はすたすた歩いてはるし、なんか楽しそうにしている。あ、なんか全然違うなと。
――デイサービスで介護職として働き始めて間もなく、大きな出会いがあったそうですね?
下坂:はい。デイサービスで働き始めたのですが、そんなに前向きではなかったんです。「通える場ができたなあ」ぐらいの感じで。「この先どうなっていくんだろう、自分の認知症が」と、そういう不安もまだまだありましたし。仕事を覚えるので精いっぱいで、悶々としていた時期でした。
そんな中で、施設長の河本歩美さんから、「大阪で、認知症当事者の丹野智文さんが講演会するので一緒に行きませんか」と声かけていただいた。で、講演聴きに行って、その後、楽屋でちょっとお話して。それまで当事者が講演活動をしているっていうのは知らなかったので、なんか、「あ、同じ認知症でもこんだけ笑顔で元気に、もう診断を受けて何年もたっているのにこういう方がいるんだ」というところを初めて見て。で、自分の中でも何か、うん、考え方が変わっていったのかなと思いますね。
丹野智文さん(右)と下坂さん
5~6年たっているのに、まだ元気で全国で講演活動している丹野さんがいるっていうのは、自分にとってはすごい衝撃的でしたね。
どんな偉い先生とか専門職の方が大丈夫だよとか、いろんな言葉をかけていただくより、実際の大丈夫な方というか、元気な方がね、実際おられる。それは何よりも強いメッセージですよね。すんなりと入ってきました。
――下坂さんの考え方も変わったのですか?
下坂:「自分も、そうなれたらいいな」というか、自分の中の認知症観、みたいなのが変わったんですよね。「あ、認知症になっても終わりじゃないんだ」と。認知症になっても新しくチャレンジすることができる、という話を聞いて、「自分もそうありたいなあ」と思って。
「認知症の人と家族の会」会報
そのころ、「認知症の人と家族の会」の会報で認知症当事者の紹介のページがあるので、出てみませんかというお話をいただいて、チャレンジしてみようかなと。そこから自分が認知症であるということを公表して生きていくという覚悟みたいなのができたのかなと思いますね。
――下坂さんの現在の生活で、もう1つ大きな支えになっているのが、写真ですね?
下坂:デイサービスで働くようになって、ちょっとずつ前向けるように。若いころにちょっとフリーのカメラマンしてたとか、インスタでちょっと写真を上げていることとかを施設長の河本さんとかに話したことがあって、「デイサービスでも利用者さんの写真を撮ってほしい」と頼まれるようになりました。
――デイサービスの利用者の8割に認知症の症状があるそうですが、撮影を通して何か発見はありましたか?
下坂:写真を通して、写っておられる方の代弁というか、代わりに伝えたいと思うんです。認知症が進んでおられる女性が、テーブルにある花を見てすごい笑顔でおられるとか、そういう写真とかを見て、認知症になっても、嬉しいときは笑うし、悲しいときは泣く、そういうところはやっぱりずっと残る、それでいいんじゃないのって教えてもらっているような気がするんですね。
また、男性の方で、その方も認知症が進んでおられますけども、車いすで散歩していて、お地蔵さんの前を通ると、自然に手を合わされる。確かに、しゃべっていても何しゃべっているか分からないときもありますし、突然叫んだり、自分で自分のことをするのもちょっと難しいところもあったりして、すごい周りから見たら、もうだんだん何も分からなくなっている人みたいに見られますけれども、お地蔵さんとかの前では手を合わせるっていう気持ちは残っておられる、大事な部分は残っているんだなあと。そういう瞬間とかを見たときに…失っていっているように見えて、そうではないんだなと気づかされたので、それは写真を通じて他の人にも伝えられたらいいかなと思いましたね。
認知症を通じて、僕は生き方や、生きるとは何だみたいなことを自分自身に問いかけたりもします。そういうところで、デイの利用者さんや、介護の仕事を通じて、気づいた部分が多いのです。それを、自分が気づいただけではなく、自分は写真をやってたので、それで表現できたらと思っています。
――認知症になってから「自分の写真がよくなった」と感じるそうですね?
下坂:認知症になってから「人を撮るのが増えたね」とかって周りの人にもよく言われるんです。以前はきれいな風景を撮るにしても、人を入れるってあまりなかったんですけども、最近は人を入れて、人が楽しそうにしているところを写真に撮る。自分も言われて、そういえば増えてきたなと思って。
それはやっぱり認知症になってからなんだなと思うのです。自分はだんだんいろんなことが分からなくなっていく。だんだん自分が自分でなくなっていくとか、そうなっていくのはどっかで分かってて。家族が笑顔でやっているとか見た時に、自分もずっとそうでありたいっていう。そこに永遠性というか、普遍的なものを求めている。写真としてそこにとどめておきたいっていう。そこに「祈り」みたいなものがあるんですよね。
夕焼け撮るにしても、昔はただ単にきれいに、もうちょっと色を出せたらなとかね、たぶんそういう感じで撮ってたと思うんですけど、最近は、夕焼けとか撮りながらも、明日への希望みたいな、祈りみたいな思いみたいなのがあって。他の人にもそういう思いを知ってほしいとか、いろんな思いがあって撮っているのかなと思いますね。
――下坂さんの発信で、妻の佳子さんから「まだ私のこと分かる?」と訊かれるというものが印象に残っています。
下坂:そうですね。確かに僕は一番、うん、聞かれたらつらいとこでもありますし、妻も同じだと思うんですよね。
妻が何かのインタビューで、僕が認知症になって何が一番つらいですかって訊かれて、「私のことを忘れられるんじゃないかって。経済的なこととかいろんなことよりも、自分のことを忘れられるんじゃないか、そこが一番つらい」と答えていました。
「そうなんだあ」と。直接普段そういうことはあんまり言ってこないんですけどもね。
――下坂さん自身が一番自分のこの将来について心配していることって何ですか?
下坂:うーん。自分が自分でなくなっていく、不確かになりつつあるのは確かなんですよね。
不確かになっていくんですよね。自分のこともそうですし、家族のこともそうです。
今のところ自分の名前もまだ言えますし、生年月日もだいぶ怪しいですけども、何とか言えますし、自分の今までのこともこうやって話したりもできる。けど、言った後でそうやったかなってやっぱり思うこともだんだん増えているんです。そこにはやっぱり不確かというか、自分で自分のことがこう、言い切れへんというかね、すごい不思議な感じではあるんですけど。
ゆくゆくはやっぱり自分のことも分からなくなるのかなと。家族のこともそうですし。そこはやっぱり怖いかなと思いますね。
認知症の症状として、もの忘れとかね、いろんなことができなくなっていくっていう部分は、すごいそれはそれで不便ではありますし、困るのは困るんですけど。ま、でも、なんかでカバーできる。周りのフォローがあったら、それはそれで別に生活やっていけるっていうかね。暮らしていけるんですけども、自分のこととか家族のこととかっていうのがこう、不確かになっていく部分というのはどうしてもある。そこですよね、怖いのは。怖いっていうか、うーん、やっぱ怖いなあ。それが不確かになっていくのが分かってしまうというところが、また怖いのかもしれないですね。自覚しているところがね。
――そんな中で、こんな言葉も発信していますね。
「不安や悲しみに 押しつぶされては いけない
手をひろげて そっと つつみこむように
暗闇を 抱きしめる」
下坂:これからどうなっていくんだろう。不安なところってなくならないですよね。いくら前向きだとはいえ。そういうところは常にあるんですよね。不安とか悲しみとかっていう、絶望というものとはまた違いますけれども。それにこう支配されてはいけないっていう、押しつぶされてはいけないっていう、そうですね。メッセージをSNSで上げながら、自分に言い聞かせている部分もあるとは思うんです。
下坂 厚さん
最初はね、「認知症には負けたくない」とかね、抗おうとするんですね。戦おうとするんですね。そういう時期もあったと思うんですね、僕の中でも。でも、やっぱりそれは無理なんだなと。治る病気ではないっていうのもまた1つですし、やっぱり、ただしんどいだけだったり、つらいものでもある。じゃあ、もういっそのこと、暗闇ではあるのですけども、それも自分の1つの部分だと認めて、それを愛してやろう。受け入れてやろうという。で、表現としてそっと抱きしめるっていう。
――「認知症を愛してやる」っていうのは、どうすることなのでしょうか?
下坂:認知症になってできなくなっていくとか、分からなくなっていく部分。それはでも、たぶん普通の、できて当たり前という社会から見たら、あかん部分ですよね。だけど、認知症の人というか、僕からしたら、そうなっていくのが当たり前なんだと。そこはもう、人に隠すことでもなく、恥ずかしがることもなく、それは当たり前な、それが自分なんだっていう。だから、それを人に認めてくれっていう前に自分が認めて、自分で自分を認めないといけないなっていうこと。
自分がなんで認知症になったんかって、やっぱり思うんですね、いつも。自分に認知症というものを与えられて、じゃあ、そこから自分は何ができるねんって。別に誰から言われているわけではないんですけども、自分で自分に問いかけて、模索していく中でいろんな人とつながって。
でも、ふと思うんですよね。これはもしかしたらパラレルワールドというか、夢の中の世界なのかな、みたいなね。もしかしたら魚屋時代に、忙しい中で寝ている瞬間か休憩している瞬間に見ている夢の中の話なんかなとか思いながらね。でも、戻りたくはないかなと思うんです。この世界はこの世界でなかったことにはできない。今まで20年魚屋の仕事をしてきて、その後、2年か3年この認知症になってからの世界がありますけども、同じぐらい長いような短いような、それはそれで充実しているのかなっていうか、深いのかなって思うんですね。
※この記事はハートネットTV 2022年6月15日放送予定「認知症の私に見える風景 ~下坂厚 49歳~」の取材内容をもとに作成しました。
執筆者:川村雄次(NHKディレクター)