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フォトジャーナリスト 安田菜津紀さん 差別の連鎖を断ち切るために

記事公開日:2022年04月11日

フォトジャーナリストの安田菜津紀さんは世界各地を飛び回り、難民や貧困などの社会問題について発信を続けています。
そんな彼女が今追いかけているテーマは「ルーツ」。日本に暮らす外国人へ向けられる、差別の問題です。
問題意識の根底にあるのは、在日コリアン2世であることを生涯隠し続けた父の存在。なぜ父は自身の出自を語らなかったのか。日本の入管施設でスリランカ人女性が亡くなった事件は、防ぐことができたのではないか。安田さんは沈黙を強いられてきた人々に寄り添いながら日本の社会に根づく差別の構造を明らかにしていこうとしています。
どうすれば、差別の負の連鎖を断ち切ることができるのか。安田さんのまなざしを通して、ともに考えていきます。

明るみに出た外国人差別の構造

2021年3月、名古屋出入国在留管理局に収容されていたスリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさん(享年33歳)が亡くなりました。この事件によって、入管施設での長期収容の実態が改めて浮き彫りになりました。2007年以降、施設内で亡くなったのは、ウィシュマさんを含めて17人。そのうち5人は、自ら命を絶っています。(※全国難民弁護団連絡会議の資料より)

画像(ウィシュマ・サンダマリさん)

――ウィシュマさんの事件について取材を始めたのはどのようなきっかけだったのですか?

安田:もともと入管の問題は取材していて、実際に収容を経験された方々にお話を聞かせてもらっていました。2021年3月にスリランカ出身の方が亡くなったとニュースで聞いて、また起きてしまったかと、本当に愕然とした思いだったんです。その後、取材させてもらっていた弁護士さんたちがウィシュマさんやご遺族の弁護団になり、取材を通して徐々にご遺族や生前のウィシュマさんの声に触れるようになりました。

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安田菜津紀さん

――事件についてどう感じましたか?

安田:日本国籍以外の人間に対する目線が長らく変わっていないと、取材をすればするほど痛感します。戦後日本では外国人登録制度の仕組みのもと、外国人は治安維持の名目で管理されてきました。つまり、人権の主体ではなくて、管理統制の対象?として外国人を見てきたのです。人の命を拘束することは最後の手段であるべきで、最初から閉じ込めることによって音を上げさせて、国籍国に送還するということがまかり通ってはいけないということに、私たちは改めて立ち返らなければなりません。

2021年には東京オリンピック・パラリンピックが開催されましたが、ダイバーシティやインクルージョンなどの理念を掲げて選手や関係者に「来てください」と両手を広げながら、足元では外国人への虐待のようなことを繰り返しているわけです。この矛盾とどう向き合うのか、私たちの社会に突きつけられていると思います。

名古屋入管内で起きてきてしまったことに憤りも、やるせなさも、悔しさも感じますが、一方でその憤りや悔しさは、こうしたことが社会の中で起きることを許してしまった自分自身にも感じたことでした。私はなぜ、これを許してきてしまったのか。私はなぜ、これを見過ごしてきてしまったのか。

安田さんは、ウィシュマさんが亡くなった経緯について、独自に取材を続けてきました。スリランカで3人姉妹の長女として生まれ育ったウィシュマさんは、日本で英語教師になるという夢があり、語学留学のために来日しました。

ところが、次第に語学学校を欠席しがちになり、除籍処分。同居していたスリランカ人男性から暴力を振るわれていたというのです。その後、在留資格を失い、国外退去が命じられます。ウィシュマさんは求めに応じる姿勢を見せていましたが、同居していた男性から「帰国したら罰を与える」などと脅され、日本に留まらざるをえなくなりました。そして、2020年8月。入管施設へ収容されることになったのです。

画像(2020年8月 名古屋出入国在留管理局の施設に収容 資料 東日本入国管理センター)

――ウィシュマさんの事件で印象的だったのはどのようなことですか?

安田:たとえば亡くなる3日前の3月3日ですね。これは映像をご覧になった弁護士が言っていたことですが、ぐったりしたウィシュマさんの口元に職員がスプーンで食べ物を持っていって、食べてもらう。でも食べることができなくてすぐに近くに置いてあるバケツに吐いてしまう。吐くと口の中が気持ち悪いと思うんですけど、うがいをすることもなく、はい、また次、はい、また次って食べ物が運ばれてしまって、運ばれる、吐く、の繰り返しです。

でも、公表された最終報告書のなかでは、このシーンがただ一言だけ、「食べた」と書かれている。この口元に食べ物が運ばれて、それを吐くということを繰り返しているシーンが、「食べた」という一言で書かれてしまっている。ずいぶんと印象が違いますよね。うそは書いていないかもしれないけど、真実と言えるのか疑義が残ります。もし本当に重要なこととして受け止めるのであれば、内輪だけの調査には限界があって、しっかりとした第三者の調査をもう一度やり直すべきではないかと私自身は感じています。

また、多くの声や目が集まらなかったことによって、こうしたことが繰り返されてきたと思うんです。多くの人間が、入管で起きていることに関心を払っていれば、歯止めになっていくと思います。

目の前にいる人間を人間として見ない。一人の生活者として、彼ら彼女たちのことを見つめることを忘れてしまったがゆえに、ああいう事件が繰り返されてきたんだということは実感するんです。

2021年3月6日、適切な治療も受けられないまま、ウィシュマさんはついに、息を引き取ります。収容生活は、半年あまりに及んでいました。
2021年10月、安田さんはウィシュマさんが家族とともに暮らした実家を訪ねました。

「スリランカに飛ぼう――」
まともに事件と向き合おうとしない法務省・入管の態度に業を煮やしながら、私は決意した。

人権を蔑ろにする構造的な歪みは、そこに確かに存在した命を軽んじる態度から生じるものではないか。一人の人間としての、ウィシュマさんの生きた軌跡をたどる取材が、必要だと思ったのだ。
(安田菜津紀さんの著書『あなたのルーツを教えて下さい』)

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ウィシュマさんの実家を訪れた安田さん

――なぜスリランカにあるウィシュマさんの実家まで行こうと思ったのですか?

安田:2021年5月に来日されたご遺族といろいろな言葉を交わすなかで、やはり彼女たちにとって、ここは安心して話せる場所ではないと感じてきたんです。彼女たちが安心して話せる場所、つまり、自分たちのホームで改めて何を感じているのか、どんなことを思っているのか聞く必要があるのかなと。

これは妹さんがおっしゃっていたことですけれども、「在留資格を失うことによって、死刑にする国があるんですか」と。「私たちの願いはただ人間を人間として扱ってほしいということなんです」と繰り返しおっしゃっていました。つまり大きな差別の構造が、この日本社会にあるんだっていうこと自体を見つめていかなければいけない。「いや、日本社会にそんな差別はないんだ。在留資格を失うほうが悪いんだ。だから命を線引きしてもいたしかたないだろ」というのはある種の優生思想であり、人の命を奪うほどの深刻な差別だと私は思います。

こういう事件が起きてしまうと、「何を望んでいますか、どうしたらいいと思いますか」と、どうしてもご遺族の声に頼りがちになってしまいますよね。でも、それは本当にご遺族だけに向けられるべき言葉なのでしょうか。それは本来、ご遺族だけではなくてこの日本社会に生きる一人ひとりに向けられていると私は思っています。

「もう大丈夫だよって、あなたたちは十分、声を届けてきたから。今度は、そのバトンを受け取った私たちが次の行動につなげるから安心してね」と言えるぐらいまで、私たちが行動していかなければいけないと感じています。

父のルーツをたどる旅で見えてきた“自分がやるべきこと”

ウィシュマさんの生きた証しを求めて、スリランカへ赴いた安田さん。こうした行動へと突き動かすのは、中学2年生の時に亡くなった父親の存在です。父・清達(せいたつ)さんは在日コリアン2世。そのことを語らないまま亡くなりました。

画像(安田菜津紀さんの父・安田清達さん)

――お父さんが在日コリアン2世だと知ったのはいつですか?

安田:パスポートをつくるために自分の戸籍を初めて見たとき、そこに見慣れない国籍の「韓国」という文字を見て、父が在日コリアンだったことを知りました。当時、一般家庭に少しずつインターネットが普及してきていたころだったので、「韓国」とか「韓国人」とか「在日」という言葉で検索をかけてみるんです。すると、韓国人は嫌いだとか、出ていけとか、そういう差別の言葉が並んでいました。

ルーツを知るまでは、自分や家族が「日本人」であることを疑わず、
そうした意味での社会的「マジョリティ」として生きていました。
差別やヘイトの問題は、私の皮膚の外側にあるものとして、痛みを感じることすらなかったのです。
(『あなたのルーツを教えて下さい』)

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安田菜津紀さん

最初の記憶をたどると、幼少期にも思い当たる記憶があります。父は飲食店を営んでいたので大変ですし、非常に疲れる、体力もいる仕事だったと思うんですが、常に私に対してはにこにこと笑っていました。
その日、たまたま、珍しく父が早く帰ってきて、絵本を持っていって、「読んで」とお願いしたんです。父は疲れているにもかかわらず、嫌な顔ひとつせずに私を膝に乗せて読み始めるんですが、すらすらとは読めないんです。つっかえる。その、つっかえ、つっかえ読む父の読み聞かせに耐えかねてしまって、絵本を突き返して、「お父さん、変だよ、どうして読めないの」って。「お父さん、日本人じゃないみたい」って父に対して言ってしまったんです。そのときも、にこにこ笑ってはいたんですが、目元がどこかさみしそうで、悲しそうで、明らかにふだんとは違う父の表情を見たときに、瞬間的に「これは、もしかすると、自分は何かとんでもないことを言ってしまったのかもしれない」という感覚が子ども心ながらにあったんですよね。

なぜ父は語らなかったのか、父の家族はどこから来た人たちで、どんな人生をたどってきたのか知りたいと思っても、もう亡くなった人に尋ねることはできません。だから、もうこれ以上知ることはできないんだということを、なかば自分に言い聞かせるようなかたちで背を向け続けてきました。

そんな安田さんに転機が訪れます。父を知る手がかりが見つかったのです。それは「外国人登録原票」(※)。清達さんたち在日コリアンは、外国人として指紋や顔写真などを定期的に提出するよう義務づけられていました。そこに記された住所などを頼りに、安田さんは、父や祖父母が生きた時代について調べ始めました。

(※外国人登録制度は新たな在留管理制度への移行に伴い2012年に廃止された)

画像(外国人登録原票 ※外国人登録制度は新たな在留管理制度への移行に伴い2012年に廃止された)

――お父さんが在日コリアン2世であることに背を向けき続けた中で、ルーツにもう一度立ち返ろうとしたのですね。

安田:気持ちとしてはとても複雑で、もちろん知りたいし、触れてみたい。自分の家族がどこから来た人たちなのかわかりたい。でも一方で、管理・監視のためにできた制度をたどってしか自分の家族の歩みに触れることができないんだということに、ものすごくざらりとした感覚、割り切れないような感覚が残りました。

でも、今まで知らなかったことを知りたいという思いのほうが勝って、外国人登録原票を引き出すことができて、それまで書類の本当に小さな記載でしかなかった父や祖父母たちが、名前と顔写真と、どこに暮らしてきたという痕跡というのが、そこに細かに刻まれているわけですよね。本当に自分自身の一部を取り戻したかのような、自分の中にぽっかりと空いていた空白が、じわじわと温かく埋まっていくような感覚が湧き上がってきて、本当に不思議でした。

たとえば先日、祖父のことを知っている方にお話を聞いたんですけど、その方は日本の学校に通っていたそうなんです。たとえば教室で誰かのものがなくなると、自分がやってもいないのに、「お前がやったんだろう」と教師に決めつけられて、「指紋とるぞ」とみんなの前で指紋をとらされたそうなんです。
教室の中でさらしながら。結局、彼がやったのではないとわかったあとにも、謝罪の言葉の一つもなかったということを教えてくれて、もしも父が同じような経験をしてきたのであれば、あのさみしそうに、悲しそうにした、私が絵本を突き返したときの表情の一端というのが、もしかしたらそこに表れたのかもしれないということは考えます。

安田さんは清達さんが生まれ育ったという京都へ足を運びます。そこには、今なお、世代を超えて続く差別の実態がありました。朝鮮学校に対するヘイトスピーチ。子どもに対してまで容赦ない攻撃が浴びせられていたのです。

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京都朝鮮第一初級学校でのヘイトスピーチ

安田:もしかすると、父はこういうものを見せたくなくて、自分の子どもに経験させたくなくて、自分のルーツを語らなかったのではないか。あるいは、語れなかったのではないか。

自分がその出自を明らかにすることによって、もっと言葉の暴力が飛んでくるかもしれない。それも含めて、もし経験をさせたくないというふうに考えたんだとすれば、徹底的に隠すという選択があってもおかしくなかったと思います。でもそれは言ってみれば、一人で背負う覚悟をしてしまったということだったので、それ自体も苦しかったでしょうね、きっと。

最後に父と会話したのが中学生の時ですけれども、当時、暮らしていた場所に海があって、煌々と月が海を照らし出しているところを見ていて、父の隣に座ったときに、「海が好き?」って聞かれて、好きだよって返したら、「そうか、やっぱりなっちゃんは僕の子どもだね」って言ってくれたのが、最後の会話ですね。

子どものことを最善に考えて、さまざまな選択をしてくれてありがとうという気持ちが、本当に日々、強まるばかりですけれど、実際、父を目の当たりにすることができたら、謝ってしまうと思うんですよね。あのとき、「お父さん日本人じゃないみたい」って言葉をかけてしまってごめんねって。絵本を突き返してごめんねって。

差別って、もちろんものすごく悪意を込めてくる人間もたくさんいると思うんですけど、一方で日常の中のマイクロアグレッション(※)みたいな小さな攻撃とか差別って、無知ゆえに、あるいは無意識だからこそ相手に投げつけてしまうものだと思うんです。

幼かったから、知らなかったからではなくて、今も大人になったとしても繰り返されている差別と、構造としては重なる問題だと見ないといけないということは思います。

※マイクロアグレッション
何気ない日常の言動に表れる偏見や差別

――お父さんのルーツをたどる旅を通して、安田さんにとっての“ルーツ”はどんなものになりましたか?

自分が何者なのかを知りたいという感覚というよりは、自分がどういった思いや生き方、生きた痕跡の上に生かされているのかを知りたい。それを見つめることによって、自分がやるべきこと、やらなければならないことが自ずと見えてくるのかなということは感じています。

自ら声を上げ、矢面に立ち差別と向き合う

安田さんの“ルーツ”をたどる旅。そのなかで出会った大切な場所が川崎市ふれあい館です。在日外国人たちの交流の場として、34年前に市がつくりました。

画像(川崎市ふれあい館を訪れる安田さん)

――安田さんと川崎市ふれあい館との出会いはどのようなものだったのですか?

安田:ふれあい館の存在自体はもともと知っていて、ずっとお邪魔したいなと思っていたんですけど、ひょんなことから、今の館長を務めている崔江以子(チェ カンイヂャ)さんにお目にかかって、実際にご案内くださることになって。2020年の夏にお邪魔したのが最初でした。
生まれたばかりの赤ちゃんから100歳のおばあちゃんまでが思い思いに時間を過ごして利用する施設ですし、必要以上に背伸びをして大きく見せることもないですし、肩の力を抜いて、自分が自分であっていいと感じられる空間だなと最初にお邪魔したときから思っていました。

安田さん:ヨンヂャ ハルモニ(ヨンヂャおばあさん)。川崎の孫です。

ヨンヂャさん:アイゴー(あらまあ)。

画像(李榮子さんに挨拶する安田さん)

安田さんは戦後の苦しい時代について、安田さんの祖母と同じく釜山出身である李榮子(イ ヨンヂャ)さんに繰り返し話を聞いてきました。ここでは週に一度、在日コリアンの高齢者たちの集いが開かれています。ふれあい館で仲間とともに穏やかな老後の時を過ごすハルモニ(おばあさん)たち。しかし、差別の矛先はこの場所にも向けられています。

2016年1月。ふれあい館の近くで在日コリアンに対するヘイトデモが行われました。これに対し、ハルモニたちは地域の人たちと一丸となって抗議。その後、ヘイトスピーチを規制する罰則付きの条例も生まれましたが、その後も年賀状に紛れてふれあい館に脅迫文が届きました。

画像(2019年 川崎市で全国初のヘイトスピーチに対する刑事罰を盛り込んだ条例が成立)

安田:ヨンヂャ ハルモニが、「ねえねえ、幸せってどういうふうに書くんだっけ?」と尋ねてこられたので、私が大きく紙に「幸せ」って書いたら、「ああ、そうか、そうだったね」とかみしめるようにそれを見ながら、「差別がないことが一番幸せ」という作文を、ヨンヂャさんが完成させて・・・。差別の言葉がふいに届くことがものすごく不条理ですし、本来はワクワクするはずのポストを、新年がくるたびにビクビクしながら、今年は同じようなことがないだろうかという思いで開けなければいけないことが何年も続いていくと思うんですよね。豊かな老いの時を過ごそうとしているハルモニたち、その豊かな老いの時を守ろうとしている人たちの思いをまるごと踏みにじるような行いに対しては、怒りという言葉では収まらないような気持ちです。

2021年12月、安田さんはある訴訟を起こしました。父のルーツを明かした安田さんの記事に対する、誹謗中傷。もう、見過ごすことはできませんでした。

安田:以前の私であれば「じゃあ見ないようにしよう」とか、たぶん自助努力、自己責任で対処しようとしてしまっていたんですけど、それは問題の先送りにしかならないことに気がついていくんですね。同じアカウントが、彼ら彼女たちに矛先を向けていくかもしれない。だからある程度こういう言葉が沸いてきてもしょうがないよね、しかたないよね、と終わらせてはいけないと思ったんです。

画像(安田菜津紀に対するインターネット上での差別書込及び在日コリアンへのヘイトスピーチに対する訴訟)

安田さんは、この裁判があらゆる差別の歯止めになることを願って、あえて矢面に立とうとしています。

安田:次世代の人たちがヘイトスピーチとか、ヘイトクライムの矛先を向けられたときに「上の世代の人たち何してたの?」ということにしたくないんです。昔はこうやってヘイトスピーチ、ヘイトクライムが歯止めがかからなかった時代があって、でもたくさんの人たちが勇気をもって声を上げて、だから今は大丈夫なんだよって、昔話になったらいいなと思っています。

もちろん人間である限り差別をゼロにすることはできないけれども、被害を受けた側が声を上げたり、そもそも被害を防げるような可能な限りの仕組みをちゃんと築いてきたから安心してねって言えるような発信をしていくことが、自分の持ち寄れる役割かなということは感じています。

差別が何をもたらしてしまうのかということの発信は必要ですが、であるならば、差別を包括的に禁止する法律がなければ守れないですよね。差別が起きてしまったときに安心して駆け込めるような、ちゃんと独立した救済機関がないと、声をそもそも上げられないですよね。
差別って、「声を上げるな。お前の声なんて社会にいらない」ということなので、その押し込められてしまった声をもう一度上げる、もう一度届けることはものすごくエネルギーがいることで、声を届ける先というのは、安心できるところでないと届けられない。だから、やっぱり仕組みと枠組みをつくりましょうということが、最終的に発信していかなければならないことなのだと思います。

画像(安田菜津紀さん)

――最後に、安田さんが理想としている社会について教えてください。

安田:私が目指したいのは「ともに生きられる社会」です。「すごく仲良くする社会」も非常に素晴らしいですが、いろいろな性格やバックグラウンドの人たちがいて、常にべったり仲良くするのはときには難しいですよね。でも「ともに生きられる社会」は、常にべったり仲良くしなさいという社会とはまたちょっと違うものだと思うんです。

自分が日常の中で苦手だなと思っている人、あるいは自分がなかなか落とし込めないような文化を持っている人が、ものすごく不当な扱いを受けていたときに、「どんな人であれ、その行いは違うよ」って、「その行い自体は間違っているよ」って言える社会。その不条理を黙って見過ごさない社会。それが私が生きたい社会、次の世代に手渡していきたい社会かなって思っています。

ルーツとは何かを考えることが、
父が私に託してくれた役割なのだとしたら、
次世代が差別の矛先を突きつけられ、
沈黙を強いられることがないよう、
写真で、言葉で、抗い続けたい、と改めて思う。
(エッセイ「もうひとつの「遺書」、外国人登録原票」)

※この記事はハートネットTV 2022年2月1日放送「ルーツのバトンを受け継いで~フォトジャーナリスト・安田菜津紀~」の取材内容を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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