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サハリン“樺太”で生まれたろう者の戦後 (2) 心のふるさとで見つけた自分のルーツ ヒラヌマ・ニコライさん

記事公開日:2020年01月25日

かつて「樺太」と呼ばれ、日本の統治下にあったサハリン。2019年、そのサハリンから75歳のろう者が来日しました。ヒラヌマ・ニコライさん。3歳のときに失聴、13歳で手話や文字を覚えるまで言葉のない世界にいました。さらに、実の両親と幼い頃に別れたため自分のルーツが分からず、孤立していたヒラヌマさん。これまで語り継がれてこなかった「ろう者の戦後」を考えます。

日本で自分のルーツを探したい

ヒラヌマ・ニコライさんは“自分のルーツは日本にある”と強く信じて生きてきました。生まれ育ったのは、かつてその南半分が「樺太」と呼ばれ、多くの日本人が暮らしていたサハリンです。

終戦後、さまざまな事情でサハリンにとどまった人々に対しては、民間団体の支援や国による帰国事業が行われてきました。しかし、ろう者で情報が得られなかったヒラヌマさんは、今回、日本のろう者の支援を受けるまで孤立して生きてきました。

サハリン南部にあるコルサコフ。かつては「大泊」と呼ばれていました。ヒラヌマさんはこの町で暮らしています。

画像(サハリン南部にあるコルサコフ)

二人の子どもを育て上げ、現在は妻エマさんとの二人暮らし。夫婦ともにろう者です。日本がルーツだと信じながら、誰とも接点がなく、強い孤独感を抱えて生きてきたヒラヌマさん。そんなヒラヌマさんにとって、エマさんはかけがえのない存在です。今回の来日も二人一緒。

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ヒラヌマ・ニコライさんと妻のエマさん

ヒラヌマさんは、聞こえる両親のもと1944年に生まれました。幼い頃は終戦直後の混乱期で、手話や文字を覚える教育を受けられなかったとロシア手話で話します。

ヒラヌマさん:(聞こえなくなったのは)3歳の頃。はしかが原因だと聞いています。4歳、5歳とずっと病気がちで記憶がないんです。状況が分からず、経験や知恵もなかったのでコミュニケーションが取れませんでした。母は何も教えてくれなかったですし、戦争のことも聞かされていません。ろう学校に入り、寄宿舎で1年過ごしたあと、家に帰って初めて『父』という言葉の意味を知ったんです。(ロシア手話)

のちに「実の父は7歳のときに亡くなった」と聞かされました。ようやく文字や手話も覚え、記憶も定かになってくるのは、ろう学校に入った13歳の頃から。そのときには、すでに実の母もいなかったといいます。そんな10代のある日、ヒラヌマさんは自分のルーツを知るある手がかりを発見したといいます。

ヒラヌマさん:書類を見るまで誰も話してくれませんでした。見つけたのは家族のフルネーム。日本人の名前、ヒラヌマ。母の名もヒラヌマ、父の名もヒラヌマと書いてありました。書類は名前以外ほとんど理解できませんでした。(ロシア手話)

自分が何者なのか、はっきりとは分かりません。それでも日本に行ってみたいと、強い思いを抱くようになりました。

たくさんの“仲間”が協力して訪日が実現

日本の統治下にあったサハリンでは炭鉱や製糸業で栄え、およそ40万人の日本人が暮らしていました。終戦後はソ連の支配下に置かれ、大部分の人が日本に引き揚げます。しかし、さまざまな事情で、長い期間とどまらざるを得なかった「残留邦人」もいました。それらの人々に対し、民間の支援や国による帰国事業が行われてきました。

ところが、ろう者で日本人との接点のなかったヒラヌマさんは、これまでの経緯や自分の思いを訴える術もなく生きてきたのです。そんな状況を変えるきっかけを作ったのは国際手話の普及活動を行うNPO法人UPTAINの高波美鈴さんです。

画像(NPO法人UPTAIN 代表 高波美鈴さん)

2019年6月には樺太出身のろう者の里帰りを支援。北海道に住む村川健雄さんが75年ぶりに生まれ故郷を訪ねました。

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村川健雄さん

サハリンのろう者との交流の中でヒラヌマさんと出会い、その境遇や苦しい思いを知った高波さん。日本を訪れたいという願いをかなえるためにはどうすればいいのか? NPO法人日本サハリン協会の斎藤弘美会長に相談をもちかけました。斎藤さんたち、残留邦人の一時帰国などを支援してきた日本サハリン協会は、ヒラヌマさんのことをWebサイトに掲載。さまざまな情報提供を行います。

画像(NPO法人 日本サハリン協会 会長 斎藤弘美さん)

「何なら『日本人』なのかっていうことを考えさせてくれるということも、ヒラヌマさんに出会って、日本人じゃないか?日本人であるか?どこかで切り分けをするときの『日本人』という発想で、私たちが彼を規定するのはしたくないって思った」(斎藤さん)

高波さんは協会の後援を受け、クラウドファンディングなどで寄付を募ります。その結果、多くのろう者、聞こえる人からも支援金が集まり、来日が実現したのです。

2019年10月18日、成田空港の到着ロビーに姿を見せたヒラヌマさんは、心のふるさと日本に初めて降り立ちました。

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日本に降り立ったヒラヌマさんと妻のエマさん

ヒラヌマさん:この足でしっかり日本の土を踏んだとき、私の魂と心は日本人であることが分かりました。本当に感激しています。(ロシア手話)

今回、高波さんが協力を求めた人がもうひとりいます。アメリカからやってきたろうの通訳者、アルカディ・ベロゾフスキーさん。

画像(ろう通訳者 アルカディ・ベロゾフスキーさん)

ロシア手話と国際手話が分かるアルカディさんのほか、3人の通訳を介してヒラヌマさんと会話していきます。

画像(3人の通訳を介して会話するヒラヌマさん)

ヒラヌマさん:日本を深く感じていました。日本に来ました。ここは私のふるさとです。(ロシア手話)

今回はるばるアメリカから来日し、通訳をかって出たアルカディさんは、実は旧ソ連生まれのユダヤ人です。現地のろう学校に通ったマイノリティーという点でヒラヌマさんと境遇が重なります。

アルカディさん:彼はこれまでアイデンティティをなくしていたんです。子どもの頃から家族のつながり自体がなかった。家族のルーツは失われ、完全に絶たれていた。気の毒です。アイデンティティがなくなってしまったのは私と同じ。すごく苦しい立場だったと思います。(国際手話)

ヒラヌマさん:高波さんと会うなんて思ってもみなかったので、すぐには信じられませんでした。いつになったら日本に来られるのか? 誰も助けてくれないし、教えてくれず、ひとりで悩んでいた。でも高波さんに会えた。信じて待っていました。さまざまなところで発信し、支援してくれた。すごいことになったなと、うれしく思っています。(ロシア手話)

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ヒラヌマさんと高波さん

高波さん:あなたは一人じゃない。日本人の仲間がいる。日本人はみんな、あなたの家族なの。(日本手話)

心のふるさとで得たかけがえのないつながり

日本に来て3日目。ヒラヌマさんは広島にいました。この日は広島のろう者との交流会です。会場には大勢の人々が集まりました。

ヒラヌマさん:日本の皆さんに会えて、とてもうれしく思います。今まで本当に苦しい人生でしたけど、そんなことも忘れて、いま感激しています。ああ、ありがたい。私の周りの人の幸福を心から祈ります。(ロシア手話)

ヒラヌマさんの境遇や来日の経緯、そして日本への思い。その言葉を日本のろう者が受け止めます。

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広島のろう者との交流会に参加するヒラヌマさん

10月27日、ヒラヌマさんに会うために一人の男性が北海道から東京にかけつけました。同じ樺太で生まれた村川健雄さんです。

戦後の混乱を必死に生き抜いた、ろう者の二人。75歳、初めて訪れた心のふるさとで、ヒラヌマさんは心から自分と近しいと感じられる人とつながることができました。

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ヒラヌマさんと村川さん

これまで見過ごされてきた、ろう者の戦後。“故郷”へ思いをはせ続けた人々の重い歴史です。

サハリン“樺太”で生まれたろう者の戦後
(1)75年ぶりの帰郷 村川健雄さん
(2)心のふるさとで見つけた自分のルーツ ヒラヌマ・ニコライさん ←今回の記事

※この記事はろうを生きる 難聴を生きる 2020年1月25日(土曜)放送「サハリン“樺太”で生まれたろう者の戦後」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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